What a ''Mondoful ''World
悪魔というものが存在せず、ただ人間が創ったものだとすれば。
─1961年9月18日
スウェーデン航空DC6B機、コンゴ動乱に揺れる北ローデシア(現在のザンビア)・ウンドラ空港到着寸前に謎の墜落。当地で紛争の調停に臨む予定だった国連職員16人全員が死亡。犠牲者の中に国連事務総長ダグ・ハマーショルドの名があった事で、国際世論は動揺した。
─1980年代前半
ラリー・C・フォードとジェームズ・パトリック・ライリー、バイオテクノロジー企業「バイオフェム」社を立ち上げる。
─1981年4月
南アフリカ国防軍(SANDF)の前身である南アフリカ防衛軍(SADF)のトップレベルの会合で、「プロジェクト・コースト」の本格的な実行が決まる。10年近く続いた南アフリカ最悪の生物化学兵器開発計画の始まりであった。
─1997年12月
ラリー・C・フォードとジェームズ・パトリック・ライリーが避妊具「インナーコンフィデンス」を主軸としたビジネスの展開を発表。
─1998年8月18日
アパルトヘイト体制の下で行われた人権侵害を調査する南アフリカの真実和解委員会が、別件の調査中に入手した極秘資料を公開。それは政府の秘密作戦を実行した傭兵部隊「南アフリカ海洋研究所」とイギリス、アメリカの諜報機関の1961年のやりとりを記録したもので、当時の国連事務総長ダグ・ハマーショルドの乗ったDC6B機の車輪格納部に爆弾を仕掛ける計画が立案されていた事を示していた。イギリスは関与を否定。
─2000年2月28日午前10時ごろ
「バイオフェム社」CEOジェームズ・パトリック・ライリー、出社した所を撃たれ重傷を負う。実行犯は不明。犯人の手助けをしたとして実業家ディノ・ダーチスが逮捕される。ダーチスはライリーの共同経営者であるラリー・C・フォードの友人だった。
─2000年3月2日
ラリー・C・フォード、アーバインの自宅で猟銃自殺を遂げる。
・・・事件はまだ、始まってもいない
1.アーバインで一番静かな日
2000年3月8日、カリフォルニア州アーバインのウッドブリッジ地区にある42戸の家の住民たちは、突如として現れた重装備の警官隊に促され、荷造りもそこそこに近くのホテルへと詰め込まれた。彼らが口を揃えて「良き隣人」と称えたラリー・C・フォードが、寝室で自分の頭を吹き飛ばした1週間後の出来事である。
市と警察が口を揃えて「アーバイン史上最も複雑な作戦」であったと語るこの一斉捜査には丸々4日が費やされた。5つの行政機関が駆り出され、人の消えた道路に張られた仮設テントを拠点にして、防護服に身を包んだ300人の捜査員達がある一軒の家とその周辺で調査を開始した。彼らは人の消えた家々をひっくり返し、周辺を掘り返し、庭でも同じ事をした。捜査の終わった物件には赤い×印が引かれ、そして数限りない×印の果てに、捜査員たちは幾つかのドラム缶とタッパー、そして大量の小瓶を押収していった。
・・・
一斉捜査から1週間前の2月28日、アーバインに居を構えるバイオテクノロジー企業「バイオフェム」CEOの銃撃事件から捜査は始まっていた。
その日の朝10時、アーバインの「パームコート・カフェ」に1人の来客があった。従業員のマルティナ・シュルテスは語る。
その客の頬には大穴が開き、滴る血が向こうの銀行からここまで点々と続いていた。顔からなにから鮮血に塗れたこの男は、現場近くで医薬品などを開発していたバイテク企業「バイオフェム」社のCEOで、名をジェームズ・パトリック・ライリーという中年のビジネスマンだった。カフェのすぐ前にあるバンク・オブ・アメリカのアーバイン支店に車で乗りつけ、入店しようとした所を襲われたのである。
黒い服に青いマスクで顔を隠した性別不明の犯人は、入口でライリーに声をかけ、彼が振り向くやその横顔にセミオートマチックをぶっ放した。弾丸はライリーの頬骨をへし折りながら斜めに突き抜け、上唇をぶち破って飛び出し銀行の外壁にめり込んで止まった。犯人は目的を達成したと見るや一目散に銀行裏手へと走り、停まっていたバンに乗り込むと運転手に指示を出して何処かに消えた。スレンダーな身体つきにマスクの下から覗いていた金髪が唯一の手がかりだった。ライリーは車も荷物もそのままに、やっとの事でパームコート・カフェの扉をくぐったのであった。
