源頼朝&源義経 の一生【人物相関図】で分かりやすく総覧
歴史の楽しさを「人物相関図」でエンタメ的にご紹介しているnoteです!
全15回の記事でつづってきた源頼朝&源義経ブラザーズの物語(まとめマガジンはコチラから↓)
今回の記事では頼朝と義経の一生を「人物相関図」を使って一気にまとめてみたいと思います!
ちょっと長いですけど、2人の兄弟の人生を流れでつかめるかと思います。
平清盛が源氏をフルボッコ!
京都で起こった「平治の乱」という権力争いの戦いで、平氏のボス・平清盛によって、源氏が討伐されます。
源頼朝&義経の父・源義朝、兄・源義平らが殺されてしまいます。
源頼朝、まさかの「ソックリさん」で命拾い
源頼朝は平氏に背いた罪人として捕まります。
死罪が決まっていましたが、平清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)の幼くして亡くなった息子に「ソックリ」というミラクルが発動。
頼朝を哀れんだ池禅尼の嘆願により死は免れ伊豆の地に流刑と決まります。
弟・源義経は鞍馬寺で仏僧になる修行がスタート
京都で母・常盤御前と共に平氏に捕まった源義経。
命は助けられるが、平氏に刃向かわないように寺に預けられ仏僧となるように言い渡されます。
こうして2人の兄弟は離れ離れに。
義経、奥州への旅立ち
打倒・平氏への思いを胸に抱く義経は鞍馬寺を抜け出し、平氏の力が及ばない土地・奥州へ。奥州藤原氏のボス・藤原秀衡の庇護を受けます。
源頼朝 伊豆で20年間の流人生活。そして恋!
伊豆に流された源頼朝。
なんと20年間も流人生活が続きます。
平氏に逆らった罪人である頼朝は仕事なんかありません。
頼りは乳母であった比企尼(ひきのあま)が京都から送ってくれる仕送り。
そして、同じく京都からは三善康信(みよしやすのぶ)が、京都の情報を頼朝に送り続け支えてくれていました。
伊豆では伊東祐親(いとうすけちか)と北条時政という豪族が頼朝の監視役。
頼朝、この伊東祐親の娘・八重(やえ)と恋に落ちます。
恋をしてはならない2人が恋をしてしまいました。
ブチ切れした伊東祐親により頼朝と八重の間は裂かれてしまい、あえなく失恋。
頼朝、北条政子と熱愛&結婚!
その後、北条政子と熱愛した頼朝。
またもや禁断の恋。
政子の父・時政の反対も押し切り、2人は結婚します。
源頼朝、ついに挙兵じゃー!! 平氏をぶっ倒すゾ!
京都では平氏の圧政への不満から皇族の以仁王(もちひとおう)がクーデターを画策。
全国の源氏たちに「みんなで平氏を倒すんだ!」という指令を出します。
あえなく以仁王は平氏に討伐されてしまいますが、これがきっかけで、源頼朝もついに挙兵。打倒・平氏への一歩を踏み出します。
頼朝、ボロ負けからのV字回復ッ!
挙兵した頼朝は初戦で山木兼隆という平氏チームの敵を打ち倒し勝利。
だが、第2戦の「石橋山の戦い」では平氏軍にボロ負け。
相手側の梶原景時(かじわらかげとき)に命を助けられ、何とか生き延びます。梶原景時は後に頼朝の腹心となる人物。
海路で安房の国(今の千葉県南部)に逃げた頼朝は、そこで武士たちに参陣を呼びかけます。
すると、平氏に不満を持っていた武士たちが大集合。
頼朝軍はみるみるうちに大きくなっていきます。
富士川の戦いで大勝利! 頼朝、超ライジング
かつてお情けで命を救ってやった頼朝が反乱を起こしたことにブチ切れしている平清盛は大軍を差し向けます。
だが「富士川の戦い」で平氏軍は「水鳥の羽ばたきの音」を敵襲の音だと勘違いし敗走。恥ずかしい大敗を喫してしまいます。
勝利した頼朝軍はどんどん勢力を大きくしていきます。
頼朝と義経、涙の再会ッ! 一緒に平氏を倒すんだ!
