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振りをする振り、語ることで騙られてしまう



Ⅰ. 引用


だから、「古典主義時代」にあって、「語るなり書くなりすることは、物を言いあらわしたり自己を表現したりすることでも、言語をもてあそぶことでもない。それは、命名という至上の行為へと進むこと、物と語とが物に名をあたえることを可能にする共通の本質のなかで結ばれる場所まで、言語をつうじて赴くことなのだ。だが、ひとたびこの名が言及されるや、そこまで導いてきたすべての言語、それに達するために人が通過してきたすべての言語は、この名のうちに解消して消滅する」という自己廃棄の運動として「言説」が成立するのだ。「名は言説の《おわり》なのである」。それ故、不在の顔、中心的な空白、特権的な欠落は、「言説」それ自身に含まれる「命名」の遅延の機能によって、宙に吊られたまま無限に後退しつづけることになるだろう。
(蓮實重彥「空位・凍結・逆行」「3――言説とその分身」「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.60・太文字は引用者による)

 引用にさいしては、蓮實重彥著『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)を使用していますが、この著作は講談社文芸文庫でも読めます。

Ⅱ. 振りをする振り、語ることで騙られてしまう


 自然界には名詞はもちろん、名詞的なものがない気がします。名詞は、事物のある一面をとらえて名付けた結果です。

 多面的で多層的で多元的で、おそらく多義的でもあるはずの事物のある一面だけをとらえて、固定しようとするのが名詞の役割でしょう。

 流れているもの、移り変わりゆくものの一瞬をとらえて固めて定めようとする。一本化しようとする。

 それが名詞の働きだと思います。この働きは仕組みとか仕掛けとも言えるでしょう。

 人は一度に一つの言葉しか口にできない、一度に一つの言葉しか書けない、さらに人は一度に一つの事にしか心を向けることができない、と考えるのなら、多対一という選択で一を選び一本化するのは致し方ない気もします。

 一言(すなわち一事・ひとこと)こそが、人にとって始まりと途中と終わりのある最小単位なのかもしれません。

 叫びも名前もため息も、一息なのです。

     *

 では、動詞や形容詞はどうでしょう?

 動や形容という言葉に誤魔化されてはいけません。それも名前なのですから。動作やありように名前を付けた言葉が動「詞」であり形容「詞」です。

「ことば」を国語辞典で調べると「ことば・言葉・詞・辞」とあることから明らかなように、詞とは言葉なのです。

 そして、「辞」典も「辞」書もその名のとおり、言葉を収めた書物にほかなりません。意味を収めた書物ではないという意味です。意味は見えません。

 意味はおそらく人の頭の中にだけあるという意味です。したがって、意味という言葉は意味ではありません。「意味」を辞書で引いてもその意味は書かれていません。「無意味」も同様です。

 冗談修辞はさておき、名前が何かに名を付けた結果であるなら、「名付ける」(後述しますが「かたる」ことです)は言葉の基本的な働きであり、仕掛けや仕組みだとも言えるでしょう。仕掛けられ仕組まれているのです。言葉をつかう代償かもしれません。

     *

 流れているもの、移り変わりゆくものの一瞬をとらえて固めて定めようとする。一本化しようとする。
 それが名詞の働きだと思います。この働きは仕組みとか仕掛けとも言えるでしょう。

 動詞も形容詞も、流れているもの、移り変わりゆくものの一瞬をとらえて固めて定めようとする、一本化しようとする言葉、つまり詞なのです。

 動詞も形容詞も、名詞と変わるところはないように思えます。言葉には文字通りに取ると誤魔化されるところがあるようです。

     *

 とはいえ、私は言葉をつかってこの文章を書いています。言葉をつかって言葉について書いているのです。

 それ以外に言葉について語る方法があるでしょうか? 日本語では「語る」と「騙る」が同音であることは興味深い事実です。象徴的だとも言えそうです。

 そもそも言葉は言葉ではないものを言葉にする仕組みですから、「語る」が「騙る」であるとは、語るに落ちると言えるのではないでしょうか?

