【製本記】 飛ぶ教室 06 | 天を染めて思うこと
背に寒冷紗を貼ったところで、『飛ぶ教室』の天の小口を染めることにした。「小口(こぐち)」とは本の断面のことで、古きよき立派な本には、ここに金箔の貼られたものがある。天の小口に金箔を貼ることを「天金」といい、天金には装飾の目的のほか、汚れや虫害を防ぐ効果もあるそうだ。
残念ながらわたしには金箔を貼る技術はないので、アクリル絵具で染めることにした。よって虫害防止の効果はなく、装飾と汚れ隠しのため、ということになる。なぜ「汚れ防止」でなく「汚れ隠し」なのか……。実は、化粧断ちのときの「雨」(断裁機の刃による筋状の跡)が気になって天にやすりをかけたところ、見返しの黒い紙粉が小口を汚してしまったのだ。焦ったわたしは、小口を黒に染めることを思いついた。
結果、汚れは隠せたものの、雨はごまかせなかった。ふぅ……。投げだしたい気持ちをこらえて前へ進もう。こんなことで投げだしていては、最後までできあがる本なんてなくなってしまう。
まもなく本文が完成するわけだが、表紙のほうはどんな素材で、どんな意匠にするのか。当初から二つの案のどちらにするか、ずっと迷っていた。しかし、天を黒に染めたことが決定打となった。B案のほうでいくとしよう。B案がどんなものかは、次の工程でお見せする。
こんなふうに自分の意志だかどうだかよくわからない曖昧な形で、ふわふわと物事が決まっていくことがある。B案にしようと決めたのはわたしだが、天を染めていなければA案にしていたような気もする。天を染めようと決めたのはわたしだが、天が汚れてしまったのは偶然だ。偶然に流されているともいえるし、意図的に流れにのったともいえる。
これは一冊の本にまつわる些細な決めごとだが、わたしはもっと大切なことですら半ば流れに身を任せ、ふわふわと決めてきたように思う。だからこの『飛ぶ教室』の作者、エーリヒ・ケストナーが書いた唯一の大人向け長編小説『ファビアン — あるモラリストの物語』を読んだとき、ドキリとした。
小説の舞台は、ナチス前夜のベルリン。ファビアンは、32歳、独身、女には結構モテるほう。タバコ会社の広告部で働いている。物語の冒頭、彼はこんなことをいう。「今さ、30歳で結婚できるやつって、いるか? 失業してるやつもいるし、明日にでも失職するやつもいる。これまで一度も就職したことのないやつもいる。ぼくらの国は、後の世代が生まれてくるってことに、準備できてないんだ」—— まるで21世紀の日本だ。
日増しに生きづらくなっていく社会の只中で、ファビアンは立ち尽くしている。こんなのおかしいと感じながらも、抗う術がわからない。ジタバタしたところで何も変わらないという諦念も捨てきれない。苛々と足踏みをするように、自堕落と破廉恥に身を投じる。そして「ぼくは傍観してるんだ。それって無意味かな?」「野心がないのが幸せなんだ」なんてことをいう。
ケストナーは、日本では『飛ぶ教室』をはじめとする子ども向け小説で知られている。それらの主人公はみな一様に清廉で、ケストナー自身も決然と生きた人に違いないと思ってしまう。「ナチスに抵抗した信念の作家」というのが彼の人物像で、わたしもここまでそのように書いてきた。けれど、『ファビアン』を読むと印象が変わる。ケストナーとて、迷いや弱さ、妥協とは無縁ではなかったことがわかる。
どんな人もいくつかの顔をもっているし、誰の心も刻々とありようを変えていく。それが人間くささというものだ。『飛ぶ教室』で見せた、人間の中にある清らかなものを信じ、正しさとは何かを問う姿。『ファビアン』で見せた、無力感に苛まれながらも、生きるために時代と折り合いをつけようともがく姿。どちらもありのままのケストナーなのだと思う。
わたしがドキリとしたのは、この小説を、自分で判断できない者、あるいは自分を麻痺させて気を紛らわせている者に対する警告だと受け取ったからだろう。だけどそれは、人差し指を相手の胸に突きつけて断罪するようなものではなく、あたたかい手のひらを肩に置くような、情のあるものだった。
さて、小口を染めたら、花布を貼り、クータを貼る。これにて本文の完成だ。しかしながら、小口の染めがもったりしている。海綿で手早く染めたつもりが、少々やりすぎたようだ。
手数が多いのは、製本家としてまだまだである証拠だ。熟練した人ほど、少ない手数であっさりと目的を遂げる。でも、多くを経験しない限り、そこにはたどり着かない。たぶん、心も同じだ。多くを考えない限り、自分の力で判断できるようにはならない。
●『ファビアン — あるモラリストの物語』エーリヒ・ケストナー/丘沢静也 訳(みすず書房)