振り(線状について・04)
誤っても謝らない、つまりブレない人が上に立つ社会は生きづらい。生きづらいどころか恐ろしい。ブレないリーダーの体裁や辻褄合わせに、人びとが付きあわされて、ブレたり迷うことができなくなる。迷う権利を行使できなくなる。
前回は、そういう話をしました。
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誤っても謝らない。ブレない、揺れない、振れない、迷わない――。
これは、詳しく言うと次のようになります。
誤っても誤ったと認めるわけにはいかないから、謝らない。ブレたり、揺れたり、振れたり、迷った素振りを見せてはならない――。
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ようするに、振れた振りをしてはならないのです。
大切なのは振りなのです。なんと言っても振り。
振りとは、やってる感だけとか、スピード感をもってというときの「感」であり、○○らしいの「らしい」、○○っぽいの「っぽい」だといえば、実感しやすいかもしれません。
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実体とか実態なんて(そんなものがあればの話ですけど)、関係ありません。
レストランのウィンドウに並んでいる食品サンプルを見てお腹が鳴るとか、雑誌の写真やネット上の動画を見て、そそられる(もよおす)場合を想像すると、これまた実感しやすいかもしれません。
それが「振りだけ」なのです。
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リアリティや臨場感に、実体はかならずしも必要ではない。これがもっとも大切な点です。振りには実体が要らないのです。
素振り、身振り、手振り、口振り、顔振り。フリフリ。
知らんぷり、知らん顔、厚顔無恥。鞭をフリフリちいぱっぱ。地位ぱっぱ。
ある意味、怖い歌です。
歌詞をよく読んでみると、私はこんな学校にはいたくありません。世界ではこんな状況に近い集団がたくさんあります。
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振りは時として美しいです。死ぬほど――死ぬ人もきっといるでしょう――美しい。振りに、みんなして酔うのです。
かた、型、かたち、形、すがた、姿、うつり、移り、写り、映り、映え、栄え、生え、ながれ、流れ、うごき、動き、様式、スタイルーー様式美。
こうしたすべての要素が納められている、虚ろな器が、振りなのです。
酔う、酔い痴れる。痴れる。
大切なのは、振りは虚ろな器であることです。中身、実体、実態、内容とは関係ありません。あくまでも外観と外見であると言えばイメージしやすいかもしれません。
なお、上の動画では、手を振る身振りがたくさん出てきます。手振りは手軽で手っ取り早くできる振りだからでしょう。たしかに立っていても座っていても横になっていてもできそうですから、手振りは振りの基本型と言えそうです。
【※今回の記事は動画が多いです。必要に応じて、はしょってご覧ください。だいたいのイメージがつかめればよろしいかと思います。スキップなさっても、いっこうに差し支えはありません。】
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振りの最大の特性はすぐに消えることです。振りはつぎつぎと消えていきます。真似る、模倣する、反復することでしか、残らないのです。
模倣、反復、継承。
まねる、まねぶ、まなぶ。真似る、学ぶ。
ならう、なれる、なじむ、しむ。習う、倣う、慣れる、馴れる、狎れる、馴染む、染む、沁む、浸む、滲む。
こうやって言葉と文字の身振りを見ていると、振りが、くり返されることで最終的に身体にしみいるさまが実感できます。
だから、恐ろしいし、美しいし、尊いし、儚いと言えます。儚には夢が見えます。人+夢。夢夢とは夢うつつのぼんやりとした状態らしいです。
ささやかな陽炎が蜃気楼になる。規模が増していき絢爛であればあるほど、振りは蜃気楼に酷似していきます。
振りを美しく撮る方法があるようです。振りの振りを切り取り編集するみたいです。
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振りだけ。実体や実態は要らない。
振りというのは、本人や当事者にとってはマジであっても、端から見ると滑稽であることに注目したいです。
私はゴーグルをして仮想現実を楽しんでいるところを、ゴーグルをしていない人、つまり当事者ではない第三者に見られたくありません。
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振りは、共振する人がいて成立します。振りはともぶれ(共に振れる)があってなんぼなのです。
その意味では、振りはギャグに似ています。いや、振りはまさにギャグなのです。それでは身も蓋もない言い方だということであれば、プレイでもいいでしょう。
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play という身振りは、見る側や相手がいて成立します。
play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。
ようするに、振りをしているのです。振りを、流れや筋や進行と言い換えることもできるでしょう。
振りは見る人や相手がいて、その振りに反応することではじめて振りになります。その反応とは、いっしょに振れる、ともに振れる、ことにほかなりません。
見ている側(振れている側)の身体が、振れを見て、それに合わせて振れる、揺れる、ぶれるのです。
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振れる、いっしょに振れる。振りに振れる。
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人形劇を見ていたり、読み聞かせをしてもらっているこどもたちに、正解があるでしょうか?
振りに正解はありません。その意味で、振りは「伝わる」ものであっても、「通じる」とは異なる次元にありそうです。通じないのであれば、振りは迷うとほぼ同じ振りをしています。
これは、こどもかおとなかにかかわらず、言えるだろうと思います。
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人は迷った振りもできるし、迷っていない振りもできます。振りは迷う権利だとも言えるでしょう。迷う権利は誰にでも等しく与えられています。
迷う権利は、それを行使している振りも行使していない振りもできるくらい、誰もが平等に有している権利とも言えそうです。
振りは無意識とか無自覚でもあるでしょう。もちろん、自覚も意識もできるでしょう。それも振りであることは言うまでもありません。
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断片的な映像ですが、次の動画を見て、迷う振りも迷わない振りもできるでしょう。
「さっぱりわからない」、「おもしろくない」、「難解だ」、「傑作だ」、「さすが」、「おおいに刺激を受けた」
どれもが振りです。振りの内容は確認できません。共有することならできます。振りを真似て反復する。これが共有です。
おそらく、振りは共有される、つまり模倣され反復されるためにのみ、演じられるのです。振りは、くり返されることで伝わりますが、通じるとは限りません。その意味で、振りは賭けなのかもしれません。
「アラン・ロブ=グリエ」はハッシュタグを付けると反映されないのですね。残念。「ジャン=ポール・サルトル」は「サルトル」でタグ付けして大丈夫なので、不公平感があります。等号の「=」は不平等ですね。等号なんていう記号の振りに惑わされはいけません。
冗談はさておき、記号もまた虚ろな器(外見と外観だけ)です。なにしろ、振りのチャンピオンである人のつくった振りですから。記号(文字をふくめて)という振りについても、近いうちに書くつもりでいます。
人は直線上で迷う。
収納のために巻かれますが、映画もまたフィルムという線状というか帯状の物である点に注目したいです。
フィルムは直線状の迷路にちがいありません。迷って当然なのです。
(つづく)
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