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【製本記】 小川未明童話集 04 | 未明の調べ

本をつくってばっかの日々。編集者として本を編みながら、時間を見つけては製本家として本をこしらえている。編集した本は世にでて光を浴びるが、製本した本は暗所に埋蔵するだけの習作も多く、せめてここに記録する。

糸かがりした『小川未明童話集』の背に薄く糊を塗り、ヘラで均して仮固めする。糊が乾いたら平らなところに寝かせ、背と平(ひら)の境目あたりをハンマーで叩く。「コツ」と呼ばれる木製の道具で押してもいい。すると、糸で膨らんだ背が次第に丸みを帯びていく。表裏をひっくり返しながら、ときには前小口側から引っぱったりしながらこの作業を繰り返し、少しずつ丸みの曲線を整えていく。

丸みが整ったら背を数ミリだして板に挟み、ハンマーで叩く。手首を捻りながら軽く擦るように叩くと、背が扇状に広がって、両端にわずかな隆起ができる。この隆起が「耳」で、耳の高さ=表紙の厚さにすることで、表紙と本文を合わせたときにぴたりと収まるようになる。


以上が「丸みだし」と「耳だし」の工程だ。このあたりの作業はことばで表現するのがつくづくむずかしいのだが、今回はなるべくこまかく書きだしてみた。しかし結果はご覧の通りで、こまかに書こうとすればするほど、製本に縁のない人にとっては「なんのこっちゃ」という文章になる。

そうなってしまうのは、耳馴染みのない専門用語のためだけじゃない。自分の未熟さを棚に上げるなら、そもそも、ものづくりをことばに置き換えるなんてナンセンスなのだ。編集者として実用書を編むこともあるわたしがこんなことをいってはいけないような気もするが……それでもやっぱりそう思う。

例えば耳だしをするとき、どこに目を配り、どんな音に耳を澄ませ、どんなふうに本と自分をつなぐのか。こうした手順と手順の隙間にある非言語の領域にこそ、大事なことがある。そしてそれは、ことばのみならず、写真やイラスト、動画ですら伝えきれないことだと思う。


何気ない行為の内側で、意識と無意識が入り乱れている。そこには場所や時間といった諸条件があり、さらには手を動かす人の性質や心模様、ともすれば半生までもが絡んでいる。製本の作業一つとってもそうなのだから、この世界で起きている物事はあまねく多層的で、全体的で、複雑だ。そのあらましをことばで表そうとすること自体、無謀というものだ。

しかしながら、詩や小説というものはまさにそれに挑んでいるわけで、だからこそ憧れる。作家たちは、世界とことば、心とことばの狭間に横たわる空洞を、どうやって埋めているのだろう。

ここであらためて小川未明の童話について考えてみたい。未明童話はいかにして非言語領域の機微を作中に抱き込んでいるのか。おそらく、その独自の文体によって、ではないだろうか。未明の綴る日本語は、紋切型に採点してしまえばちょいちょいツッコミどころがある……と、どこかで偉い人がいっていた。だけど、その文体一つで、そこに漂う空気の肌ざわりを、そこに流れる時間の粘り気を示してみせるものだ。


例えば、短編「月夜と眼鏡」に、こんなくだりがある。

「月の光は、うす青く、この世界を照らしていました。なまあたたかな水の中に、木立も、家も、丘も、みんな浸されたようであります。おばあさんはこうして仕事をしながら、自分の若い時分のことや、また、遠方の親戚のことや、離れて暮らしている孫娘のことなどを、空想していたのであります」

これを無味乾燥に書き直すと、次のようになるだろうか。多少意図的なところがあるかもしないが、お遊びとしてご容赦いただきたい。

「月光はうす青く、水中の景色のようだ。老婆は仕事をしながら若い頃のこと、遠方の親戚のこと、離れて暮らす孫娘のことなどを考えた」

同じことを語っていても、未明による原文が描きだす風景には深い陰影がある。青い月明かりの下、現実と幻想の境があやふやになる妖しさ。娘時代を思い返すおばあさんの胸をよぎる切なさ。こうしたことどもが、ことばの隙間からひたひたとにじむ。遠くの親戚や孫娘のことを「思った」でも「考えた」でもなく「空想していた」という一語からは、肉親への情と同時に交わりの希薄さが想像され、おばあさんの孤独が垣間見える。


わたしはこのような未明の文体に心地よく酔うばかりなのだが、その含意に富んだ文体が「よろしくない」と批判されたこともあった。未明の最晩年である1950年代後半、未明童話は激しく叩かれたのだ。「子どもの本のことばは、含意的でなく明示的であるべきだ」というのがその理由だったという。

アーシュラ・K・ル=グヴィンによる『文体の舵をとれ』の表現を借りるなら、文体とはリズムであり、響きである。未明童話の場合、響きよりも「調べ」といったほうがしっくりくるかもしれない。

未明の奏でる調べは、日本語が有するどうしようもない曖昧さを慎ましさや情深さとして差しだして、ことばの周辺の空洞を人肌の水で満たす。こてんぱんに叩かれた未明童話がいまあらためてわたしたちを惹きつけるのは、このあたりに秘密があるような気がしている。

さて、夜も更けて、机の上の電灯がまだ顔のない本をぼうっと照らしています。さきほどまでトタタン、タン、トタタン、タンと木槌を打ち鳴らしていた製本家が、ふいに手を止めました。「わたくしはこれで気の済むまで丸まりました、耳の具合もよいようです」と、本が囁くのが聞こえたのであります。「そうか」と応じるように小さく頷くと、製本家は本の背をさするように糊を塗り、寒冷紗やら花布やらを着せ、支度を整えてやりました。

……冒頭の工程のつづきを未明オマージュで書いてみた。製本の手順はさっぱり伝わらないが、こちらのほうがわたしのやっていること、わたしと本の関係をよりよく表しているように思う。


●『文体の舵をとれ ル=グヴィンの小説教室』アーシュラ・K・ル=グヴィン/大久保ゆう 訳(フィルムアート社)


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