壊れていたり崩れている文は眺めているしかない(散文について・01)
今回は「ジャンルを壊す、ジャンルを崩す(言葉とイメージ・07)」の続きです。
「散文について」という連載を始めます。私は一般論やなんらかの分野の専門用語や学術語には疎いです。そんなわけで、ここでは私にとっての散文と小説について書きます。
*最初から壊れている
文学史的なことは知りませんが、私にとって散文とは最初から壊れているものというイメージがあります。
何をどんなふうに書いてもいい形式という意味で、最初から壊れているジャンルなのです。
とはいうものの、何をどんなふうに書いてもいいと言われた場合には、二通りの反応があると思います。
・自由にのびのびと書いて誰もが楽しめる新しい形と型をつくる。⇒ 壊さない、崩さない。
・自由にのびのびと書いて誰もが楽しめるわけではない新しい形と型をつくる。⇒ 壊す、壊れる、崩す、崩れる。
形(かたち)と型(かた)は異なります。
・形は目に見える具体的な物。作品そのもの。
・型は必ずしも目に見えるわけではない抽象的な事。作品のスタイルとか作風。
こんなふうに言えばイメージしやすいかもしれません。とはいえ、似たようなものですから、ざっくりとまとめて「かた(ち)」なんて書くこともできそうです。音読すると伝わりませんけど。
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話は少しだけ変わりますが、私は阿部和重の『オーガ(ニ)ズム』が好きです。阿部和重の諸小説は良質の散文で書かれていると思っています。
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いずれにせよ、
・かた(ち)を壊さない、崩さない書き方
と
・かた(ち)を壊そうとしたり、崩そうとする書き方
があり、
場合によっては、
・書いているうちに壊れてしまう、崩れてしまう作品が書かれてしまう
ことがあるように思います。
*物語と小説のイメージ
上で「音読すると伝わらない」という意味のことを書きましたが、私にとって散文とはじっと見る対象であり、ぼんやりと眺める対象でもあります。
口承・口伝や写本によって伝わってきた物語(ここでは説話のことです)では、たった一人の作者が作品を時間と労力をかけて丹念に書いたというイメージはありません。
それに対し、散文である小説では、たった一人の作者がいて、印刷されるのを前提にして、時間と労力をかけて作品を執筆したというイメージがあります。
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最初から活字で印刷されるのを想定して書いたということは、活字で組まれた、いわば確固とした、つまり活字の選択やレイアウトや装幀が固定された印刷物(雑誌の掲載をふくむ)や書物を思い浮かべながら書いたと想像できます。
印刷物は複数あるいは多数の複製として配布や販売されます。不特定多数の人が、散文としての小説を、ポータブルでパーソナルな物として読むようになったわけです。
大切なのは、読者たちがその作品に付属している作者名と作品名を意識しながら小説を読むようになったことです。
つまり、多数の文字からなる作品と切り離せないものとして、それほど多くもない文字数の人名とタイトルを、いわば有り難いものとして扱うようになったのです。
作品は作者の名前を冠した、タイトル付きの商品になったとも言えます。作者名と題名という名の名前は、文字通り「ブランド」なのです。人は名前で、物というより品を買います。
「物というより品」で思いだしましたが、現在よくつかわれている「作品」という言葉の意味で「作物・さくぶつ」という言葉がかつては用いられることもあったようです。
この字面だと、どうしても「さくもつ」を連想してしまいますね。
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話を戻します。
口承の延長線上にあった「詠み人知らず」的な物語(説話)と、作者が一人で丹精込めて書くようになった小説――。これが、物語と小説についての私のイメージです。
なお、源氏物語や日記文学のように作者の名前がはっきりしていて、主に写本で伝わってきた、日本の昔の物語(説話ではなく)は、小説と言ってかまわない気がします。
日本は小説の先進国だったのではないでしょうか。それにもかかわらず、明治になってヨーロッパ発の小説を「輸入」し「模倣」したのでしょうか――。
私は文学史が苦手なので、文学史的な辻褄合わせはやめておきます。
*じっと見る、ぼんやりと眺める、視覚芸術
散文である小説について、私にはもう一つのイメージがあります。
