【海の中の星たちへ】① 東日本大震災12年間のある家族の物語 黒田 勇吾
四月は出発と出会いの月とよく言われます。実際そうですよね、新年度がスタートして子供たちは進学や進級して、新しい仲間との出会いの時期でもあります。なんにせよ、4月という月は、一年の内で2番目に好きな月ですね。
さて私がいちばん好きな月はご想像にお任せします〈笑)
災害というものが人の生活に与える影響は計り知れません。それまで営々と築きあげてきたすべてが、一瞬にして
破壊されてしまいます。建設は死闘、しかし破壊は一瞬です。しかも容赦ない打撃を与えます。
私は東日本大震災の年の3月1日に、50代からの再就職をいたしました。それまで、12年余り続けてきた学習塾を閉鎖して、再びのサラリーマン生活の出発。もちろん不安要素はたくさんありましたが、まずは心機一転、生活再構築の意気に燃えて会社員としての研修が始まりました。
石巻生まれの石巻育ち。高校卒業後は、11年間東京で生活してのUターン組の一人でした。
2011年3月時は家族は8人。義父義母と妻と子供4人が一軒家でなんとかかんとか貧しいなりにも豊かな毎日を送っていました。家のローンなどはなく、でも前職でつくった借金はありました。それでもその金額は頑張って返していけるめどの立つほどで、新たな希望を持って再出発したばかりでした。石巻営業所配属で、その営業所は、石巻市の大街道地区。海からは3キロほど離れた場所にあり、住宅街の一角に、その2階建ての建物はありました。
3月1日から始まった研修は1か月の予定でした。月曜日から木曜日まで仙台市のホテルに泊まり、仙台支社で丸一日研修。金曜日は地元石巻で研修して、土日は自宅で休日。日曜日の夜に仙台のホテルに戻って、また1週間。そんなリズムで一か月が続く予定でした。
4月からは石巻営業所に戻ってそのまま定年まで、おそらくその仕事で家族を守っている生活を送っていたことでしょう。何もなければ。
義父は石巻一大きな会社を定年退職しての年金生活。
妻は専業主婦で子育ての毎日。長男は仙台の大学に通っており、無遅刻で3年間を終えて、いよいよ4年生間近。次男は大学を事情あって中退して、そのころは地元でアルバイト生活。でもそれなりの収入があって自立していました。
長女は、3月1日に高校を卒業したばかりでした。彼女は大きな夢があって、CAになって世界中を飛び回る人生を生きると決めていました。自分でCA専門学校に願書を提出して、親の反対を押し切って旅立とうとしていました。
子供というのは、大概親の反対を押し切って何かを始めます。それはそれで、大人への道を進んでいる一つの証しなのかもしれません。親離れしていくのは、ある意味で子供が大人になる必然の過程でしょうから。
末娘は小学校3年生。心臓病を持っていますが、休み休みながらも学校に保健室登校していました。
確かにさまざまな問題というか、課題を我が家は抱えていましたが、家族団結して、ガンバるべぇ、的な明るさを忘れないどこにでもいる家族だったのです。
若いころは、希望という言葉や、そもそも希望そのものはたくさんあると思っていたし、事実そこらじゅうに希望は転がっているように思っていた。
今思えば希望ということが何と大切なことだったかと、呆然とするばかりです。
あらためて書きますが、私は2011年3月1日から新しい職場で仕事を始めていた。
1か月間の研修も10日すぎには生活のリズムも慣れてきて、楽しいくらいに
思えてきたところだった。月曜から木曜まで仙台支社での研修があって、その日金曜日は地元石巻営業所の1日研修だった。
2011年3月11日金曜日。石巻市は曇り空が広がって、まだ春には程遠いくらいの寒い日だった。
