『雪国』終章の「のびる」時間
『雪国』の終章では二つの時間が流れています。「縮む時間」と「のびる時間」です。「縮む時間」については「伸び縮みする小説」と「織物のような文章」で詳しく書きましたので、今回は「のびる時間」に的を絞って書いてみます。
ここからはネタバレになりますので、ご注意ください。
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「のびる時間」というのは、火事になった繭倉の二階から葉子が落下する瞬間が、くり返し描かれるという意味です。
映画で考えてみると分かりますが、一瞬をスローモーションで何度も映せば、そこそこの長さの映像になります。つまり一瞬が引きのばされているわけです。
この落下の場面では、さらにもう一つの「のびる」があります。疲れてぐったりした状態を「伸びる」と言いますが、落下する葉子はまさに「伸びている」のです。伸びた状態、しかも、なぜか水平に伸びた姿勢で落ちるのです。
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「水平に伸びた女の体で」というフレーズがじっさいにつかわれてもいます。もっとも、このフレーズでの「伸びた」は気絶したという意味ではなく、文字どおり水平に伸びているという体勢を記述したものなのですけど。
落ちた以後の葉子は気を失っている――作品では「失心」という言葉がつかわれています――わけですから、意識はなく眠っているのに近いとも言えます。
ここで、ある連想が起きます。
ところで、本記事は、「葉子を「見る」「聞く」・その1(する/される・04)」のつづきです。連載という枠が窮屈になってきたので、枠をはずしての続編としますので、どうかご理解をお願いします。
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『雪国』の冒頭では、葉子が島村から一方的にその姿を見られ、声を聞かれる対象になっています。今回は、この作品の終章で、葉子が島村から見られるシーンを見てみます。
さきほど述べたように、興味深いのは作品最後の葉子の状態です。島村から一方的に見られている点では冒頭の汽車の場面と同じなのですが、ラストのシーンで葉子は火事の起きた繭倉の二階から落ちて気を失っている点が異なります。
さきほども言いましたが、ここで、ある連想が起きます。引きのばして、ごめんなさい。
この意識のない状態で島村に見られている少女葉子は、のちの『眠れる美女』で眠らされたまま老人から見られ触れられる少女たちと重なります。重なるというよりも、予告しているとも言えそうです。
前置きが長くなりました。では、さっそく本文に入ります。
◆「縮む時間」と「のびる時間」
最初に『雪国』の終章に流れている「縮む時間」と「のびる時間」を簡単に説明します。終章全体の要約も兼ねています。
*「縮む時間」:終章の前半に流れる時間。
縮(縮織)の長い歴史が縮めて(圧縮して)つづられる(縮織に詳しい先人の書いた資料を参考にして語られる)。さらに、縮を産地に足を運ぶ島村のそこそこ長い時間も簡潔に縮めて記述してある。ゆったりとした時間が流れている。
(※なお、「縮む時間」というのは、縮織の話だからというわけではなく、たまたま掛詞になっているだけです。)
*「のびる時間」:終章の後半に流れる時間。
1)クライマックスでは、映画を上演していた繭倉が火事になり、その二階から葉子が落ちる。その落ちる瞬間が何度もくり返して描写される。つまり、一瞬が引きのばされる。映画のスローモーションに近い。スローモーションは一瞬をゆっくりとした時間に加工する(編集する)技法にほかならない。
2)島村と駒子が「火事場」へと駆けつける比較的短い時間も、引きのばされて描かれている。どうやって引きのばすのかというと、天の河の描写を執拗にくり返すからである。この天の河の描写は読者をじらしているとも取れる。サスペンスを盛り上げているのかもしれない。
3)火が移り「のびる・延びる」。延焼。
4)繭倉へと急ぐ島村と駒子とともに宙づりにされた(サスペンドされた)読者は、一瞬の出来事が何度もくり返して引きのばされるラストのクライマックスへと導かれ、そこでもサスペンドされることになる。
5)なぜか、葉子は「水平に伸びた」状態で落ちる。
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ところで、
そう「しよう」とするのではなく、そうなって「しまう」――。これは、よくあることです。
すると、くり返そうというよりも、くり返してしまう、ということが起こってしまいます。
*
話をもどします。