一方、弟の義経は兄・頼朝挙兵の報を聞き、奥州を旅立ち頼朝の軍に馳せ参じます。
約20年ぶりの再会を果たした兄弟。
共に力を合わせ、平氏を倒すことを誓い合います。
そして頼朝は拠点を鎌倉の地に築きます。
平清盛の死、そしてライバル・源義仲の進撃ッ!
頼朝・義経ブラザーズが鎌倉で力を蓄えているころ。
平氏のボス・平清盛が他界します。
死の間際に「必ず頼朝の首をとってオレの墓にささげろ!」とめっちゃ怖い遺言を残したと言われています。
清盛の死をきっかけに平氏の勢力も弱まっていきます。
さて、頼朝・義経の従兄弟にあたる同じ源氏の有力者に源義仲がいます。
傍らには最強の女性武士・巴御前(ともえごぜん)がいつも寄り添っている。
頼朝をライバル視していた義仲は頼朝よりもはやく京都にのぼろうと画策。
「俱利伽羅峠の戦い」などで平氏軍を打ち破り、上京します。
義仲を討つため義経が京都へ!
義仲の進軍により、平氏軍は京都を捨て西へと逃げ去ります。
京都に入った義仲ですが、都の雅なルールやモラルが分からない荒くれものでした。
時の権力者・後白河法皇との仲も冷え切ってしまい法皇を幽閉してしまいます。
そんな義仲を討つため、頼朝は義経たちを京都へと出動させます。
義経が義仲を倒し京都入り
義経たち鎌倉軍団は「宇治川の戦い」で義仲を撃破。京都入りします。
義仲を追い出したステキな若武者・義経に京都の人たちは熱視線を浴びせます。
戦の天才・義経の大活躍!
ライバル・義仲を討った後はついに平氏と「一ノ谷の戦い」で直接対決!
義経は崖の上から馬で駆けおりるという超サプライズ戦略を発動させます(本当に崖から駆けおりたかどうかは諸説アリ)。
戦の天才・義経の大活躍で平氏は逃げ去っていきます。
義経、それアカンやつ! 後白河法皇から任官
平氏を蹴散らした義経は京都で大人気。
後白河法皇から直接「検非違使左衛門小尉(けびいしさえもんのしょうじょう)」という官位を授かります。
「兄上(頼朝)もお喜びになるだろう」と喜ぶ義経でしたが、これを聞いた鎌倉にいる頼朝はブチ切れ。
頼朝が構想しているのは自分が武家のトップに立ち、朝廷とやり取りをするのは自分だけで、武士たちは直接、朝廷とはつながらない体制。
朝廷から勝手に官位を授かる行為は「絶対にダメ」と武士たちに厳重注意していました。
それを勝手に破ってしまった義経。
兄弟の仲に溝が入り始めます。
義経、再びミラクル戦略で無双ッ!
「一ノ谷の戦い」で大敗を喫し西に逃げていった平氏軍を討伐するのはもう一人の頼朝の弟・源範頼(のりより)。
だが、鎌倉から遠く離れた地での戦いに兵糧も尽き、兵士たちも弱り切っています。
ここはスーパーエース義経を出すしかない。
義経の出番です。
有力武将の梶原景時からのアドバイスを無視してモメたりしながらも、義経は大嵐の海を船で渡り、平氏の本拠地である屋島(現在の香川県)を攻撃。
まさか暴風雨の海を渡ってくると思っていなかった平氏軍はまたしても義経によってボロ負けします。
義経、ついに平氏を討伐 源氏の大勝利!
