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二つの「あなた」
*二つの「あなた」
「あなた」を辞書で引くと、「彼方」と「貴方」の二つの「あなた」があります。大きな国語辞典だと、どうして二通りの表記があるのかの経緯が説明されているでしょう。
ここでは簡単に、「あなた=over there」と「あなた=you」の二つがあると考えてみます。
「はるか遠く」の意味の「彼方・あなた・かなた」と「大切な」「貴方・あなた」というふうに意味をざっくりと取りましょう。
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今回は、別の意味で二つの「あなた」を取りあげます。
私の大好きな二つの歌の歌詞に出てくる、二つの「あなた」です。あなたはあなたでも少しだけ、考えようによってはずいぶん違って感じられます。
*「あなた=you」
一つは、岩崎宏美さんの「ロマンス」(作詞:阿久悠・作曲:筒美京平・1975年リリース)です。
あなたお願いよ
出だしに「あなた」が来ます。「あなた」と呼び掛けて、「席を立たないで」と「お願い」しているのですから、どう考えても「あなた=you」でしょう。
そばにいてほしい
「あなた=over there」ではないのに、もっともっと「そばにいてほしい」と言っているのですから熱い言葉です。どんなに近くても近すぎることはないという感じでしょうか。
この冒頭の二行が、最後に二回くり返されます。全体では計三回のくり返しです。
次のフレーズも三回くり返されます。
あなたが 好きなんです
これは完全に告白の言葉です。定番のフレーズと言えます。実にストレートで飾り気はまったくありません。
*「あなた=over there」
小坂明子さんの「あなた」(作詞・作曲:小坂明子・1974年リリース)は、上で見た「ロマンス」とはかなり異なっています。ストレートな告白とは言えないのです。
もしも私が
いきなり、「もしも」で始まります。「もしも」は仮定であり、架空の世界への鍵の言葉なのです。
あなたあなた
あなたがいてほしい
上のフレーズがサビと言えるでしょう。「あなたあなた」と歌い上げています。このサビはこの直前の部分が少し変わるかたちで、四回くり返されます。
それが私の夢だったのよ
ここから「あなた=over there」であることが、はっきりとうかがわれます。悲しい歌ですね。感情移入の激しい私は涙を浮かべずにはいられません。
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以上の二つの歌詞をくらべてみましょう。まず、全体的には次のようにまとめられると思います。
*「ロマンス」:「あなた」への告白
*「あなた」 :「あなた」の登場する物語
*「あなた」への告白
「ロマンス」は、大切なあなたに対して、のっけから直接呼び掛けて、途中で「あなたが好きなんです」と告白しているのです。ストーリー的にはシンプルな構造をしているし、心理もストレートです。
歌詞を見ると、あなたへの呼び掛けとお願いのほかには、一人称の「私」が主語のフレーズとセンテンスばかりがあります。
「ひとりでいるのがこわくなる」、「くちづけさえ知らないけど」、「私はきれいになって行く」……。
健気ですね。初恋なのでしょうか。将来への展望も見られます。
*「あなた」の登場する物語
一方の「あなた」では、「もしも」という変わった始まり方をして、「あなた」の出てくる架空の物語を歌っています。
前半では、体言止め的に物や植物や動物が列挙されます。状況の設定です。
後半では動詞が目立ちます。動詞、つまり動作があることで、物語が生き生きと動きます。
物語を構成するフレーズは点描的で、フレーズごとにシーンが絵としてぱっと浮んできます。
最後にくり返される場面は、レースを編む自分、そしてその横には「あなた」というものですが、レースを編む姿が「あなた」の物語をつむぐ姿に重なるかのようです。
*「もしも」、「いてほしい」
二つの歌の歌詞には共通する言葉とフレーズが見られるのですが、まったく同じ言葉とフレーズが違った役割と意味を担っていることがわかります。
*「もしも」
「ロマンス」と「あなた」では共通して「もしも」が出てきますが、「ロマンス」での「もしも」は英語で言えば仮定法過去です。
「もしも(今)……なら……するのになあ」、実際には「今は……ではないから残念なことに……できない」という感じ。
もしもとべるなら
次のフレーズの「たとえ遠くでも」が印象的です。「たとえ」も仮定するさいの言葉ですが、現実の「あなた=you」が「あなた=over there」に感じられることがあると言っています。
「あなた」との距離をどれだけでも消し去りたいという、強い熱意があらわれています。
恐いくらいの純な心ではないでしょうか。この歌を十七歳の岩崎宏美さんが歌ったのです。
◆
「あなた」では、同じ「もしも」が英語の仮定法過去完了的なニュアンスで歌われています。
「もしも(あの時に)……だったら……していたのになあ」、実際には「あの時は……ではなかったから、残念なことに……できなかった」という感じ。
もうあの時に終わった話の続きを――「あなた」との別れについては一切触れられていません――、今物語として語っているのです。悲しいですね。「ロマンス」とくらべると、「もしも」の役割がまったく異なっています。将来への展望が皆無なのです。
そのことがよくあらわれているのが「そばにいてほしい」と「あなたがいてほしい」なのです。
後半の「いてほしい」という、まったく同じフレーズがまったく違ったニュアンスで用いられています。
*「いてほしい」
「ロマンス」: そばにいてほしい
「あなた」 : あなたがいてほしい
◆
「ロマンス」の「そばにしてほしい」に省略されている言葉があるとすれば「あなたに」なのでしょうが、「あなたに」と「そばに」が続くと、「に」が反復あるいは重複してしまいます。
また、その前後のフレーズ(センテンス)に「あなた」が出てくるので、ここで出す必要はないとも言えそうです。
いずれにせよ、「息がかかるほど そばにいてほしい」は、その前のフレーズ(センテンス)と同じく「8音+8音」で口調も良く、歌の出だしとして素晴らしいフレーズだと思います。
◆
「あなた」という曲の「あなたがいてほしい」はサビにあるフレーズですが、ここだけをよーく読んでみてください。音読するといいでしょう。
この歌の中で歌っているとぜんぜん違和感はないのですが、あらためてここだけを抜きだしてみると、破格とまでは言いませんが、不思議な語感のフレーズだという気がします。
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でも、これは、これでいいのです。というか、これでなければならない、とさえ思います。
この歌で仮に「あなたにいてほしい」と歌われていたら逆に変ではないでしょうか?
「あなたにいてほしい」だと、現実味がぐっと出てしまいます。この歌は、「あなた」との終わった話の続きを、あの時の別れに触れることなく、今物語っているからにほかなりません。
「あなた」という人物が出てくる仮定の、つまり架空の物語なのです。だから、現実味があると変なのです。
「あなた=over there」の距離感が、この「あなたがいてほしい」の「が」に詰まっていると言いたいほどです。
aaa+aaa と強く歌いあげた直後に aaaa+ieoii と来る転じ方のリズムも、哀しく、かつ心地よく耳に響くのではないでしょうか。
素晴らしい歌詞であり、素晴らしいサビだと感心します。
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なお、今回は著作権侵害の可能性が出てくるので、歌詞の引用は最小限にとどめ、歌詞付きの動画を載せるのは遠慮しました。どうか、ご理解ください。