や ゆ よ
小学校に入ってまもなく、教室に掛けてあった表を授業中によく見ていました。先生の話にあきて、よそ見をしていたわけです。
その表全体を見ていたのではなく、ある部分をよく眺めていました。
や ゆ よ
らりるれろ
わ を
ん
なんであそこがあいているのだろう? なんであれだけがひとりぼっちなのだろう?
横書きではなく縦書きの表でしたが、特に気になったのは「や ゆ よ」でした。
*
黒板のまん前から聞こえてくる話にはあきる。黒板の横の壁に掛かっている表を眺めているうちに眠くなる。必死に目をあける。すると、あいたところが、ぽっかりあいた穴や、あんぐりとあいた口に見えてくる。
そんなことを思いだしている老いた今の私は、いろんなことにあきてきたからか、知らず知らずのうちに口をあけています。
ひらがなだけの世界にもどりたい。そんなふうに思うのは、こども返りというのでしょうか。
*
や ゆ よ
やはやむのや
止む、已む、罷む、病む、病み、止み、闇
ゆはゆめのゆ
夢、夢路、夢現
よはよるのよる
夜、寄る、頼る、揺る
もう、ひらがなだけの世界にもどるのは無理なようです。
*
よるべない闇のなかでは寄り掛かるものがありません。そのため、寝入る前に言葉を転がすことがあります。眠りに就く前の儀式なのです。
とっかかりのないところで取り掛かるものをさぐるわけですが、私の場合には、言葉と文字の記憶しかありません。
夢路をたどるまえに記憶をたどるのです。
夜見、読み、詠み、黄泉
黄泉は闇から転じたとか、山から転じたという辞書の記述がよみがえります。そうすると、闇と夢と夜と山と黄泉がつながります。
よみがえる、よみからかえる、甦る、蘇る、呼び覚まされる、呼び起こされる、呼び出される、というわけです。
*
ひたすら言葉を転がしつづけます。
寄るは因るを呼ぶ
夜の闇は夢を喚ぶ
やみ、ゆめ、よる
や ゆ よ
闇 夢 夜
そうやって、寄り掛かり、呼び掛け、詠み掛け、掛ける、架ける。すると、やって来ます。
闇おりて 夢にうつろう 夜の山
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掛ける、言葉を掛ける、言葉の音を掛ける、文字を掛ける、文字の形を掛ける、すると書ける。
欠けるが書けるに転じ、ないがあるに転じます。はしにいてはしからはしへとはしをかける感じ。
寝際に、よるべきものは、言葉の記憶しかありません――。ねぎわはいまわのリハーサルなのかもしれません。
ふちからふちを覗きこむ。
*
言葉を掛けることは、きわに立つこと。へりに身を置くこと。
ふちからふちを覗きこむ。
なんであそこがあいているのだろう? なんであれだけがひとりぼっちなのだろう?
深くて暗い穴を覗きこむ。いや、はしから彼方に向ってはしをかけるのです。そのうち、やって来ます。