概要だけみると、それは単にせっかちなホールド・アップ強盗の、引き金にかけた震える指が決め台詞もそこそこに暴発を招いた、そんなありふれた事件のように見える。お粗末なことに犯人はバンのナンバーを消し忘れていて、それは銀行の支店長にはっきりと覚えられていた。2WR--552。12時間後、そのバンはロサンゼルスの自動車修理工場で塗装を塗り替えられる途中の所を発見され、警察は車の所有者ディノ・ダーチスを容疑者として連行した。
このドライバー、ディノ・ダーチスはロサンゼルスの実業家である。一見被害者となんの接点もないように見える彼の自宅からはしかし、サイレンサー付拳銃のマニュアルやライリーの駐車スペースに白くバッテンの引かれた駐車場の写真が発見され、計画的な犯行を裏付けた。彼自身は無罪を主張したが、ダーチスの経歴を洗っていた警察は、ライリーとダーチスを結ぶ一つの点を発見して小躍りした。バイオフェムのもう1人の経営者でダーチスの友人、婦人科医のラリー・フォードが捜査線上に浮上した瞬間だった。
ライリーが撃たれた直後、真っ先に電話をかけた相手がこのフォードである。彼は会社を飛び出し、ライリーの頬から噴き出す血にハンカチを当てて、救急車が来るまで付き添い続けた。2人はここ10年来のビジネス・パートナーだったから、フォードは少しの間だけ、黒幕候補の外にいた。しかし逮捕されたダーチスが彼の友人で、更に税理士として彼のために働いていたことが分かるや一転、警察内での彼の呼び名は「容疑者」に変わった。
早速フォードの家に捜査の手が伸びたが、見つかったのは仕事の書類だけだった。彼を知る者は誰もが、彼が殺し屋を雇ったという検察の主張を信じなかった。撃たれたライリーですら、自分を殺す事がフォードにどんな利をさすのか考えあぐねていた。もちろんフォードは容疑を否定し、入院中のライリーに自分の関係を否定する電話をかけた。検察は事件の前にフォードがダーチスと連絡を取り合っていた証拠を突き付けたが、彼は電話の中で、ダーチスには内服薬の説明をしていたのだと弁明した。
だが疑いは晴れなかった。警察側も一応、疑うだけの証拠を持ってはいた。ライリーがバイオフェムの経営権を握り、フォードが外部と有利な取引を結ぼうとするのを阻もうとしていた事が判ると、これが動機だとしてフォードへの嫌疑はますます深まった。ただ、ダーチスは相変わらず無罪を主張し続けており、碌な証言が期待できない以上、疑わしきは罰せずの原則に阻まれて、警察は後一歩のところで地団駄を踏む他ない。
捜査陣は膠着状態を覚悟していたに違いない。成り行き的に、フォードが取るべき道はそれしかなかった筈だ。しかし彼には、これからの長い戦いを乗り越える気力は既になかった。というより、これ以上現世を生きる気力すら、彼の体にはこれっぽっちも残っていなかったと見える。事件発生からここまで、まだ1週間と経ってはいないのだが、怒涛の展開と警察の圧力に、フォードは身も心も確実に疲れ果てていた。
3月2日、弁護士を呼び5時間の話し合いを終えたフォードはアーバイン州ウッドブリッジの自宅に帰ると寝室に向かった。ドアを閉め、5つの銃を床に置く。少しの思案の後、彼はダブルバレルのショットガンを選んだ。
その時、階下にいたフォードの妻・ダイアンは、火薬の弾ける音と何かが床に倒れた音を聞いた。直ぐに何が起きたのかを悟った彼女は2階には上がらず、警察に通報した。
本来ならば、事件はここで終わるはずだった。フォードの自殺から時を待たずして、警察はダーチス以外の共犯者の追及を取り止めた。捜査官は因果関係について口を閉ざしたが、その背景には遺されたフォードの家族の事があったのだろう。
息子のジュニアが語った言葉が、遺された妻1人子3人の総意であった。この良識ある父親は一家の手によって故郷ユタ州プロボの墓地に埋葬され、ようやく安息の日々を手に入れたように思えた。
しかしその時まさにアーバインの一家の庭からは、彼の秘められた過去が長い睡りから蘇ろうとしていたのである...。
2.良夫賢父と機関銃
凛と鎌首をもたげ銃口を空に向けた二脚付き「FNハースタル」スナイパーライフル、金色の胴をカリフォルニアの太陽に煌めかせる「TEC9」セミオートマチック・ピストル、ドラムマガジンが太々しい1928年製トンプソン・サブマシンガン、50個の焼夷弾、箱に分けて詰められたC-4プラスチック爆弾、その他様々な国の様々な銃と弾薬類...