・散文・小説は、見る・眺めるものである――
読むだけではなく、見る対象でもあるのです。
読むというのは、私のイメージでは、ストーリーや作者の意図やテーマを読むことです。基本的に、一度読んでしまったら、それで小説は消費してしまったのと同然です。
一方、小説(散文)を見たり眺めたりするのは、複製である印刷された小説(散文)を、複製の絵画のように所有し、ときおり鑑賞するのと近い、鑑賞のされ方をされることになります。
私にとって散文による小説は視覚芸術なのです。
話が漠然としてきたので具体例を挙げます。
*井上究一郎の翻訳したマルセル・プルーストの文章
(Ⅰ)
(Ⅱ)
(Ⅰ)と(Ⅱ)は、私がイメージする散文で書かれた小説の日本語訳です。
この二つの文章は、私にとって、何度もじっと見たり、ぼんやりと眺める対象であって、そのストーリーやテーマや作者の意図(そんなものがあって確認できればの話ですけど)を読み取って、それでおしまいという鑑賞の仕方ができるものではありません。
なお、この二つの文章は、以下の記事(「音読・黙読・速読(その1)」と「音読・黙読・速読(その2)」)で扱っていますので、気になる方は、どうかご覧ください。私なりの説明が加えてあります。
*読みにくかったり読めない散文は、眺めているしかない
私にとって、井上究一郎訳のマルセル・プルースト作『失われた時を求めて』は、長時間の読書(鑑賞)に適した散文ではなく、長期間の読書(鑑賞)に適した散文だと言えます。
この小説が読みにくいとすれば、それはこの散文が、そのセンテンスから作品全体にわたるまで、壊れている、あるいは崩れているからだと私はイメージしています。
そこがいわゆる「読み物」とは違うという言い方でもできるでしょう。ただし、いわゆる「読み物」もまた散文であることを指摘しておきます。
この記事の冒頭で書いたように、散文は二つに大別できると私は考えています。
1)自由にのびのびと書いて誰もが楽しめる新しい形と型をつくる。⇒ 壊さない、崩さない。
2)自由にのびのびと書いて誰もが楽しめるわけではない新しい形と型をつくる。⇒ 壊す、壊れる、崩す、崩れる。
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上で見た井上究一郎の翻訳によるマルセル・プルーストの文章は、2)に当たります。
その作者と翻訳者が「壊す・崩す」を意図としたかどうかは不明ですが、その訳文には「壊れる・崩れる」がよく出ていると私は思います。
その文章は、私にとって読みにくいし、読みにくいから見ているしかない、眺めているしかないからにほかなりません。
このように、もし散文が「何をどう書いてもいい」という形式であるなら、その形式の特質は、翻訳された文章の読みにくさという形で立ち現れると言えるでしょう。
また、その読みにくさは、音読不能、つまり誰かの目の前で音読しても、その相手に伝わらなかったり、伝わりにくいという形で立ち現れるという言い方もできます。
壊れたり崩れた文章、つまり散文は、読めなかったり読みにくい。だから、眺めているしかない――。ということです。実際に、そうされていると私は感じています。
そもそも、「文・ふみ・あや・ぶん・もん」は「綾・絢・文様・紋様・模様・織物・text(ure)」なのです。
人が模様を「読む」のは、そこで「かた(ち)」を「見分ける」からだと思います。「かた(ち)」は、そこにあるのではなく、人の中にあるにちがいありません。
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もっとも、私の言っている、この「眺めている」を、「解釈」や「理解」や「解読」や「批評」、あるいは単に「読書」と名づけ、意識したうえで、読んだり、とらえている人がいるようです。人それぞれです。
いずれにせよ、何と呼ぶにしろ、私の言う意味での「散文を眺めている」人が多いとすれば、散文というものは、必ずしも「読む」とか「読める」ものではないからだろうと私は勝手に思っています。
さらに言うなら、個人的には、散文に限らず、そもそも文字で書かれたもの、つまり文章は読めない、読み切れない、読み損なう対象として目の前にあるのではないかと常々思っています。とはいえ、思いは人それぞれです。
その意味では、「読む」は「わかる」に似ています。「読んだかどうか」は、「わかったかどうか」に似て、確認できないのです。他人にはもちろんのこと、おそらく自分自身にも、です(「見た」や「見えた」もそうかもしれません)。
「読んだ」や「読了した」と「わかった」や「理解した」という誇らしげな言葉だけがあるのです。
*