朝8時半過ぎには、私は営業所にいて、研修の準備と、仙台支社での研修のおさらいをしていた。9時から朝礼があって、30分くらいの打ち合わせも終わり、20名ちょっとの社員さんのほとんどが営業活動に出て、営業所の建物の2階には、私とマネージャーと女子事務員さんの3人だけがいた。
研修の担当は午前中は女子事務員のSさんで、仕事で使うタブレットPCの使い方を教わっていた。Sさんは仕事熱心な方で、一生懸命にタブレットの使い方を説明してくれているのだが、なにせ機械音痴で、PCはほとんど使ったことがない私なので、操作を覚えるのが遅いおじさん新入社員であった。12時ちょっと前に昼休みになって、その日弁当を持ってこなかった私は、車で近くのコンビニに行った。コンビニの前の駐車場に車を停めて、昼食。あったかいコーヒーも飲みつつ、目の前の大街道通りを走る車の流れをぼんやりとみていた。
大街道通りはほとんど車の通らないお昼の時間帯。時折、人が歩いていく。
のんびりと静かだった。
食事が終わって、車のシートを倒して少し休憩してから、会社に戻ろうと思った。横になって、ふと思い出した。今日は長女が九州のCA養成専門学校の受験のために仙台空港に向かっていたのだった。シートをもとに戻してガラ携をカバンから取って、娘に電話してみた。
「おとう、どしたの?」すぐに電話に出た娘は元気そうである。
「いや、お昼過ぎだからそろそろ仙台空港についた頃かなと思って電話してみたんだけど、今どこ?」
「いまさっき空港に着いたとこ。早く来すぎたみたい」
「お、それはよかった。いつも学校遅刻ばっかりしていたあなただから大丈夫かなと思って。搭乗手続きは終わったの?」
「終わったよ。14時20分発の格安航空のチケットもらった。今ラウンジで暇つぶし」
「分かった。まあ、受かっても落ちても気にせず帰ってございん」
「そうだね」何事にも物怖じしない長女。
「九州はそろそろサクラ咲き始めんのかな?まあ、暖かいだろうからのんびり行ってらっしゃい。これからのことはまたゆっくり話すべし」
「分かった。じゃあ、おとうも仕事がんばって」
「ありがと。んでね。気を付けて」
携帯を切ってから、10分くらい休憩して午後1時前には、会社に戻った。
外は相変わらずの曇り空が広がっていた。
午後1時過ぎから、今度はマネージャーからの仕事の規約などの話が始まった。
40代を過ぎてから結婚したマネージャーには生まれて半年ほどの長男がいる。奥さんは東松島市の自宅で、義母と一緒に子育て中。
あの頃、育活などという言葉はまだなかったと思う。
マネージャーは言った。
「夕方4時ぐらいまで、会社の規約その他を確認して、今日は早く帰れるようにしますね」
「マネージャー、ありがとうございます。花金ですからね」
そんな感じで午後の研修は淡々と始まった。
発災
マネージャーの執務室で午後の研修は受けていた。3畳ほどの狭いフローリングの部屋。私が坐っていたのは左手のドアの横。ドアは空いていて、全体会議室が見える。
右手は窓。外は少し雲が濃くなってきた雰囲気だった。
マネージャーはふっくらした優しい笑顔で、私にさまざまな仕事のケースを話している、、、、、
そこで突然の揺れ。がたがたと窓が鳴った。私は立ち上がり、「大きい」とマネージャーを見て言った。
マネージャーは「ここは二階で、いつも地震で揺れが他より大きいんだ」と僕を見たがその眼はうつろだった。
初期微動は10秒ぐらいだったと思う。
突然、大きな地鳴りとともにガラガラと建物が壊れるほどに揺れ、私はマネージャーの執務室を飛び出して、会議室の机の下に潜り込んだ。机の脚を両手で捕まるのだが、机自体が横滑りしながら右に左に動いてしんどい。そしていろんなものが倒れはじめる異様な音。女性の甲高い叫び声。私はひたすら机の下にしゃがみ込んで祈った。家族が無事であれ!
地震よ早く終われ!建物崩壊するな!