「猫」であって猫ではない。
「猫」を語りながら猫を語っていない。
「猫」を語りながら猫を騙っている。
「猫」という言葉に騙られている。

 ヒトが「猫」という名前で騙っているわけですが、そう考えると「名を騙る」という日本語の慣用句にも「語るに落ちる」を感じます。

 言葉、名前、名詞、○○詞――に共通するのは、「であって、でない」とか「でありながら、でない」という身振りをする、振りをする、演じる、装う、かたるだと思います。

「でありながら、ではなくなってしまう」のです。

     *

 自由という名の不自由 不自由という名の自由
 自由であって自由でない 自由であって不自由である
 自由でありながら自由でない 自由でありながら不自由である

 宙吊りにして着地させない
 先に送って遅らせ引き延ばし後退しつづける
 
 振りをして 送りおくれる 事と言 

     *

 言葉は生き物ではありませんが、振りをします。生きた振りをするのです。生きた振りは生きていないものにしかできません。

 それだけではなりません。生きていないものは生きた振りをするだけではなく、死んだ振りもできます。死んだ振りは生きているものか、生きている振りをしているものにしかできません。

 振りの振りをする。これが言葉の基本的な身振りだと考えられます。大切なのは、この身振りにはヒトという生き物しか観客がいないことです。

 そのように考えると、ヒトの一人狂言だとも言えそうです。

 ひとひとり 鏡に向い かたる振り

     *

 その振りを誰もが体験的に知っているはずだそれでいながら、それを言葉で語ることで騙られてしまう。

Ⅲ. 引用


だから、あらゆる分節化の試みは、「不自由」への馴致を前提としている。そして、その「不自由」を「自由」と錯覚することで、人は「知」と呼ばれる抽象と折合いをつける。存在を分節化することで二義的な分節化をうけいれるかにふるまうこの抽象的な「知」に対して、ここでは、距離も、方向も、深さも、中心も欠いた表層の体験が顕揚される。だが、それは、できればそうであることが望ましいと夢想されるが故に顕揚されるのではなく、日常的に体験されていながらもその生なましい存在感があっさりと虚構化されてしまっているので、その虚構化の運動に抗うべく顕揚されねばならないのだ。
(蓮實重彥「表層批評宣言にむけて」(『表層批評宣言』所収・ちくま文庫)p.6・太文字は引用者による・以下同様)

その、表層と呼ばれるどこでもない場所で、言葉は、はじめて「物語」の分節「装置」から「自由」になるだろう。その「自由」は、「不自由」ととり違えられることのない荒唐無稽な「自由」であり、距離の意識と方向の感覚とを欠落させた何ものかの生なましい到来と呼ぶべきものだ。この生なましいもあつかましい何ものかの荒唐無稽な浮上ぶりを、人は誰もが体験的に知っているはずだそれでいながら、その過剰、その過剰なる何ものかは、たえずころあいの「記号」に還元されて、遭遇というあの単調な「物語」を再生産することで終わってしまう。そのことに、もっと苛立とうではないか。(pp.7-8)

Ⅳ. 関連記事


 こうして安岡的「存在」の多くは、避けようとする身振りそのものによって、避けるべき対象と深く戯れてしまうというパラドックスのさなかに生きることになる。
(蓮實重彥「安岡章太郎論 風景と変容」(『「私小説」を読む』中央公論社)所収・p.176・以下同じ)

 一センテンスですが、これだけでも、「でありながら、ではなくなってしまう」という展開が見られます。「避けようとしながら、避けられなくなってしまう」のですから。

 とはいえ、もう少し言葉を加えてもいいでしょう。

 避けようとしながら、避ける対象と深くかかわってしまう
 避けようとすることで、かえって、相手と深くかかわってしまう

 こういうことって、ありませんか? 上の一文にもある「パラドックス」です。

 簡単に言うと、蓮實重彥の文章に見られる基本的な言葉の身振りなのです。蓮實による振付だと思います。

     ◆

 人は一度に一つの言葉しか口にできない、あるいは一つの語しか書けない――。

 これが人にとって、基本的な「枠」なのかもしれません。だから、短い言葉と文字にこれだけ執着するのです。

 人にとって究極の枠、それは名前でしょう。最期の一息で口にできるのも名前です。普通は……。普通でないのも人生にちがいありません。

À bout de souffle

     ◆

 以下は上の二つの記事の入ったマガジン(記事集)です。 


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