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「概説 静岡県史」第163回:「戦時体制の存続と戦後改革の始まり」

 三連休で、良い天気ですので、お出かけ日和ですが、やはり出かけることなく、何かいろいろしていると時間が過ぎてしまって、結局だらだら過ごしてしまっています。まあ、何も成果なく過ぎてしまったわけではないのが、せめてもの救いですが、充実感のある休日(気持ちとしては日常を離れた時間を過ごしたいのですが)を過ごせるようになりたいものです。
 それでは「概説 静岡県史」第163回のテキストを掲載します。

第163回:「戦時体制の存続と戦後改革の始まり」


 今回は、「戦時体制の存続と戦後改革の始まり」というテーマでお話します。
 日本の敗戦は、1945年(昭和45年)8月15日の正午に流された玉音放送により、突然国民に知らされました。劣悪なラジオの放送品質のため音質が極めて悪かったうえ、天皇の朗読に独特の節回しがあり、また詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人々の証言が多く、玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気などで事情を把握した人が大半だったと言われています。この放送は法制上の効力を特に持つものではないのですが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言えます。
 玉音放送の後、行政組織としての静岡県および市町村は、中央からの指示を待って対処するという態度を保持し、県民もこれまでの集団的規律を維持して平静な日常生活を続けました。これは県民が敗戦を予期して対処の方策を身に付けていたからというわけでなく、戦時体制を支えてきた町内会・部落会をはじめとする諸組織がすべて機能していたからにほかなりません。敗戦から3か月後の11月に、各地方事務所が「事務引継書」を作成して県に提出しましたが、それを見ると、各郡ともに戦時中の国民運動組織が依然として住民生活を律する役割を果たしていたことが読み取れます。例えば、磐田地方事務所の引継書では、「開所以来、情報宣伝に関しては上司の指示基き町村常会、部落町内会常会を通ずると共に、翼賛、翼壮、婦人会其他の諸団体と或は表裏し或は連携し政府の施策に対する理解と徹底を期し、所長自ら直接に指揮せらるると共に、係員之が指導に努め」て敗戦を迎えたと記し、「終戦後に於ては、郡民中不安動揺其の帰趨宇に迷ふものあるを察し、町村民に接触、不平不満を聴くと共に、其の嚮(むか)ふべきを誤らざらしめんと管下町村を強力推進のため所長と共に村常会の一巡を図り、十月中既に四ケ村に実施」したと報告しています。また、敗戦時にいったん解散された婦人会や青年団は「皇国再建の基盤として其の自発活動を促進せしむる為め再出発を慫慂(しょうよう)」して、新生の婦人会や青年団を誕生させたとされています。
 これは特別な事例ではなく、各地域に共通するものでした。町内会・部落会は維持され、「47年4月までに解散せよ」という連合国軍最高司令会総司令部(GHQ/SCAP、以下GHQ)の指令が出されるまで、戦争中の有無を言わさない上位下達行政への住民の反発を抑えて、戦後の日常生活を営む基盤にされました。
 行政組織の根強さは、敗戦直後から激しくなった悪性インフレに対し、地方事務所が各町村に指示して「皇国再建、赤誠貯蓄」運動を進め、通貨の回収を図ったことに示されています。その手足とされたのが、戦時中に結成されていた「国民貯蓄組合」の指導員や推進委員でした。このような運動が大きな経済的意味を持ったとは思えませんが、「取り付け騒ぎ」が起こるのを抑え、平静を保つ効果があったと思われます。また、戦死者の遺家族に対する援護事業も継続されるなど、地域における戦時体制は戦後も生き残り、住民の判断や行動に影響を与え続けました。
 この戦時体制が打破されたのは、1945年10月、GHQが「民権自由に関する指令」(4日)、「民主化に関する五大改革指令」(11日)を出し、戦時体制を支えた諸法規と諸制度を解体して政治・経済・社会・労働・教育などの民主化を進めるように指示したことによります。この指令は、各分野について具体的で詳細ないくつもの指示によって実施されました。例えば元軍人の葬儀にあたり政教分離の原則を適用するように求めたり、戦時体制下では学校教師が生徒を引率して「英霊」を駅に出迎えたり、村長が各戸に国旗を掲揚するように指示するのが常でしたが、これを禁止し、葬儀は個人や私的団体で実施するだけにするように命じるなど、国民生活の隅々にまで浸透していた国家神道を廃止する政策が取られました。
 また、同年9月24日「武器回収指令」が出されて「けん銃、小銃、刀剣類を遅滞なく回収し、すみやかにこれを完了すること」と通知され、10月23日に「武器引渡指令」によって、民間人保有の武器を徹底的に没収したことも、地域住民における軍国主義思潮の解体に、少なからず意味を持ったと思われます。武器の没収に応じない者に対しては懲役刑や罰金5000円を処するという圧力のもとで推進されたことから、秀吉の刀狩りをはるかにしのぐ徹底した民間武器回収事業だったと思われます。当時の占領軍指導部は、本国の文化人類学者に従って、日本国民が刀を武士道精神のシンボルと見なし、これを国家主義や国粋主義のよりどころとすると判断していたため、このシンボルが各家庭に温存すると再び軍国主義思潮が復活すると考えたことから、この政策はポツダム宣言の武装解除事項を実現するためだけでなく、超国家主義の解体という意図も持っていたと考えられます。
 戦後、軍人の生死と所在を確認し生存者を日本に帰国させることは、極めて困難な事業でした。敗戦後、海外から引き揚げた日本人は約639万人に上り、中国本土163万人、満州127万人、南北朝鮮92万人、ベトナム、インドネシア、フィリピンを除く東南アジア71万人、台湾48万人、ソ連47.3万人、千島・サハリン29.3万人、フィリピン13.3万人、太平洋諸島13.1万人、ベトナム3.2万人、インドネシア1.6万人、香港1.9万人などとされています。
 陸軍出征者は不明ですが、県内から海外に派遣された海軍軍人数は、1947年(昭和22年)8月現在で3万2000人とされていますが、これは全国250万人の1.3%です。そのうち死没者は8603人、生存者のうち、この時期までに復員した者が2万2650人、生存が確実で未復員者は747人とされています。軍人・軍属と一般邦人を合わせた静岡県出身者の引き揚げ状況は、敗戦から4年後の49年10月1日現在で3373人の未引き揚げ者がいるとされています。
 次回は、「やみ取引の横行と昭和天皇の静岡巡幸」というテーマでお話しようと思います。

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