以上、時間の処理を中心にまとめると、終章はこうしたつくり(構造)になっていると私は思います。
◆執拗で不可解な反復
終章の後半で私がいちばん目を惹かれるのは、何度もくり返される(引きのばされる)天の河の描写ではなく、何度もくり返し描写される(引きのばされる)葉子の落ちる瞬間です。
この落下の場面のくり返しは、それぞれの描写が映画のスローモーションのように「のびる時間」のなかで展開されています。何度も描かれるのですから、ある意味しつこいのです。
一瞬に起きたはずの葉子の落下が、引きのばされてゆっくりとした動きとなる。それだけなら小説の描写として納得できますが、これがこれだけくり返されるとなると、不可解とか不自然に感じる読者もいるでしょう。
ぎゃくに、その執拗なくり返しに魅惑され説得力を覚える人もいるにちがいありません。
私には、この作品では、上の余談で述べた「くり返すというよりも、くり返してしまう」、さらには「書くべきものを書いてしまう」が起きているように思えてなりません。
みなさんも、物をお書きになっているときに、そういうことを感じる瞬間がありませんか? 簡単に言えば、「弾みがつく」とか「勢いにまかせる」であり、また「無心」や「忘我」でもあるでしょうし、語弊を覚悟で言えば「魔が差す」感じです。
◆映画を意識した書き方
火事になった繭倉で臨時に映画が上映されていたのは興味深い符合です。これは川端の計算だと私は理解しています。
なにしろ、『雪国』の冒頭の汽車の場面でも、映画を意識した書き方がなされています。
なお、言葉から成り立っている『雪国』という小説において、映像で成り立っている映画というジャンルがどのように意識されているか、また映画が比喩としてどう機能しているかについては、前述の「伸び縮みする小説」と「織物のような文章」に加えて、以下の「夢のからくり」でも触れていますので、興味のある方はぜひご覧ください。
◆フィクション、脚色、編集
火事になった繭倉の二階から葉子が落下する――。これが終章のクライマックスです。
このクライマックスの最大の問題点は、落下が一瞬の出来事であることです。
いま問題点という言葉をつかいましたが、私たちは、現実に起こった事故の報告書(ノンフィクションであるドキュメンタリー)を読んでいるわけではありません。
フィクションである小説では一瞬の出来事はいくらでも加工できます。いま私たちが読んでいるのは、加工されたフィクションである点を、ここで確認しておきたいと思います。
というのも、この小説では、その加工と編集が心憎いまでに見事におこなわれているからです。その技巧(テクニック)を味わってみようではありませんか。
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小説であれ、映画であれ、お芝居であれ、フィクションである限りは、脚色がなされ、編集されなければなりません。誇張があるのは当然であり、面白くする必要があります。
ただし、読者や観客に不自然だと思われてはなりません。不自然な脚色だと読者や観客はしらけます。「あほらしい」と思って読むのを中断したり、あくびをしたり、他のことを考えたり、場合によっては席を立つ人もいるでしょう。
小説も映画もお芝居も商品なのです。読む人や観る人はお金を払っているのですから。
◆スローモーション、くり返し
映画であれば、ある瞬間を一回だけスローモーションで映し、さらにそれを異なった撮り方をした絵のスローモーションでさらにくり返すという編集になるでしょう。
そうすれば、観客はその「一瞬」を楽しんでくれるはずです。
そのためには一瞬を「のばす・伸ばす・延ばす」必要があります。必要というよりも必然なのです。
順を追って見ていきましょう。
*1)事実を述べる
「女の体が落ちる」瞬間が、「人垣」にまじった視線から簡潔に「見た」と描かれています。あっけないです。
当然のことながら、これで終わるわけにはまいりません。なお、「女」とあるのは、視点的人物である島村は、落ちたのが葉子だとは知らないからです。
*2)一瞬を引きのばす
太文字の部分を見ていくと、この段落で、「落ちる」様子がアングルや視点を変えて何度も説明されている過程をたどれると思います。
瞬間を何度も説明するというのは、瞬間をくり返し違った角度からスローモーンで追っているのと同じです。一瞬を何度も引きのばしていると言えます。
キーワードは「失心」でしょう。
◆言葉はつねに、おくれる、おいつけない
上で引用した 2)について付け加えたいことを述べます。
この段落に書かれているのは描写と言うよりも、状況の説明ではないでしょうか? とはいえ、川端を責めることはできません。一瞬の落下を一回で描写できるでしょうか?