すべて、アーバインの警察署で行われた記者会見に詰めかけた報道陣が見た内容である。3月8日、フォード宅へ立ち入った捜査官らの運び出したドラム缶とタッパーの中身であった。
それは1通の密告電話から始まった。おそらくはかつてのフォードの同僚と思われるその匿名の人物は、電話口でフォード宅に隠された恐怖の遺産について語った。エイズ病原菌に関連する危険な物品が、かの家の庭の地面奥深くに埋もれている筈だと言う、普段なら議論の俎上にもならないであろうとんでもない話だった。
しかし、アーバイン警察の刑事ヴィクター・レイの長年の勘は、この話に真実の匂いを嗅ぎつける。潜水艦の元ソナーテクニシャンであり、「サイレント・シスターズ」ジューン&ジェニファー・ギボンズの起こした奇妙な一連の放火や窃盗事件の捜査に携わった経歴も持つ彼の目に、そのタレコミは捜査の価値あるものと写ったのである。そして2000年3月8日、作戦は決行に移された。その成果は既に上で書いた通りである。捜査隊はエイズなんかよりよっぽど恐ろしい物品の数々を庭の土中深くから掘り出したのだった。
フォード宅の庭の土の下、2m四方にわたってコンクリートで塗り固められた穴にそれは眠っていた。アーバイン警察のサム・アレバト警部補曰く、彼の持っていたようなプラスチック爆薬を入手するためには、軍用施設から盗み出すか闇の故買屋にかけ合う他ないと言う。
突如剥がれた仮面。ホテル待機から戻った住人たちは驚きを隠せなかった。彼の近所に住んでいた日本人・清水弥助という人物が「Los Angels Times」紙の取材に答えている。
隣人のブルース・ハグランドはフォードを「変人」と称しながらも、「何があったかは知らないが、私の敬意は変わらない」と語った。
果たして、フォード宅から発見されたもう一つの物品を見ても、彼は変わらずその敬意を抱き続けられただろうか。
あのドラム缶は、その後カリフォルニア州ロスアラミトスの合同訓練基地にて開封され、上記の如く異様なあれやこれを吐き出したのであるが、同じ頃、バージニア州のFBI犯罪科学研究所では、職員たちがフォード宅冷蔵庫の中から押収した大量の小瓶の鑑定に勤しんでいた。あるニュースサイトの記述を信じるなら、「一家の夕食のビフテキ」の下で文字通り静かに"眠りについていた"というその中身は、アーバイン全域の住民全員に死と恒久的な障害とを齎してなお余りあるであろう量の、コレラとサルモネラを含む有害細菌類だった。
─銃のみならずバイオハザードを起こしうる物品を、何故またバイテク企業の社長が?─
同じような瓶はバイオフェム社の冷蔵庫からも見つかり、中からは破傷風の原因菌であるクロストリジウムが見つかった。両方を併せて266本にものぼった瓶はみな一様に危険な細菌を含んだ培養液で満たされていた。稀に見る異常な鑑定結果に喫驚しながらも、捜査員のうちの何人かは、少し前、一斉捜査の真っ最中にかかってきた電話とその内容を思い出した筈である。そして、正にそれこそがこの奇妙な出来事の説明をしうる唯一の手がかりだった。捜査員達はさぞ後悔した事だろう。電話口で男の語った驚くべき体験は、最初全く相手にされなかったのだ。
・・・
遡る事15年前、その男ピーター・フィッツパトリックは、暖炉に赤々と火の灯る部屋でパーティの参加者が黒革の鞄を手渡すのを、息を殺して見つめていた。
ここはビバリーヒルズの大豪邸、鞄を手渡す参加者とはラリー・フォードの事である。当時フィッツパトリックは俳優の卵で、南アフリカと貿易をやっていたギデオン・ブーワーという男と連んでいた為に、自宅で度々開かれるパーティーにはその筋の人間が多く参加してコネ作りに勤しんでいた。だからその時差し出された鞄を受け取ったのが、南アフリカ軍の軍医ニール・ノーベルだったのも、別に珍しい事ではなかった。だが双方を良く知るピーターには、幸いにも眼前に繰り広げられる光景が何を意味するのか理解出来た。
実は、このニール・ノーベルはただの医者ではなかった。1988年、南アフリカ防衛軍(SADF)傘下の南アフリカ医療サービス(SAMS)の総指揮を前任のニコラス・ニューウォウトから引き継いだノーベルは、同時にSAMSが陣頭に立ち実行した悪夢の「プロジェクト・コースト」を継承し、継続させようと試みていた。ありとあらゆる非人道的な実験を含む、極秘の生物兵器開発計画だ。
「''カフェー''殺しの細菌」
