本の感想23『ジキルとハイド』スティーヴンソン
ジキルとハイド。二重人格といえばこの名前である。二重人格という設定はアニメや漫画で数多く見られるだろうが、その多くがここからインスパイアを受けているといっても過言ではない。
人間は、自身の中にいくつもの住人が住んでいる
スティーヴンソンの人間に対する見方は本当におもしろい。
ジキル博士は言う。
人間はひとつから成り立つのではなく、ふたつから成り立つ。"ふたつ"としているのは、私の現在の知識ではそこから先に進むことができないからで、…
今の私の推論をあえて言えば、人間というものは最終的に、それぞれ異なる多種多様な独立した住人たちの住む純然たる集合体として理解されるようになるだろう。
人は、みんな多面性を持っている。矛盾した気持ちを抱くことが良くある。例えば、私の中の一部、仮に「合理的僕」と名付けた部分は、道端で倒れている酔っ払いを気にしないようにする。
「時間のロスだ。見ず知らずの人間(金持ちそうな人ならともかく、)を助けることにメリットはない。」
しかし、この無視するという行為の後、「感情的僕」が出てきて、こう考えさせられる。あるいは言い訳する。
「この寒いのに大丈夫だろうか?家で待ってる人はいないのかな?」
「他の誰かが助けてくれるだろう。あの人だって、ほっておいて欲しいにきまってる。」
この異なる気持ち(矛盾した2人の自分)のために、人間は苦しんでしまう。そしてスティーヴンソン(ジキル博士)は、これを「2人の人格が住む」状態と見たのだ。
この「合理的僕」と、「感情的僕」が、別々の体に収められていたら?その人間(僕)は人生の中で、耐えがたい悩みやクヨクヨした迷いを全て取り払えるのではないか?
100%合理僕の方は、何もかも他人を気にせず自分の道を効率的に突き進める。100%感情僕の方は、他人との触れ合いや助け合いに生きがいを見出し、慈悲深い温かい気持ちで人生を過ごせるだろう。
この背反する二本の薪が1つの束にくくり付けられていることこそ、人間の人生における苦悩の根源ではないのか?
もっと突き詰めれば、悪と善という2つの部分で人間を分離できれば、その人間は非常に快適に人生を過ごすことができそうに見える。
肉体は内面を表す、内面は肉体に現れる
人間の肉体というのは、習慣を表わす場合が多い。これは論理的にも肯ける。例えば大工は日常的に金槌を振るので前腕が太い。陸上選手は足が大きい。肌をケアする習慣がある人は、綺麗な肌を持つ。
スティーヴンソンの捉え方は、さらに先を行く。
「肉体とは霧のようなもので、一時的なものだ」
薬によってジキル博士からハイドへと変身した彼の見た目は、少し縮んでいて、顔も醜い。(しかしそこには二律背反に苦しむ表情はない。一個の個体として洗練された美しささえ感じる。)
まあこんな感じで、人の行動や習慣というのは、その人の価値観や考え方、気持ちから生じる。だから、肉体もその人の内面も表し得るよね、っていう感じ。