いま私たちが読んでいるのは言葉であり文字です。映画で映像を見ているのではありません。
じつは、文字は(ひいては言葉は)、動きを描写するのが苦手なのです。描写しようとしても言葉が動きに追いつけないからです。
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いま「追いつけない」と言いましたが、まず言葉が現実を描写するには圧倒的に言葉の数が足りません。言葉と現実は一対一に対応していないし、対応できないという意味です。
数的または量的に足りない――そもそもパーツの数が絶対的に足りないし全体を構成する(組み立てる)ためのピースが無数の細部で欠けている(つまり、まばらで、まだらで、すかすか)――だけではありません。
テレビのスポーツ中継を思い浮かべてみてください。一瞬の動きに遅れ、一瞬の動きの後に、必死で言葉を連ねるしかないのです。これがラジオであれば、つねに事後報告の形を取ります。
言葉は、つねに、おくれる、遅れる、後れる。おいつけない、追いつけない。おえない、追えない、終えない。出来事に先立たれるしかない。
現実に対して、言葉はないない尽くしの状況に置かれているのです。圧倒的に「足りない」し「欠けている」し「追いつけない」、つまり、ほぼ「ない」のです。
これが言葉による描写の限界です。感じ取っていただけたでしょうか。
◆描写、説明
描写は無理でも、説明する(語る)ことならできます。
火事になった繭倉の二階から女が落ちた――。
これは事実を述べただけで描写したとは言えません(言えるという人もいるでしょう、人それぞれです)。この文を早口ではなく音読してみてください。何秒かがかかるでしょう。
二階から女が落ちた――。女が落ちた――。落ちた――。
これなら一瞬でしょうが、じっさいに人が二階から落ちるとすれば、数秒はかかるはずです。
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何を言いたいのかと言いますと、言葉は描写するのに意外とちんたらしていたり、そのぎゃくにあっけないし、そっけないということです。つまり、もどかしいのです。
ようするに、言葉は映像に負けるのです。言葉(文字)は動きをリアルタイムで表現することができません。適さないとも言えます。
そんなわけで、上の 2)では作者が必死で映像に負けまいとして、説明を重ねていると私には感じられます。川端先生、生意気なことを申しまして、ごめんなさい。
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「があったかのように見えた。」、「のせいかもしれない。」、「していると分った。」、「落ちたのだった。」
以上の語尾に注目すると、この段落が描写というより説明を重ねたつくりになっているのが分かるかもしれません。とはいえ、人それぞれです。
さらにくり返しがつづきます。
◆言葉のほうが有利な点
言葉は映像に全敗かというと、そんなことはありません。言葉と映像の関係は、そんなに単純な話ではないのです。
ちなみに私は言葉派であり、ばりばりの文字派です。そもそも私は映像派とか音声派という柄ではありません。映画は苦手だし、重度の難聴者でもあります。
話をつづけます。
*3)客観的な描写と視点の心理
ところで、ルビの振られた「弓形」はいい字面をしていますね。漢字からなる姿もいいし、ルビのひらがなを見て音読すると、yuminari の子音が、母音に伴われてしなやかになめらかに唇と舌にからんできて、「弓形」という言葉の意味(イメージ)と形が音に擬態しているかのような印象を受けます。
思わず見とれてしまいました。自分が言葉のフェティシスト(fetishist)だとつくづく感じる瞬間です。
この辺については「意味を絵で見せる漢字、意味を音で奏でる仮名(好きな文章・05)」をご覧ください。ややマニアックに説明しています。
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話をもどします。
引用文で太文字の部分だけは、客観的な(ほぼ誰の目にも明らかなという意味です)描写です。
ところが、この段落では、島村の目から見た描写というか説明がかなりの部分を占めていいるのです。
ここが映像にくらべて言葉のほうが有利な点にほかなりません。
どんなふうに落ちたかを詳しく、しかも受け手の感覚や心情にうったえる形で描く(うつす)には映像は適していないのです。
心のうちを映像に「うつす」ことは至難の業であり、不可能に近いと言えます。言葉でなら「かたる」という形で共感を求めることができます。
具体的に見てみましょう。
・島村はどきっとしたけれども、とっさに危険も恐怖も感じなかった。非現実的な世界の幻影のようだった。
女性が繭倉の二階から落下したのに、島村はこのように受けとめているのです。つまり、島村の心のうちです。
この部分に川端の「美学」を感じる人もいるにちがいありません。まさに非現実的なのです。ある意味シュール(超現実的)でもあります。
