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壊れる、崩れる(文字とイメージ・06)

「こわれる、くずれる(文字とイメージ・05)」の続きです。


コワレル、クズレル


 壊れる、こわれる、コワレル。崩れる、くずれる。クズレル。

 こわれる。コワレル。kowareru――「a」と「k」のせいでしょうか、どこかかん高い。

 くずれる。クズレル。kuzureru――「u」が二つで「z」があるせいでしょうか、どこか低い響きが……。

 イメージは個人的なものです。なかなか人には通じません。

 それにしても、ひらがなのやわらかさとやさしさに対し、カタカナの不気味さとブキミサは何なのでしょう? 見ていると不安になります。

ぽきっ、ぼきっ


「おれる・折れる」と「おる・折る」はどうでしょう。

「心が折れる」は最近よく見聞きします。はじめは異和や違和を覚えましたが、いまではしっくりします。耳や目になじんだのでしょう。

「おれる」は、ぽきっとか、ぼきっと折れる感じがします。長かったり、筋があるものが「折れる」のでしょう。枝が折れるとか骨折みたいに。

「折れる」は、「壊れる」や「崩れる」にくらべて、私たちの体でもリアルにありそうな感じなので、それを連想するとぞっとします。身近なのです。

「裂ける」もそうですね。「折れる」や「裂ける」や「ちぎれる」は体感的な記憶としてよみがえるのです。オノマトペに近い語感がします。

 和語だからでしょうか。漢語にくらべると、和語のオノマトペ度は高いという印象が私にはあります。頭ではなく、すっと体に入ってくるのです。

崩壊


 崩壊。

 くずれて、こわれるのしょうが、漢字で見るとずっと迫力があります。

 くずれて、こわれる
 崩れて、壊れる
 崩れて壊れる

 漢字をまじえると読点が邪魔なくらいです。ひらがなのように音に頼らずに――いったんひらがなから音に変換する迂回がなくて、ダイレクトに意味が目に入ってくる感じ。

 ひらがなは、頭の中で変換が起きるぶん、もどかしいのです。

 漢字は厳めしいのです。いかめしいのではく厳めしい。ひらがなと違って、さっと読むぶんには音の存在感が希薄で、「厳めしい」を「いかめし」(イカめし・いか飯)と誤読することもないでしょう。

     *

 厳めしい、厳格、厳然、威厳。

 漢字は偉そうにも見えます。もったいぶっているのです。

 ゲンカク・genkaku、ゲンゼン・genzen、イゲン・igen。音読しても、厳めしいし怖くもあります。

「ないもの」を「ある」ように見せるのが漢字です。字面、つまり顔が厳めしい。強面(こわもて)なのです。

 私は「無」に「ある」を感じます。「無」には、「ない」に「ないもの」が「有る」のです。

     *

「無」なんて書かれると「ある」を感じてしまうとか、「無」に「ある」がつまっている気がすると言えば、わかっていただけるでしょうか?

    あるあるあるあるある
    あるあるあるあるある
    あるあるあるあるある
    あるあるあるあるある
    あるあるあるあるある
無 = あるあるあるあるある……

 漢字は日本語における、「ない」を「ある」に見せかける文字の体系ではないかと思うことも、たまにあります。

     *

 存在と無
「ある」と「ない」
「あるということ」と「ないということ」

 上の三つのフレーズをくらべてみると、存在と無がいちばん存在感が「ある」と言えそうです。「ある」感じではなく、存在感が、です。

 ただし、あくまでも「感」ですから、その語が指し示す「何か」とは関係ありません。「らしさ」とか「っぽい」と同じです。

ゲシュタルト崩壊


 ゲシュタルト崩壊

 発音してみてください。字面をガン見してみてください。

 意味不明であったり意味不在であったりするカタカナ語は、もっともらしいものです。ゲシュタルトの原語はドイツ語の Gestalt だそうです。ドイツ語経由だと厳めしくも感じられます。

「ゲシュタルト(ドイツ語経由のカタカナ語)+崩壊(漢語)」ですから、「いかめしさ」ではなく「厳めしさ」がいや増します。

 以下の又吉直樹さんのポスト(元ツイート)を読んだときには、その言語感覚の鋭さに敬意を覚えたものです。確かにド派手なネーミングに感じられます。

内容は、ないよう


 ゲシュタルト、ザイン、ダザイン、テーゼ、アウフヘーベン。

 ドイツ語をカタカナにすると濁音が目立って「ごちごち」した感じがします。厳めしいのです。日本語における漢語に匹敵する物々しさを覚えます。濁音のせいでしょうか。あと、字面も。

 シニフィアン、シニフィエ、エクリチュール、パロール。

 フランス語をカタカナにすると「ほわーん」とした感じがします。厳めしくはありません。私の印象を正直に言うと泡みたいなのです。鼻に抜けていく鼻母音のせいかもしれません。あと、字面も。

 『存在と無』(日) がちがち
 L'Être et le néant(仏) ほわーん
 Being and Nothingness(英) で?
 Das Sein und das Nichts(独) ごちごち
 El ser y la nada(西) さらさら

 言葉における発音と綴りの印象は大きいと痛感します。もちろん、以上は日本語を母語とする、或る阿呆の印象であって、各言語を母語とする人たちの語感(一様ではないだろうと想像します)については知りません。

     *

 高校生のときに神田神保町で英訳の『Being and Nothingness』を見つけたときの失望感を今も鮮明に憶えています。

「うっそー、サルトルさまの『存在と無(「ソンザイ」ト「ム」)』が、中学生でも知っている単語の「ビーイング・アンド・ナッシングネス」だって? せめて、Existence and Non-existence にしてよ-」、生意気にも、こんなふうに感じました。

