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邪馬台国は伊勢遺跡①

 邪馬台国は畿内(大和)でもない、九州でもないとすると、いったいどこにあったのでしょうか?

 私は琵琶湖の南東、滋賀県守山市と栗東市にまたがる伊勢遺跡が本命だと考えます。
 滋賀は古い地名でいうと近江。厳密には畿内には含まれません。
「でも同じ近畿ってことは、畿内説の変形版だろう」という意見には「違います!」と声を大にして言います。

 畿内説の公式見解は、《畿内(特に大和盆地)にあった邪馬台国が発展・進化してヤマト王権となった》です。さらに《神武天皇は実在せず、東征も架空の話》がお約束です。
 しかし、記紀にある神武天皇の記述や、各地に伝わる東征伝承を全否定できるだけの文献資料が存在しないことは〔邪馬台国はなぜ見つからないのか?②〕で紹介しました。

 さらに九州説も、東征後に大和・橿原宮で即位した神武天皇の行動から判断し、「九州も邪馬台国に非ず」の結論を導きました。

 私が考える正解は、
「邪馬台国は近畿地方に存在したが、九州から来た神武天皇によって滅ぼされた」。
 つまり邪馬台国とヤマト王権は連続して(つながって)いないという考えです。

 邪馬台国が滅びた時の王(女王)は、むろん卑弥呼ではありません。「魏志倭人伝」には卑弥呼の死後、台与(または壱与)が邪馬台国女王の座を継いだと記されています。
 そして台与の後も邪馬台国は続き、不幸にして神武東征を迎えた〈最後の王〉はニギハヤヒだったと考えます。
 神武東征の実年代は3世紀末から4世紀初頭。つまり初代女王卑弥呼から最後の王ニギハヤヒまで、邪馬台国は約100年続いたという計算です。

 そして冒頭で書いたとおり、伊勢遺跡は邪馬台国の初代女王・卑弥呼の王宮があった場所である可能性が高いと考えます。
 
 今回はその伊勢遺跡について述べます。

 伊勢遺跡は東西約750メートル、南北約約400メートルの弥生時代後期の遺跡で、これまでさまざまな形状の13棟の大型建物が見つかっています。

 特筆すべきは直径約220メートルの円周上に、独立棟持柱付き大型建物が等間隔で配置されていることです。
 発見されているのは一部ですが、推定30棟の同じ形の大型建物が建っていたと推測されています。
 
 これらの建物は伊勢神宮の祭殿とまったく同じ構造をしており、すべて円の中心を向くように配置されています。
 伊勢神宮が創建されたのは7世紀末の持統天皇の時代。それより約500年も前に、同じ形状の建物が建てられていたのです。
 そのことから神社建築の原型となったと推測する学者もいます。

 円の中心には柵で四角く囲まれた区画があり、それを守るように3階建ての楼観が建てられています。柵の中にはL字型に主殿、脇殿、祭殿など4棟が建っています。

 こんな珍しい構造の遺跡は、日本中探してもどこにもありません。唯一無二です。
 しかも『魏志倭人伝』にある「宮室・楼観・城柵、厳かに設け」の記述と符号します。
 円を描く建物の数が30棟(推定)というのも「使訳通ずる所三十国」という「倭人伝」の記述と一致します。

 伊勢遺跡について語るには、限られた紙数ではとても説明しきれません。
 興味のある方は、「NPO法人守山弥生遺跡研究会」さんのHPをぜひご覧ください。図版をふんだんに使いとてもわかりやすく説明されています。

 ただし、こんなすごい遺跡であるにもかかわらず、伊勢遺跡は長いこと注目されてきませんでした。
 それはなぜか?  ひとことで言えば「時代が合わない」からです。
 
 伊勢遺跡の盛行期(ピーク)はせいぜい西暦200年ごろまで。
 つまり卑弥呼が「倭人伝」に登場する景初3(239)年までには、すでに衰退していたと考えられてきました。

 次回は、それでも伊勢遺跡が邪馬台国であると考える根拠を説明します。


★見出しの写真は、琵琶湖の湖面。みんなのフォトギャラリーから、basicincome_momoさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。



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