とはいえ、非現実や超現実にリアリティ(現実感)もあることは確かです。というか、むしろ文学はその一見矛盾した感覚に訴えるのです。人間の心は素直なものではないのです。
この箇所を読んで、冷酷とか残酷だとも感じる人もいるでしょう。絵空事だという意見があっても私は驚きません。
・しかし、人形じみた無抵抗さ、命の通っていない自由さで、生も死も休止したような姿だった。
「人形じみた無抵抗さ」と「生も死も休止したような」は、後に川端が書くことになる『眠れる美女』を予告している。そう私には思えてなりません。
というか、文筆活動をはじめた頃から、川端にはそうした傾向――物言わぬ相手や対象に一方的にかかわるという形を取ります――があったと私は想像しています。
この点については、「人というよりもヒト(する/される・03)」という記事で、初期の作品から晩年の作品を概観していますので、よろしければご覧ください。
*エスカレーション
ここで、これまで私がもちいてきた図式的な見立てをご覧ください。
・『雪国』(1948年・完結本出版)
一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く。
↓
・『眠れる美女』(1961年・出版)
一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く、一方的に相手のにおいを嗅ぐ、一方的に相手に触れる、一方的に相手の体内へ自分の体の一部を差し入れる。
こうしたエスカレーションが見られるのというのが私の見立てです。
なお、この種の創作上のエスカレーションもまた、そう「しよう」としているわけではなく、そうなって「しまう」のではないかと最近思っています。
*人形という比喩
・島村に閃いた不安と言えば、水平に伸びた女の体で頭の方が下になりはしないか、腰か膝が曲りはしないかということだった。
これは、落下した女性ができるだけ無傷のままでいてほしいという気遣いでしょうか? 「不安」という言葉は気遣いや気がかりとは隔たっている気がしますが、この辺の解釈はさまざまでしょう。
この直前の「人形じみた無抵抗さ、命の通っていない自由さで、生も死も休止したような姿だった。」との呼応(つづき具合)が鍵だと私には思えます。
とくに「人形(じみた)」という比喩が……。人間として見ていないと言えば言い過ぎかもしれませんが。
どうしても、上の見立てで見てしまいます。はっきり言って、この部分は私には怖いです。
無傷のままでいてほしいことは確かでしょうが、その意味は、ここでは何通りかに取れそうです。曖昧な言い方になりましたが、お察しください。
*
一読者をここまで考えさせるのは、言葉で綴られた作品だからです。映像に、このような微妙な心情というか機微を感じさせる力があるでしょうか。
念のため言い添えますが、媒体間やジャンル間の優劣を語っているのではありません。言葉には言葉の、そして映像には映像の、さらには音楽には音楽の、得意分野があると言いたいのです。
逆に言うと、それぞれの媒体とジャンルでもちいる素材と道具の特性を熟知した作り手が、優れた作品をつくるのにちがいありません。
◆ラストへ
長い引用がつづいたので、ここからは要所だけを引用しながら端折って進めます。
*葉子だと分かる
葉子だと分かったことに関する記述は意外とあっさりしています。
*腓の痙攣
「痙攣」という言葉が各行にあるほどくり返されていることに、注目したいです。
*移り目
仰向けに落ちた葉子は、腓が痙攣しただけで失心したままらしかったと語られたあとにつづく文です。この「移り目」が気になりますが、私には意味がよく分からないセンテンスです。分からないだけに気にかかるという意味です。
とはいえ、「変形」と「移り目」は見逃せない言葉です。変化が起きているとすれば、それは葉子というよりも一方的に見ている側の島村のほうでしょう。島村は一方的に見る人間として描かれているからです。
*閉じた目、伸びた首の線
落下した葉子の状態を整理します。
仰向けで目を閉じています。首の線が伸びています。
眠っているのと起きているの中間のような曖昧で不自然な姿勢に感じられます。その曖昧さは「移り目」とも通じるような気がします。私は操り人形を連想しました。上から糸で操って動く形の人形です。
さきほど出た「人形じみた」というフレーズを思い起こさせる姿勢です。
*回想、フラッシュバック
・あごを突き出して、首の線が伸びていた。
これは仰向けでの姿勢ですが、この作品の冒頭の汽車の場面も連想します。
以上のシーンを思いえがくと、立った状態で身を乗りだし、「あごを突き出して、首の線が伸びて」いるような気がします。たぶんに私の思い込みでしょうが。
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だからというわけではぜんぜんありませんが、いきなり段落が変って、「数年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会いに来る汽車のなかで」(p.172)の葉子との出会いの回想になります。