なお、さきほど述べた「音読不能」については「音読不能文について」という記事で、例を挙げて詳しく書きましたので、興味のある方はぜひご覧ください。
*散文らしい作品の例
私のイメージする散文とは、ヨーロッパの散文とその邦訳を真似る、あるいは学ぶ形で、明治以降の日本でつくられていったものです。
そんなわけで、マルセル・プルーストによる小説の邦訳を上で紹介したのですが、そのほか、私が散文らしいと感じる作品のタイトルと作者名と翻訳者名を以下に挙げます。
*「かたち・形」まで壊れたり崩れた散文
・丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳、ジェイムズ・ジョイス作『ユリシーズ』
未完成の柳瀬尚紀訳と読みくらべるとおもしろいです。
・柳瀬尚紀訳、ジェイムズ・ジョイス作『フィネガンズ・ウェイク』
個人訳とはすごいです。この翻訳は眺めるだけで幸せでした。
・川村二郎訳、ヘルマン・ブロッホ作『ウェルギリウスの死』
最近、復刊されました。
・高橋正雄訳、ウィリアム・フォークナー作『響きと怒り』
新訳が出たそうです。
・平岡篤頼訳、クロード・シモン作『フランドルへの道』
『フランドルへの道』の作者であるクロード・シモンの言葉が、蓮實重彥による「散文は生まれたばかりのものである――『ボヴァリー夫人』のテクストに挿入された「余白」についての考察」という、雑誌「群像2024年3月号」の論考(講演の活字化)の中で紹介されています。詳しくは、「ジャンルを壊す、ジャンルを崩す(言葉とイメージ・07)」をお読み願います。この連載を私が始めたのは、クロード・シモンのその言葉に刺激されたからです。
・ルイス・キャロル作『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』
両作品は誰が日本語に訳しても「かたち・形」が壊れて崩れたものになると思います。大きな違いがあるとすれば、註が多いか、少ないか、ほとんどないかでしょう。それぞれを読みくらべる、眺めくらべるとおもしろいのではないでしょうか。日本語訳にある註を見ながら、両作品が英語を母語とする児童向けに書かれた散文であることの意味を私はよく考えます。英語における散文(prose)と韻文(verse)の違いについても考えさせられます。そもそも両作品が書かれたことは驚きとしか言えません。
*「かた・型」が壊れたり崩れた散文
・朱牟田夏雄訳、ローレンス・スターン作『トリストラム・シャンディ』
私の愛読書のひとつです。読みとおしたことはありません。一部を眺めただけでお別れすることになりそうです。
以下の散文作品は名前だけで知っているだけですので、翻訳者名は挙げません。ウィキペディアの解説を読むだけでもわくわくします。
・ミゲル・デ・セルバンテス作『ドン・キホーテ』
・ホルヘ・ルイス・ボルヘス作『『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール』
・ギュスターヴ・フローベール作『ブヴァールとペキュシェ』と『紋切型辞典』
*
なお、私が散文らしいと感じる小説の邦訳はこれだけではないかもしれません。最後に挙げた三つの作品をのぞく、上記の翻訳書は、私が若い頃に実際に見たり眺めた(読んだとは言えません)ものに限定しています。
別の訳者による上記の作品の邦訳や、別の作者による小説(散文)については私は知りません。私は読書家ではありません。好きな文章を好きなように眺めているだけです。
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壊れて崩れた散文による小説をドイツ語で読んで眺め(翻訳は文章を眺める作業です、原文と自分のつくった訳文をひたすら眺めるのです)、それを日本語で作文した古井由吉についても、この連載で書きたいと思っています。
翻訳という作文体験が、古井の創作に与えた影響ははかりしれなく多いと想像しています。
*古井由吉訳、ロベルト・ムージル作『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』
*古井由吉訳、ヘルマン・ブロッホ作『誘惑者』
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日本の作家の散文がまったく出てこないじゃないか――そんな声が聞こえてきそうですが、今後の記事の中でお話ししたいと思います。
谷崎潤一郎、藤枝静男、古井由吉の散文にはぜひ触れたいです。
またお立ち寄りいただければ嬉しいです。
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