【源氏15】義経キミは強かった... 頼朝は日本のキングに
歴史のオモシロさを少しでも伝えられたら、という想いで歴史ドラマを「人物相関図」でご紹介しているnoteです!
今回のシリーズは源頼朝&源義経。
ドラマチック過ぎる兄弟の物語です。まとめマガジンはコチラから↓
前回の記事では弟・義経が潜伏している奥州に兄・頼朝が圧力をガンガンかけているところまでを描きました。記事はコチラ↓
今回の記事は。
あぁ、ついに。
頼朝・義経ブラザーズとの別れがやってきます。。。
義経 超ピンチ! 守り神・藤原秀衡が他界
義経にとっては幼きころ、京都の鞍馬寺を飛び出した自分を迎えてくれた奥州のボス・藤原秀衡。
そして、頼朝に追われた自分をかくまってくれたのも秀衡です。
この超恩人がついに亡くなってしまいました。
義経にとっては激ヤバ状態です。
秀衡には3人の息子たちがいました。
その中で、跡取りとなったのは藤原泰衡(やすひら)。
秀衡は亡くなる前、このような遺言を残します。
義経どのを主君と思ってお守りし、共に鎌倉(頼朝の幕府)に対抗せよ
息子たちに他人である義経を「主君とせよ」と命じるとは、
秀衡がよほど義経の能力を買っていたんだなぁ、と思わせられます。
さて、新たな当主となった泰衡は、父の遺言どおり義経を守っていきます。
がんばれ、泰衡!
義経よ、キミは強かった。。。戦の天才の最期
義経にとっては超ショックであった藤原秀衡の死。
鎌倉の頼朝にとってはチャンスです。
当主が変わったばかりの奥州に「義経を出せやコラ」の圧力をかけまくっていきます。
父の遺志を受け継ぎ義経を守っていた藤原泰衡ですが、、、
ごめん、義経どの、もうムリ。。。
頼朝さん、おっかないもん。
となってしまいます。
自分たち奥州を守るために、義経を討つことを決断します。
そして義経の館に兵を向けた泰衡。
兵に取り囲まれた義経は自害して果てたと言われています。
こうして日本史上でもトップクラスの戦の天才・源義経は世を去りました。
31歳。
幼きころに父や兄たちを平氏に討たれ
打倒平氏の思いを胸に抱き若武者に成長し
兄・頼朝との再会に心を震わせ
自身の戦の能力をフル発揮して平氏を倒し
頼朝との溝が深まり、対立
最後は兄に追い詰められて自害する
そんな31年間。
お兄ちゃんと分かり合えたらよかったけれど、それはかなわなかった。
武家政権のトップに立つ兄のビジョンを義経は理解しえなかった。
せつないっす。
頼朝、奥州を滅ぼし最強キング
藤原泰衡は頼朝に対して
義経のヤツを討ち取りました。
これで許してくれますよね?
と伝令を出しますが。
頼朝は。
ダメ。滅ぼす。
こういうところが頼朝のスゴイところだな、と感じます。
弟・義経を討ち取ることももちろんだが、頼朝は武家政権の確立の最後の障壁となっていた奥州藤原氏をこのタイミングで討ち滅ぼしてしまおう、と考えていたのです。
義経が奥州に逃げこんだことは頼朝が奥州を滅ぼす良いきっかけを与えてしまった形となりました。
カリスマであったボス・秀衡が亡くなり、力が衰えた奥州藤原氏を圧倒的武力で滅ぼした鎌倉軍団。
これで日本に頼朝の敵はいなくなりました。
無敵のキング状態。
そして1192年、頼朝は征夷大将軍となります。
フォーエバー鎌倉殿… 初の武士政権を打ち立てた頼朝の死
初の武士政権を樹立した源頼朝。
偉業を成し遂げた彼にも最期の時がやってきます。
52歳。
落馬が原因でその一生を閉じたと言われています。
13歳。初陣となった戦で父・源義朝が死亡
罪人として捕まり平清盛の前に引き出される
運よく死罪は免れ伊豆の地に流される
20年間の流人生活の後、旗揚げ
死の危機を逃れながら自身の軍団を大きくする
平氏を滅ぼし大願成就
弟・義経を罪人と認定し、指名手配する
義経を討ち、ライバルも倒しキングになる
こうしてみると、頼朝の一生は「どん底からの逆転劇」だったんだな、と感じます。
弟の義経の死の報を聞いたときはどんな気持ちだったんでしょうね。。。
源頼朝がつくりあげた鎌倉幕府は、その後、2代目の源頼家が将軍となります。
が、すんなりいくわけもなく。。。
身内、仲間同士で殺し合い。
壮絶な権力争いの後、鎌倉幕府は北条氏が仕切っていくこととなります。
まさに諸行無常。。。
さて、次回の記事では源頼朝&源義経ブラザーズのドラマチック人生の総まとめをやってみたいと思います。記事はコチラから↓
そしてその次の記事からは「藤原道長」の一生を人物相関図を使ってご紹介していきますっ。
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