本の感想20『罪と罰』ドストエフスキー
「罪」と「罰」は類義語?
罪と罰と聞くと、「犯した罪には、それ相応の罰が与えられなければいけない(罪⇄罰、対義語の関係)」このように普通は考えるだろう。
たしかに、完全なる悪意によって行われた罪は、この原理が成り立つだろう。だから常識的にはこれが正しいかもしれない。しかし、たとえば善意、社会のため、家族のために犯した罪はどうなる?
「罪を犯した者は、それ相応の罰によって救われる。罪には、それ相応の罰があって然るべきだ。(罪=罰、類義語の関係)」
善意によって行われる、一般的に犯罪とされてしまう罪。あるいは、自身の中にある、物事に対する罪の意識。これらは「罰」によって救われる。なぜなら、弱い人間は、善のためとはいえ罪の意識に悩まされる。裁かれないことで、長い間苦しむことになる。
分かりやすく例を挙げよう。ここに友達の消しゴムを返し忘れた子供がいる。彼は悪意でやったわけではない。でも、罪は罪だ。友達は困るし、世間一般では盗みと呼ばれる。彼はまだ世間に慣れていない子供だ。家で悩むだろう。気持ちが苦しくなるだろう。この苦悩は、例えば「家族に告白するという罰」をもらうことで薄れる。告白は罰だ。あるいは、友達から怒りの電話がかかってくる。これも本人が罰せられる瞬間だ。しかしこれによって、内なる罪の意識が解放されるのだ。
ちょっと些細すぎることを例えにしたかもしれない。でも、経験があるのじゃないかと思う。
「罪」の意識、苦しみは、「罰」によって救われる。罰は救い。
病は気から
だとすると、「病は気から」とは良く的を射ている。主人公のラスコーリニコフは、完全にヒポコンデリーの一種だ。
(ヒポコンデリーとは、体に対して悪い解釈をして、「自分は病気だ」という思いが長期間続くことで相当の苦しみや機能の障害となってしまうこと。)
彼は、完全なる犯罪をやり遂げたにも関わらず、精神的にも世間的にも自分の罪の意識のせいで殺されていく。強靭な精神の持ち主、あるいは精神が麻痺している人、あるいは底抜けの馬鹿なら、なんのことなくその後の人生を送っただろう。
派生して
悩み過ぎてしまう人というのは、確実にストレス量が多くて、それによってさまざまな病気や不調が起こる可能性か他の人に比べて高い。瞑想がオススメだ。
犯罪を犯すのにいちばん大事なのは平常心だと聞いたことがあり、「なーにが精神論だこのクソが」と思っていた。でもたしかに度胸があって普段どおりの動きであれば行為中に不審な動きを減らせる。もし尋問にあっても、不審がられる確率を減らせる。
ビジネス書で、「バカの方が成功できる」というのも理解できる。失敗に対してリスクを考えず、あまり心配。せず、一種失敗や捨て身の状態に対して恐怖感を覚えないからだ。動ける人間というのは、気持ちが強くできてるんだなぁ。