この回想は作品を締めくくるにあたっての重要な箇所だと思います。映画だとフラッシュバックに当たります。
短い回想ですが、この部分があるとないとでは、最後の印象がまったく違ったものになるでしょう。
ぜひ、原文でお読み願います。涙もろい私は、この回想の挿入で泣きそうになります。
「失心」しているのでしょうが(果たしてそうなのでしょうか?)、葉子が何も言わないし動かないだけに、悲しいです。
*葉子に駆け寄る駒子
「戻ろうとした」「葉子の昇天しそうに」という未完了の表現が、読者を宙づりにするかのようです。
進行形であり未完了なのです。読むほうはいらいらするでしょう。「で、どうなるの?」「だから、どっちなの?」というふうに。
もう数行で作品が終わるところで、読者はじらされているのです。この展開はうまいと言えばうまいでしょうし、人が悪いと言えば悪いでしょう。
この曖昧な宙づりは不可解だし不自然とも言えます。とはいうものの、読者は「ああ、そうですか」と受け入れるしかありません。夢と同じです。
夢のなかでは、こうした不自然さが自然に進行していきます。夢には肯定しかないからです。 ⇒ 「葉子を「見る」「聞く」・その1(する/される・04)」
それにしても、取り乱しながらも駒子はしかるべき動きをし、そしてまわりにいる「男達」は冷静に状況を把握して行動しているようなのに、島村はといえば、ひたすら一方的に見る存在として描かれています。
文字を目で追うしかない読者は、夢のなかの出来事をながめている気持ちになります。読者は夢のなかに置かれるのです。
*流れ落ちる
最後の部分を丸ごと引用するのは、さすがに気が引けるので、ラストのセンテンスだけを写します。どうか、原文でお読みください。
よく引用される有名な一文ですね。以下の部分との呼応が見られます。繭倉のそばまで来た島村と駒子の目の前で、火移りした屋根から火の子が噴き上がる場面です。
この段落に「天の河」が五回くり返されているのは、二回くり返されている文が二つあり、最後の一文にも一つあるからです。「火の粉」ではなく「火の子」、「天の川」ではなく「天の河」という表記にも目がいきます。そして、私の大好きな「映る」があります。
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ところで、天の河が、p.170では「さあっと流れ下りて来た」とあり、p.173にある最後の一文では「さあと音を立てて」「流れ落ちるようであった」とあります。私はこの違いに目を惹かれずにはいられません。
前者は心的な情景ですが断言口調であり事実の記述に近いと言えます。後者も情景ですが「ようであった」と一歩退いた形で描かれています。余韻を感じさせます。
「さあっと」は擬態と言えそうです。事実の記述、つまり描写にふさわしい擬態語でしょう。
「さあ」も擬態と取れますが、「さあ、……しよう」や「さあ、……ですよ」というときの口調に似ています。事実の記述、つまり描写にはふさわしくないという意味です。
とはいえ、「さあ」はラストにふさわしい口調ではないでしょうか。「踏みこたえて」も、そんなニュアンスと印象を後押しするかのようです。
さあ、夢は終わりですよ。そんなふうに言われているような気がしてなりません。
この「さあ」は擬態というよりも擬人ではないでしょうか? 説明させてください。
*「さあっと」と「さあと」
・天の河がさあっと流れ下りて来た。(p.170)
・さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。(p.173)
・さあと天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。(引用者による変更あり)
・天の河が島村のなかへさあっと流れ落ちるようであった。(引用者による変更あり)
川端先生、文言を勝手にいじって申し訳ありません。
先生、私には「と音を立てて」が生きている気がします。天の河が話しかけているというか、天の河の声音が感じられるのです。
さあと声をかけて天の河が島村のなかへ流れ落ちて物語が終わるような印象を受けます。
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終章では、「天の河」という言葉が頻出します。数えたことはありませんが、かなりの数になるでしょう。
これだけくり返し「天の河」が描写され言及されているのですから、ラストの一文にもある「天の河」という言葉の、この作品でのありように目を注いでもいいような気がします。
機会があれば目を注いでみようと思います。ひょっとすると、私もこの「夢」につられて、そうして「しまう」かもしれません。
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ここまでお読みいただき、どうもありがとうございました。
「のびる時間」のなかにいるのは意外と疲れますね。
さあ、これで夢は終わりました。
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