過去に経験ない激しい揺れ。ななかな終わらない。
大揺れが続き、様々な異音の中で、夢中で祈り続けた。
声を出したかどうか覚えていない。途中からさらに大きな揺れがぶり返して建物をさらに揺らす。ありえない揺れへの恐怖。
おそらく三分は続いただろうと思う。長い長い時間だった。永遠を感じる三分だった、、、、、、、
よっやく揺れが収まったが、身体はまだ揺れているようだった。机の下から這い出して立ち上がる。会議室の壁際に在ったものはすべて横倒しになっている。あらゆる書類が散乱している。
事務員のSさんもどこにいたのかすでに自分の事務机の横に立って、急いで携帯で電話を始めた。
あたりを見渡したが、マネージャーがいない!
(私より素早く行動して部下を置いていなくなったマネージャーを私は生涯尊敬する人間の一人として今は思っている。それはまたあとでお話しします)
私は直近の上司であるSさんに言った。
「スイマセン、私は帰ります。よろしいですか?」
ダメ、と言われてもすでに帰る心は決まっていたが。
「分かりました。このまま今日は退社してください。私はいろいろと連絡事項があるのでまだ残ります」
「はい、わかりました。失礼します」自分用の事務机に戻ってカバンを取り、私はすぐ出口に向かい、階段を下りた。一階の入り口のドアのガラスが破損している。駐車場に置いてある白のエスティマに乗ってエンジンをかけ、発進した。道路には数人の男性があたりの様子をうかがっている。帰り道を50mほど行ったところで、携帯をマネージャー室に忘れてきたことを思い出し、急いでまた会社に戻り、携帯を取って、また車で帰途に就いた。走っている車は1台もない。途中、北上運河沿いの道路の電柱から電線が垂れ下がって道に横たわっていた。まずいな、と思い、その手前の右側の抜け道を行ったら、行き止まりであった。赤ちゃんをあやしたお母さんらしき人が私を見ている。すぐにUターンして、前の道に戻り、思いっきり先ほどの電線を踏み潰して走りぬけた。もう電気は切れていたのか、車のタイヤがゴムなので、電気を通さないのかとにかく無事だった。仙石線の下の狭いガードをくぐり、小学校を過ぎ、右手に石巻工業高校を見ながらその前の交差点に入る。信号はすでに消えていて、譲り合いながら何台かの車が通っているが、停まっている車もある。左折して北上運河にかかる橋を渡らないと自宅に帰れないが、その端のつなぎ目の道路が20センチほど段差が出来ている。エスティマは車高が低いので、越えられるかな、と一瞬不安になったが、勢いよく段差を越えた。ガズッと音がしたが、車の傷なんてどうでもよかった。
その橋を越えれば、あとはまっすぐの道路。一つ難関を越えた気分だった。周りの風景は変わっていない。地震で倒れている建物などもない。金曜日の午後3時前後の閑散とした車の数。いつもと変わらない。
ここが数十分後に大渋滞になるのだが、そんなことは予想だにせず、まずは家に帰って、家族の無事を確認したかった。というか自宅は倒れてないのか?
