本の感想33『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
とある実験
「服従」と聞くと、王様に命令されるとか貴族に奴隷が従うとか、そんなことを想像しちゃう。あるいは恐怖や脅しによって強制的に何かをさせるとか。
確かにそれらも一種の服従ではある。しかし、実は人間はもっと身近に服従というものを経験している。あるいは経験してきた。
イエール大学の心理学の教授が行った、面白い実験がある。「先生役」と「生徒役」の2人がいて、生徒役は椅子に縛りつけられ単語を覚えるというもの。間違えたら電撃が与えられ、それは段々と強くなる。表向きでは、罰が学習に与える影響を調べるものだと説明するが、本当の観察対象は何も知らない先生役だ。
生徒役は役者で、痛がるフリをする。電撃が強くなっていくと、「もうやめてくれ!」と懇願してくる。これらに対して、先生役がどのように行動するかというものだ。
結果としては、相当数が最後(最強)の電撃まで実験を続行する。学者に対して「もうやめよう」と訴えてくる者も多いが、ほとんどが強い反対によって実験を続行してしまう。
なぜこのようなことが起きるのだろう?いくつか理由はある。
束縛要因
まず、その人(先生役)の礼儀正しさが仇となる。実験者に協力するという当初の約束を守らなきゃという願望や、途中で投げ出してしまうのが気まずいというようなものだ。
権威に向けた責任逃れ
人は不思議なもので、今その瞬間相手を傷つけているという事実の中でも、自分の行動に責任がないと考える。行動の動機や責任、原因を、正当な権威である人物や上司(上の実験でいう心理学者)に委ねることで、自分は責任から逃れることができる。
実際に電撃を与え続けた理由を問われた被験者は、「言われたとおりやっただけだ。自発的にはそんなことしなかっただろう。」という典型的な解答が見られた。
このような「責任感の消失」というものは、権威構造の中で従属的な立場に固定された大多数の人々の根本的な思考様式だ。その場しのぎの薄っぺらい言い訳なんかではない。
道徳感覚の焦点が変化する
このように、権威のもとで行動している人は、良心の基準に反した非道徳的な行動をしているように見える。道徳心や良識を失っているようだ。しかしそれはまるきり違う。
権威のもとでは、「自分に対して抱いている期待」にどれだけ上手く応えるか、ということが道徳的関心になってしまうのだ。
例えばそれが戦争中のものであれば、殺人を犯すことが、権威のみならず国民全員の期待に応える道徳的行為になる。むしろ上手く爆撃を落とせなかったり敵兵を殺さなければ、恥を感じさえする。
反擬人化
人は原始的な傾向として、無生物的なモノや力に対し、人間的な性格づけをしてしまう。さらには、その逆のようにも思えるが、人間が生み出し維持し続けているモノに対し、非人間的(神的、超越的)な属性を与えてしまうという傾向も存在する。
電撃の実験の例で、例えば「続けてもらわないと実験が成り立ちません」と言われる。すると、被験者は、「実験」なる非人間的なものを神格化してしまう。実験の設計者は1人または数人の人間に過ぎないし、続けてほしいと願っているのも同じく自分や苦しんでいる(フリをしている役者)人という人間だ。
「見えない何か大きなもの」を勝手に作り出し、それに従ってしまう。
おわりに
俺は読んでいてギクッとすることが何度もあった。権威や服従というものに関して、頭では少し理解が深まったけど行動できるかと言われれば全然自信がない。
『永遠の0』で、戦時中自分の意思で行動し続けた主人公はすごいなと思った。
明日へ続く。