 人形は顔が命、言葉は字面が命。

 面(つら)が第一なのですから、まるで内容なんて、ないようです。刺身のつまなのです。

大和言葉


「うっそー、サルトルさまの『存在と無(「ソンザイ」ト「ム」』が、中学生でも知っている単語の「ビーイング・アンド・ナッシングネス」だって? せめて、Existence and Non-existence にしてよ-」、生意気にも、こんなふうに感じました。

 上の体験から半世紀以上経った今、私は正反対の気持ちでいます。

     *

 私の記事をご覧になるとわかると思いますが、(その多くは学術用語や専門用語ですが)漢語とカタカナ語はあまりつかいません。

 上の「崩壊」と「ゲシュタルト崩壊」という見出しの章に書いているように、積極的に漢語とカタカナ語をつかう気にはなれないのです。つかいたい場合には、自分なりに和語で言い換えます。

 詳しいことはここでは書く余裕がありませんが、現在の心境を言うと、大和言葉や和語と言われている言葉がいちばんしっくりします。

 頭と言うよりも体にすっと入ってくれるのです。これはとても大切なことだと思います。

     *

 そんなわけで、漢語とカタカナ語に満ちた文章、とりわけ翻訳書はずっと読んでいません。

 ある種のジャンルですと、英訳を読むことが多いです。そんなわけで、X(旧ツイッター)では英語でポスト(旧ツイート)されるアカウントをフォローして情報収集をしています。

 フランス語やドイツ語が苦手だということもありますが、もともとフランス語やドイツ語で書かれた文章は、英語で読んだほうが、上で述べた漢語の厳めしさや、カタカナ語の空虚なもっともらしさを感じないのです。

     *

「欠ける、書ける、欠ける」でも書きましたが、モーリス・ブランショの文章は英訳のほうが読みやすく(「わかりやすく」ではありません)感じます。以下のポストにある英訳では、たとえば、absence、time、nothing、being、loss、lacking と言った語を頭の中で日本語に置き換えないことがコツです。

 dialectical  は dialect や dialogue から類推して読んでいます。英和辞典には語の「意味」ではなく(意味は見えません)、定着した「日本語訳」が並べてありますが、その面構えが厳めしい場合には、ガンを付けられたくないので、目を合わせないようにしています。

 あと、英語の文章を読んでいて、日本語における漢語に当たるラテン系の単語(とっつきにくいのです)が出てきたときに、私は Oxford Advanced Learner's Dictionary と Collins COBUILD Advanced Learner's Dictionary をよく利用します。

 前者では、語義として、日本語の和語に当たるゲルマン系の単語に置き換えてある場合があって助かります。また、例文がとても良く、例文から意味がすっとわかることも珍しくありません。

 後者の語義は非常にユニークなもので、「If you ……」 のように、you を主語にし具体的な状況として、その語を定義するのです。とてもわかりやすい説明になっていていつも感心します。

 ある英単語の日本語訳を回避したいときに便利です。英語の学習者向けの辞書は、総じてよくできていると思います。

    *

 話を戻します。

『存在と無』ですが、今の私の語感では、必要以上に厳めしすぎる気がします。

「「ある」と「ない」」、「「あるということ」と「ないということ」」、もう少し立ち入って「「(で)あるということ」と「ないということ」」くらいの語感の文章でかまわないというか、おそらく原語のフランス語でも、それくらいの語感で書かれているのではないか、と想像しています。

『Being and Nothingness』――今の私にはしっくりくるタイトルです。原語が「ほわーん」ですもん。

『存在と無』(日) がちがち
 L'Être et le néant(仏) ほわーん
 Being and Nothingness(英) で?
 Das Sein und das Nichts(独) ごちごち
 El ser y la nada(西) さらさら

     *

 マルティン・ハイデッガーによる例の著作の英訳名は『Being and Time』です。 

 私の語感だと「「あること」と「とき」」ですが、さらに言うなら、「「そこに物があるということ」と「そこで時が流れているということ」」です。「存在と時間」ではなく。

 語感が人それぞれなのは言うまでもありません。私は押し付けるのも押し付けられるのも好みません。

 語感には互換性がないだろうと私は思います。ひとりひとりの人生が違っているからです。これは掛け替えのないひとりひとりの五感におそらく互換性がないのと同じです(たとえ知覚器官に互換性があるとしても)。

言葉を転がす


 私は言葉を転がすのが好きです。趣味と言ってもかまいません。

 言葉を転がすというのは、たとえば以下の記事でやっているようなことです。太文字の部分だけを、ちらりと見てください。動詞が並んでいるところです。読む必要はありません。

 次の記事だともっと短いので読み流しやすいと思います。

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 今の私は、そうやって大和言葉を転がしているときがいちばん幸せです。大和言葉を転がす利点は、寝入る前の夢うつつの状態でもできることです。

 漢語のように文字化する必要はあまりありません。頭のなかで文字化(視覚化)するのは、けっこうやりにくいものです。だいいち、頭が冴えてきて眠れなくなりますし。

 大和言葉だと、唱えるとか歌うようにして、口のなかで転がすことができます。
すっと出てきて、すっと入ってくれるのです。何かが入り何かが出ていく感じはしますが、それが文字だという思いは希薄です。

 言葉はさておき、文字は物、さらに言うなら異物とか外物に感じられます。

 もしも、もしもですよ、こうやって言葉を転がしながら壊れていったり、崩れていくのなら、喜んで受け入れたいと思います。もう、そうなりつつある気もします。

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