凄まじい地震だったのに、どうやら地震被害は帰る道のあたりは一つもないようだった。そして、発災から約15分後私は自宅に着いた。二階建ての家は外から見る限り壊れていない。家の前の駐車場に車を停めて、玄関を開ける。屋根から落ちてきた瓦の破片などが、玄関にはあった。
自宅の玄関のドアを開けると、いつも通りの玄関で特に破損しているところはなさそうだった。靴を脱いで廊下を通り居間の扉を開けると、待っていたように妻が私によっていた。その後ろに小学校3年生の末娘が付いてきた。義母は安心したように台所から居間に来る。
妻が地震時の自宅の揺れの状況の話をしている。それを聞きながら、しゃがんで娘を抱き寄せてハグしてあげる。
「大丈夫だよ。お家なんともなかったね。でも怖かったろう?よく頑張った。」
「もう大丈夫だから心配いらないよ」再度娘の目を見て言い聞かせると、ようやく娘の恐怖の表情が和らいでいくように見えた。
次男も帰ってきている。近くのTSUTAYAにいたらしい。すごい揺れで本棚やビデオ棚が次々と倒れていく中で外に逃げたとのことだった。
「今日のバイトは、無理だから休むようにお店に連絡したほうがいいね」
「いや、電話してるんだけど、つながんないんだよね」
「そうか。状況が状況だから、わかってくれるし、そもそもお店も今日はもう閉めるだろうね」
次男は自宅近くの焼き肉店で夕方からの夜勤を週4回ぐらいしていた。
それから、妻に向かって話す。
「ご苦労さん。状況はゆっくりあとで聞くとして、すぐにみんなで出るから用意して。
みんなジャンバーやオーバーを着てね。毛布3枚ぐらいとお財布と薬忘れないように。今から5分後に出発!」
自宅の2階がどうなっているかを確認したかったが、今はその時間がない。押入れから毛布やタオル、それと棚からホッカイロを10個ほどもって、先に娘と一緒に玄関に行く。
玄関前のブレーカーを落として、長靴に履き替え、皆を急がせる。
その間に義父が帰ってきた。パチンコ店にいたらしい。義父にも事情を話してみな玄関に出る。次男に自分の車に乗って、お父さんの後についてくるように話す。
8人乗りエスティマに妻、義父母、末娘と私が乗り込む。軽乗用車で次男がほどなく借りている駐車場から車で来る。エスティマのガソリンはあまりない。さてどうするか。全員を確認して車を発進させる。向かうのは、川から離れた向陽町の市営駐車場。隣がコンビニだ。着いてすぐに妻と次男に財布を渡して、「今日みんなで食べられる分のお弁当と電池があったら電池を。水や飲み物はいっぱい買えるだけ買ってきて」そう言いながらも、あたりの様子を見ている。当たり前に歩いている人もいる。車はまばらに走っている。
(ここの人たちは避難するということをしないのか?蛇田のこのエリアは安全だと思っているんだろうな)
と考えていた途端に大きな余震が来る。駐車場自体が揺れて、車も右左に横揺れする。降りてコンビニのほうに走りかけたら、妻と次男が買い物したものを両手に抱えて走ってくる。「すごい揺れだった!店員さんは、もう店を閉めますと、並んでいる人に言ってたよ」
妻が興奮して話す。
(あ、しまった!自宅の玄関に書置きをしておくのを忘れた)と気付く。
妻と次男に話して、次男の車で自宅に戻る。妻が私の代わりにエスティマの運転席に座った。
B5版のノートを一枚破いて走り書きする。
【家族は向陽町の駐車場にいる。自分で走ってきて。もしくは内陸部に行け。電話待ってる。父】そう書いたものを玄関の扉に張り付けた。
そうなのだ、今日は長男が大学のゼミで仙台に行っており、午後3時ごろにはいつもだと帰ってくる時間なのだった。普段はちょうど今頃に帰ってくるのだった。すっかり忘れていた。
こうやって、いま思い返すと私は一度自宅に戻ったのだった。津波被害が予想される場合に一番してはいけないことを私はしてしまっていた、と後から気付いたのだったが。
向陽町の駐車場に戻って、エスティマの横に車を停めて、再び私はエスティマの運転席に戻った。
そうしているうちに、空が暗くなり始める。雲行きが怪しい。電信柱は、傾いているものがないので,矢張りこの広い駐車場に留まるのが安全なのだろうか?少し迷ったが、まずは留まることにする。長男が来るかもしれないからだった。左手から、水が来た場合はすぐに逃げられるようにエンジンは掛けたままだった。
空に雪がちらほら舞い始めたと思うと、気がついたら、どんどん降り始めてまるで吹雪のように本格的に降り始める。ありえない情景。冬に逆戻りか!