義経は平氏との海上での最終決戦「壇ノ浦の戦い」に臨みます。
開戦前、また梶原景時と意見衝突しますが、そんなことは気にせずに義経は大活躍。
ついに平氏を滅ぼします。
ですが、頼朝のミッションであった「安徳天皇と三種の神器の奪還」はかないませんでした。
幼い安徳天皇は海に入水して命を絶ってしまった。
京都から逃げ出すときに平氏が持ち去っていた天皇家の権威の象徴・三種の神器も鏡と勾玉は取り返したのですが、宝剣だけは海の底に沈んでしまい見つからなかったそうです。
そういった意味では平氏は打ち負かしたが、プロジェクト自体は未完成だったといえるかもしれません。
義経がめっちゃ嫌われ者に
自分の活躍で平氏を打ち負かした義経は有頂天になっています。
だが、そんな義経のネガティブキャンペーンをしていたのが事あるごとに義経と衝突していた梶原景時。
梶原景時は「義経の勝手な振る舞いで兵士たちが困っている」というリポートを頼朝に送っていました。
後白河法皇から勝手に任官を受け、自分のビジョンとは違う行動をとる義経に対し、頼朝は不信感を募らせていました。
何より武士団たちから嫌われている義経を組織の中に迎え入れることは鎌倉軍団のボス・頼朝としてはばかられます。
頼朝は義経を「排除」することに決めました。。。
頼朝が義経を排除! 悲しき兄弟の争い
自分の部下・御家人たちに「義経を鎌倉に入れるな」と言い渡した頼朝。
義経に対し断固NOを突きつけ、会おうともしません。
これで兄弟の仲は完全に決裂。
京都に戻った義経に刺客を送り襲うなど兄弟間はバトルに突入していきます。
義経、悲しき逃避行の始まり
命を狙われた義経は頼朝に対抗するために挙兵。
でも、全く兵は集まらず、義経はほんの少数の部下たちと共に逃避行に出ます。
たどり着いた場所はかつて過ごした奥州でした。
この地で義経は恩人・藤原秀衡にかくまわれます。
頼朝の鎌倉幕府がスタート
義経探索と並行して、頼朝は自らの武家政権の足固めを着々と進行。
全国に「守護・地頭」を任命する権利を朝廷に認めさせます。
守護は国ごとに置かれる地方行政官。
地頭は土地の管理、徴税を行います。
これにより朝廷ではなく武家が全国を支配する基礎固めが出来上がりました。
1185年、鎌倉幕府の樹立といわれています。
戦の天才・義経、奥州の地で果てる
「義経を引き渡せ」と奥州に圧力をかける頼朝に藤原秀衡は抗い、義経を守ってくれていました。
ですが、そんな藤原泰衡が他界。
息子の藤原泰衡(やすひら)も父・秀衡の遺言を守り義経を守ろうとはするのですが、頼朝からの圧迫に耐え切れず、義経を裏切ります。
藤原泰衡の襲撃を受けた義経は「これまで」と自害し31歳の生涯を終えます。
頼朝、奥州を滅ぼし日本のキングに
義経を裏切り、抵抗してこなくなった奥州。
ですが、頼朝にとって奥州さえ倒せばもう自分のライバルはいなくなる。
頼朝はそのまま奥州を一気に滅ぼしてしまいます。
これで名実ともに日本を統べる武家のトップに立った頼朝。
その後、52歳で死去。落馬が原因だったと伝えられています。
さぁ一気に、源頼朝&源義経ブラザーズの一生を振り返ってみました!
一族を滅ぼされた兄弟
20年間じっと耐えて力を蓄え
兄弟2人で大願成就を果たす
だが、その後、兄弟同士で争うことに
弟は東北の地で果て、兄は鎌倉で日本のトップとなる
本当にドラマチックな兄弟だなぁと感じます
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そして次回の記事からは「藤原道長」の一生を「人物相関図」でご紹介していきますっ。