萩原朔太郎:近代詩の詩人
萩原朔太郎は大正と昭和の詩人(1886―1942)。10代後半には詩人としてデビューし、近代詩の代表的な詩人となった。。代表作には『月に吠える』がある。
萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)の生涯
萩原朔太郎は群馬県の前橋で医者の家庭に生まれた。少年期から文芸を好み、短歌を制作しては、『明星』などに投稿した。
この頃の萩原の短歌の一例
ひるすぎの HOTEL の窓に COCOA のみ くづれし崖の あかつちをみる
詩人として
萩原は詩作も行った。1913年、北原白秋(きたはらはくしゅう)主宰の文芸雑誌『朱欒(ざんぼあ)』に投稿した詩が掲載され、一定の評価を得た。
この頃、萩原は若き室生犀星(むろうさいせい)と知己になった。室生と『卓上噴水』や『感情』を創刊するなどして、ともに活動した。口語の自由詩を発表していった。
1917年、萩原は処女詩集にして代表作の『月に吠える』を公刊し、一躍文名を高めた。これは近代詩史上の記念碑の一つとなった。
『月に吠える』の詩を1つ紹介
竹
光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。
かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。
詩や評論と小説
1921年から萩原は詩の発表を再開した。1922年にはアフォリズムを集めた『新しき欲情』を公刊した。評論活動なども行った。
この頃、病気療養中の梶井基次郎の見舞いにいった。そこで、駆け出しの詩人の三好達治と知り合った。三好は『月に吠える』に感銘を受けていた。そこで、萩原と三好の師弟関係が始まった。
この頃から、萩原はすでに文学的に成功していた芥川龍之介と交流を始めた。萩原の言うところによれば、両者はかなり深い交際をした。二人の交際は、芥川が1927年に自殺するまで続いた。
萩原は突然この知らせを聞いて、裏切られたような怒りと寂しさを感じた。芥川が没して数年後、萩原は芥川との間柄やその人柄などについて「芥川君との交際について」で述べている。
萩原は芥川との関係を語る。芥川が萩原に興味を抱いたのは、おそらく両者のニヒリスティックな部分が共鳴したからだろう。芥川が最晩年に公刊した『河童』は萩原に読んでもらいたかったそうだ。萩原は芥川の著作への批評を行い、芥川は萩原の詩の批評を行った。
芥川は萩原の「郷土望景詩」を特に好み、称賛した。その感動を伝えるために、早朝に寝床から飛び起きて萩原の邸宅まで駆けてきたほどだった。
芥川が激賞した「郷土望景詩」から2つの詩を紹介
中學の校庭
われの中學にありたる日は
艶なまめく情熱になやみたり
いかりて書物をなげすて
ひとり校庭の草に寢ころび居しが
なにものの哀傷ぞ
はるかに青きを飛びさり
天日てんじつ直射して熱く帽子に照りぬ。
波宜亭
少年の日は物に感ぜしや
われは波宜亭はぎていの二階によりて
かなしき情歡の思ひにしづめり。
その亭の庭にも草木さうもく茂み
風ふき渡りてばうばうたれども
かのふるき待たれびとありやなしや。
いにしへの日には鉛筆もて
欄干おばしまにさへ記せし名なり。
晩年
1934年、萩原は詩集『氷島(ひょうとう)』を公刊した。これ以降、詩の制作はほとんどしなくなった。1935年、堀辰雄が創刊していた詩誌『四季』に迎えられ、後進を育てた。
萩原は1942年に没した。
※この記事の内容は基本編です。発展編の記事は、私のウェブサイトにて、全文を無料で読むことができます。
発展編では、萩原と芥川の関係をより詳しく説明したり、島崎藤村や中原中也などへの萩原の評価を説明したり、萩原のほかの詩や俳句、短歌を載せたりしています。
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おすすめ参考文献
中村稔『萩原朔太郎論』青土社, 2016
朔太郎大全実行委員会編『萩原朔太郎大全』春陽堂書店, 2022
安智史『萩原朔太郎と詩的言語の近代 』思潮社, 2024
※萩原朔太郎の作品は無料で青空文庫で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person67.html)
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
萩原朔太郎の記録された肉声
萩原朔太郎の肉声を国立国会図書館のデジタルライブラリで聞くことができます。萩原が詩を朗読しています(https://rekion.dl.ndl.go.jp/pid/3571577)。