人が嫌いで避けてしまうのは、自分のことが嫌いだったから
アバターのインテグレイテッドコース、5日目と6日目。
アバターインテグレイテッドコースの2ラウンド目。
選んだトピックは「感情的遮断」だった。
私の中には「嫌!」という嫌悪感で人や物事を感情的に遮断する傾向がある。
嫌悪感の程度の差はあれ、人との関係性を避けたり、物事を経験することを避ける行為が、私の人生の幅を狭めているように感じたからだ。
さらに、サラリーマンを卒業し、フリーランスの個人事業主として独立して生きていきたいと願っている私にとって、この感情的遮断は致命的だと思った。
5日目は早速、この感情的遮断をテーマに、私が人生で変えたい状況を見つめていった。
人生で変えたい状況は、ズバリ、「人が嫌いで避けてしまうこと」だった。
人との関わり合いの中で人生を豊かに楽しみたい、と思っているのに、人を避けてしまう私は、人嫌いだと思っていた。
例えば、家族の団欒の時間にもあまり興味がなく、食事や後片付けなどの用が済んだらさっさと自分の部屋に戻る。
友達と旅行に行っても、仲間の輪から外れて単独行動を取ってしまう。
周りに合わせるのが苦痛でストレスに感じるのだ。
そんな自分を「私は自分中心のエゴの塊だ」「人に興味がない(人が嫌い)、自分にしか興味がない私はダメな人間だ」と自分で責めていた。
「人に合わせなければならない」と思い込んだのはいつ頃だっただろう。
すぐに思い浮かぶのは、中学校のバレー部の時にいじめられた記憶だ。
中学校からは地域の2つの小学校が合体したのだが、中学校1年生で入ったバレー部では、それまで顔馴染みのなかった小学校の生徒が新入部員の大半だった。
細かいことは覚えていないが、私の立ち振る舞いが彼女たちの「普通」に当てはまらなかったらしい。
部活が始まって間もない頃、私はいつの間にか1年生部員の陰口の対象になっているのに気づいた。
周りの部活のメンバーの私に対する目線がきつくなり、日に日に陰湿になるのを感じた。
それに気づいた私は焦った。
自分の一挙手一投足を見直し、彼女たちの立ち振る舞いを観察し、彼女たちの心理状況に関心を向け、合わせるよう一生懸命努力した。
その結果、「なんだ、わかってるじゃん」というような雰囲気になり、私と彼女たちの緊張状態が解けたのだった。
この経験は結構強烈で、「周りに合わせないとつまはじきにされる」「周りとは異質な人間は排除される」というサバイバル意識が私の中で生まれたような気がする。
でも本当にそうだろうか?
「周りに合わせないとつまはじきにされる」
「周りとは異質な人間は排除される」
「ありのままの私は周りからは受け入れられない」
「ありのままの私でいると人に迷惑をかける」
「マイペースは嫌われる」
という信念を私が使っていたからこそ、そのような状況を経験したのではないだろうか?
アバターでは、こうした自分の足を引っ張る信念を一つ一つ丁寧に感じていって、その創造の外に出ることで、自分自身に力を取り戻していく。
そして、これらの信念を自分で創り出し、使っていた創造主である本当の私を思いだすのだ。
今でも親しくしてくれている保育園の先生が語ってくれたエピソードがある。
その先生が初めて保育士として保育園にやってきた時、私が目に入ったそうだ。
他の子とは全く別行動をして、ご機嫌で鼻歌を歌っていたらしい。
そんな私を見て、その先生は、「ありのままに自由に生きて素晴らしいな」と思ったのだそうだ。
ご自身が、周りの目ばかり気にして自分らしく生きてこなかった、という抑圧した思いがあったからこそ、そう強く思ったらしい。
物心つく前の話だから、私はおそらく筋金入りのマイペースであり、他の人とは違う発想や行動を自然にとってしまうらしい。
そして、私はずっとそんな自分を否定していた。
一生懸命、周りのみんなと同じ人間になろうとして、マイペースや個性が活かされないような同調圧力の強い環境を敢えて選んできてしまった。
就職先は、その最たるものだった。
その結果、職場では同僚や先輩に「天然不思議ちゃん」と言われては落ち込み、上司からも「物差しからはみ出てるんだよね」と言われてはショックを受け、「こんなに一生懸命普通になろうと努力しているのに・・・。」と落胆してきた。
そして、何をどう頑張ってあがいても皆んなと同じになれない私に見切りをつけた私は、人と違うことで人から避けられ、傷つくのがますます怖くなった。
だって、人と違かったら、煙たがれ、嫌がられるからだと思っていたからだ。
人に傷つけられるのが怖いから、人を遠ざけるようになったのだ。
でも、周りのみんなと同じに生きなくていいとしたら?
みんなそれぞれが自分のペースで生きることが許されるとしたら?
私自身が、自分のユニークさを受け入れたらどうなるだろう?
一生懸命努力して、無理して、背伸びして、周りのみんなに合わせるために使ってきた膨大なエネルギーと時間とお金を、自分らしく自然体で楽しく快適に生きることに回すことができる。
そのためには、私らしさ、私の個性を生かし、発揮できる場所、人、物を選ぶことが何より大切。
いや、その前に、私自身が、私自身を丸ごとありのままあるがまま許し、受け入れ、慈しみ、愛することが必要なのだ。
私が私を丸ごと受け入れ、愛することができた時に初めて、人に対しても同じようにすることができるだろう。
世界は私の反映なのだから。