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「概説 静岡県史」第169回:「日本国憲法と地方自治法の制定」

 早いもので、もう11月も最終週になり、来週は12月です。今年は秋らしい時期がなかったので、余計に早く感じるんでしょうね。今年中にやるべきことがまだいろいろあるのに、どう考えてもやりきれない気がします。
 それでは「概説 静岡県史」第169回のテキストを掲載します。

第169回:「日本国憲法と地方自治法の制定」


 今回は、「日本国憲法と地方自治法の制定」というテーマでお話します。
 GHQによる地方制度改革は急速に進行していきましたが、当初は内務省がこれに抵抗し先手を打つ形で、1946年(昭和21年)9月27日に「府県制」、「市町村制」の改正を行いました。改正された「府県制」の骨子は、①府県知事・市町村長の公選、任期は4年、知事の被選挙権の要件たる年齢は30歳以上、②府県および市町村会議員選挙権の年齢は20歳以上、被選挙権は25歳以上、新たに女性参政権を認め、破産者や公私の扶助を受ける者に選挙権および被選挙権を認めない「公民権」制度の廃止、③公選制の採用により現職の立候補の可能性を考慮し、選挙事務の公正確保の必要性から別に民主的な選挙管理員会を置き、この委員会に選挙事務を管理させる、④府県・市町村住民の条例・規則の制定、事務の監査、議会の解散、知事・市町村長・議員・監査委員・選挙管理委員の解職を請求する権利などの直接請求権の創設、⑤内務大臣の府県会解散権を廃止するなど国の監督権を極力整理し、府県・市町村監査委員を創設し、事務全般にわたる自主監査制度を設けるなど、事務の公平の確保と自治の強化、⑥府県・市町村の条例をもって府県会の議決事案を定めることができるものとして、事務の管理、議決の執行および出納を検査し、監査委員の監査を請求することとするとして、その改正に伴う案件を処理するために10月25日に「府県制」による最後の県会が開催されました。ここで①「県会議員配当数条例」、②「監査委員制度創設関係条例」、③「県会議員の報酬等支給条例」が議決され、選挙管理委員会制度の創設に伴い、6人の委員、同数の補充員を県会において選挙することになりました。なお、内務省は47年12月31日に解体されました。
 「日本国憲法」は、「国民主権、平和主義、基本的人権の尊重」の三大権利を構成原理としています。それは「万世一系」、「神聖不可侵」の天皇による支配=「国体」の絶対性を原理とする「大日本帝国憲法」からの大転換でした。しかし、その大転換が日本国民の意識の転換を伴っていたかどうかは疑問です。「日本国憲法」の制定過程において、1946年(昭和21年)3月6日に幣原内閣が「帝国憲法改正草案要綱」を発表するまでGHQと日本政府との間の密室的なやり取りがありました。要綱発表直後の3月11日の告示により、わずか1か月後の4月10日に、事実上の制憲議会としての性質を持つ衆議院議員選挙を実施したため、日本国民が憲法について議論し、その「自由に表現せる意見」(憲法前文)を制定過程に反映する可能性は著しく狭められてしまいました。そのため静岡県民の憲法をめぐる動きは、憲法制定すなわち公布、施行以降の、上からの「新憲法精神普及徹底の全県民運動」が中心とならざるを得ませんでした。
 「地方自治法」は、①都道府県知事・市町村長の直接公選、②地方議員の選挙権の拡大、③条例の制定および改廃などの直接請求権、④地方議会による条例制定の点では、先の地方制度改革と基本的には同じでした。しかし、帝国議会に対する枢密院と対比させられてきた参事会の廃止や、常任委員会制度の採用などが追加されたことは重要で、特に常任委員会制度は戦後地方議会の議事運営の点で画期的な改革でした。47年(昭和22年)6月5日に制定された「静岡県議会委員会条例」によると、常任委員会は総務、民生、教育、衛生、第一経済、第二経済、土木、警察、請願の9委員会があり、議員は少なくともどれか1つの常任委員になることが定められました。こうして1888年(明治21年)の「市制」「町村制」以来、天皇の名による官僚支配の末端の役割を果たし、特に1943年の地方制度改革によって国策遂行の協力・動員機関に転落していた地方公共団体は、ようやく首長公選制、条例制定権、直接請求権を柱とする地方自治制度に転換しました。
 47年(昭和22年)4月5日は、事実上「日本国憲法」と「地方自治法」に基づく第1回都道府県知事および市町村長選挙、20日第1回参議院議員選挙、25日第23回衆議院議員選挙、30日戦後初の第12回県会議員選挙および市町村議会議員選挙が行われたことは県政にとって重要な意味を持ちました。新しい地方自治の第一歩というべき知事選挙は、静岡県も他の多くの県と同じく、官選知事を退職して出馬した前知事が、戦後最初の民選知事となるコースをたどりました。前知事の小林武治が社会党から立候補した福島義一らを大きく引き離し、得票率約70%で当選し、47年4月12日に知事に就任しました。また、県議会議員・市町村議会議員の選挙について、県議会議員選挙は39年10月14日に施行されて以来、戦時中3度任期が延期されていたため8年ぶりでしたが、公職追放の影響が大きく、当選63人中、前県会議員はわずか4人でした。党派別では保守勢力が自由党29人、民主党9人、国民協同党7人と優位を占め、革新勢力は社会党の9人、他無所属14人でした。市町村の選挙は、47年5月13日付け「静岡新聞」によると、市長選挙では民主党3、自由党1、諸派1,無所属3、町村長選挙は自由党8、国民協同党6、社会党5,民主党2、無所属268であり、市議会議員では自由党30、社会党11、民主党10、諸派5、無所属182で、町村議会議員は社会党107、自由党96、民主党10、国民協同党10、共産党8、無所属5285と報道されています。
また参議院議員選挙は全県1区定員4人で、任期は6年、半数が3年ごと改選という制度で実施されましたが、自由党2人、保守系無所属2人で保守が優位を示しましたが、中選挙区3区制で行われた衆議院議員選挙では、14席中、自由党5、民主党2、国民協同党2に対して、社会党5と躍進し、全国的にも第一党となって、5月24日の民主・国民協同党の支持を得た片山哲社会党内閣の成立へとつながりました。その後49年1月23日に実施された第24回衆議院議員選挙では、民主自由党9、民主党・国民協同党・社会党・共産党がそれぞれ1人のほか、無所属1人が当選しました。50年6月4日の第2回参議院議員選挙(全県1区、定数2人)では、自由党・緑風会各1人でした。なお緑風会は、保守系無所属の議員で構成された院内会派です。
 1949年の『静岡県勢総覧』によると、49年ごろの静岡県内の政党状況は、民主党(神田博県支部長)は12支部で支部党員1141人、民主党(岡野繁蔵県支部長)は4支部で160人、国民協同党(竹山祐太郎県支部長)は3支部で346人、社会党(橋本富貴良(ふきら)県支部連合会長)は24支部で2122人、共産党(吉葉清一県委員長)は3地区委員会554人となっており、ほかに浜松民主同盟(87人)、遠州民主同盟(7人)、立憲養成会静岡県支部(57人)、道義憲政会(16人)、新政日本党駿豆支部(24人)、日本民主党静岡県支部(5人)、静岡民主連盟(15人)、八日会(153人)、静岡民主クラブ(34人)、南豆民主クラブ(23人)、東海民衆同盟(6人)が小政党して存在していたとされています。
 次回は、「県行政機構と衛生・福祉行政の確立」というテーマでお話しようと思います。

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