そうして私たち家族は、長男と長女を欠いたまま、夕方までその駐車場に留まったのだった。同じその時間に沿岸部で繰り広げられている生と死の激闘が行われているということもその時はまだわからない。
雪は相変わらず吹雪いていたが、西の空のほうが
明るくなりはじめてきた。
時間はもう4時半になって、そろそろ夕食の準備を
しなくてはならない時間。
外は、ひんやりと空気が冷たくなってきた。
「そろそろ一度家に帰ってみるべ」
義父が提案した。
義父だけが携帯のラジオをもってイヤホンで聴いている。
「どうやらかなりの津波が来たみたいだ。しかしこの辺は
北上川から遠いべし、家も大丈夫でねえかな?」
義父の言葉に皆が頷いている。確かに車のなかも
冷えてきた。ガソリンも勿体ないと私は思って
「もうすぐ暗くなるし、電気もこのへんは消えている
みたいだから、夜を迎える準備をするべし」
そう言って自宅に車で戻った。
自宅の周りも津波は来ていない。
近所の人たちもひっそりと家にいるようだった。
自宅の玄関には長男宛に書いた張り紙がそのままだった。
それを取って自宅に入る。ブレーカーをためしにONしてみたが
電気はつかないのですぐにオフにする。
一階の部屋は箪笥が倒れてもいないし、地震自体は
家には被害がないように思えた。
一階の暖房はファンヒーター。電気がついていなければ
使えない。
自宅の奥の倉庫から石油ストーブを持ってきた。
灯油は18Lのポリタンクに半分ほど入っている。
それを、入れて久しぶりにストーブをつける。
お母さんが仏壇にあるロウソクを持ってきた。
「何本あるかな?」私が尋ねた。
「太いのが10本ある。細いのは2本だけかな」
1階の部屋は全部で4部屋。皆でまずはリビングに腰かけて
コンビニで買ってきた弁当を開ける。
電子レンジは使えない。
ガスもまだ使えるかどうかわからないが、今日はもしものことを
考えてガスは使わないことにした。
皆が弁当を食べ始める。
私はリビングの窓際に立って、携帯をいろいろ方向を換えながら
電話してみる。もちろん長男と長女のナンバーを何度も呼び出す。
しかしつながらない。キャリアはAU。ドコモだったらつながるのかな?次男に尋ねてみる。
「俺のドコモだけど、つながんないよ。お店にもかけたけどね」
そんな返事を聴きながら、窓の近くで何度も長女の携帯ナンバーを
掛け続ける。右に向けたり、上にあげてみたりしながら、何回目だったろうか。
「もしもし、おとう?」と急に声が聴こえる。
ビックリして長女の名前を呼んで
「今どこにいる?仙台空港?福岡?」と早口で尋ねた。
お母さんも急いで近くに来る。
「今、専門学校の学長室で、みんなでおとうの携帯を
鳴らし続けていたらつながったんだ!」
「そうか!福岡の学校に着いたんだな?よかった!
こちらはOOを除いてみんないる。安心して」
長男の名前を言いながら、とりあえず長女は無事
ヒコーキが福岡に行ったことが確認できて一安心だった。
「津波は来たの?」長女が尋ねる。
かなり来たらしいけど、ここまでは来ていない。全く状況が
分からないんだ」
「分かった。まずは一安心した。私は福岡の寮に泊まれるから
心配しないで。そちらの携帯の充電あまりないだろから
とりあえず、いったん切るね」
「分かった」
そう言って電話を切った後、その日から3日間長女とは
連絡が取れなかったんだが。
結局、そのあと長男の携帯を何度鳴らしても
繋がることはなかった。
外はなぜか西側の夕日が強烈に赤くなって夕闇を切り裂いて輝いていた。
~~以下省略~~~
*あらかじめここで言っておきますが、我が家は結局
全員が何とかあの未曽有の災害を生き延びたのだった。
あとから聞いた長男の話を聞いて、まさにたまたま我が家は
全員無事だったということしか言えない。
運がいいとか、悪いとかそんな次元の話ではなくなったのだった。
そんな大災害がまさに私たち家族が車で避難しているその時に
沿岸部で起きていたのだった。そう私がさっきまで研修を受けていた
沿岸部の会社周辺のエリアも数メートルの津波に襲われていたのだった。
~~~続く~~~