フィッツパトリックはその鞄の中身をこう表現した。カフェー、それはアフリカーンス語(アフリカの旧植民地で広まったオランダ語と現地語の融合した言語)で黒人を指す差別語だ。「プロジェクト・コースト」の手助けとなる「黒人殺しの細菌」、つまり有色人種を選択的に攻撃するよう変異させた有害菌類を筆頭に、コレラ、ボツリヌス菌、炭疽菌を詰めた鞄が、ノーベルに手渡されたというのである。
同じ頃、街では奇妙な噂が囁かれ始める。
─フォード博士はアフリカで致死性の細菌を取り扱う極秘の政府実験に参加していた
そして、アメリカでその続きをやろうとしていたのだ─
捜査員たちは、これを単なる噂として片付けることが出来なかった。その内容を裏付けるような、ある奇妙な発見をしていたのである。
・・・
それはフォード宅の床下から見つかった。83人の女性にまつわるカルテ、写真、所持品の一部など、婦人科医でもあったフォードの素性を考えると、一見それが床下にあったという事以外、何ら奇妙な点など無いように見えるいくつかの物品だった。だが、やがて捜査員はこの患者たちの間に奇妙な共通点を見出す。彼女たち全員がフォードの診療を受け、うちの何人かは、治療ののち似たような原因不明の疾患に身を蝕まれていたのだ。
神経症状から感染症、癌に至るまでその症例は多岐に渡った。ある女性患者はフォードと特別な関係を結んでいた事が分かった。尤も最終的には彼女から見切りをつけ、フォードがそれまで支払っていた女性のアパートの家賃を払わなくなってそれきりとなっていたのだが、いざ別れを切り出すと、フォードは「そんな事をするととんでもない目に遭うぞ」と脅したという。そしてそれを裏付けるように、彼女は14年間にわたり謎の眩暈に悩まされ、2度の開頭手術まで受けていたのである。
フォードは当時の同僚に漏らしていた─あの女にa毒素を感染させた、と。細胞を破壊するウェルシュ菌の主要毒素で、バイオテロに用いられる危険性が示唆される危険物質だ。彼女の身体に顕れた症状はバイオフェムの広告モデルとして起用されたタミ・ティペットの発症したそれに似ている。ティペットはフォードとの打ち合わせ中に出された飲み物を疑っていた。
フォードが彼の開発した新薬「インナー・コンフィデンス」を、誰にも知らせずに患者に投与していた事も分かった。1997年にライリーと共に、会社の新機軸のビジネスとして打ち出したこの薬は、善玉菌をカプセルに閉じ込めて投与する、フォード自身の談によればあらゆる病、エイズの治療までをも視野に入れた大発明だった。だが彼がこの希望に満ちた贈り物を授けた女性患者たちは、もれなく投与後に膣の感染症を発症していた事が分かった。
2001年にミシガン州の下院議員ステファン・P・ドレシュは、アメリカ合衆国下院外交委員会宛に出した意見書の中でXというオクラホマ出身のビジネスマンの不審な死について触れている。まったく期せずして、「ある紛争」に巻き込まれ、オクラホマからワシントンをひと繋ぎにする「公共の腐敗」に直面したという彼は、ドレシュ曰くフォードにも密接な関係があったというその腐敗を暴くべく、FBIにかけあって訴訟の準備を進めていた。しかし暴露の日を目前にした彼を、突如として「炭疽と全く矛盾しない症状」が襲った。実に奇妙な死だったにも関わらず、検視官が自然死と判断したために、捜査は行われなかったという。Xの死後、彼とオクラホマでビジネスを展開していたYという男が会社を立ち上げた。Yは先の「公共の腐敗」で槍玉に挙げられるはずだった人物の1人であり、フォードと同じ教会に通っていた。
"アーバインの良き隣人"が抱え込んで来たドス黒い過去に次々スポットライトの光が当てられ始めた。フォードが長年務めた卵巣癌研究センターを統率するUCLAの環境管理室長リック・グリーンウッドは、彼を傲慢で、自分の非を認めようとしない知ったかぶりと評価している。フォードはバイオハザードの危険性がある実験用の血液や細菌類を、あろうことか職員用のトイレで処分していた為にグリーンウッドを激怒させた。彼に「二度と戻ってくるな」と告げたグリーンウッドの読みが当たっていたか、同センターの研究員は、しばしば実験結果を捏造し、そうでなくてもあり得ないほど杜撰な手順を取るフォードにほとほと愛想を尽かしていた。
この頃、警察はロサンゼルスのシャンタル製薬から恐ろしい話を入手している。自分と諍いを起こしていた知り合いが勤務するこのオフィスに、ある日フォードが段ボール箱を抱えてやってきた。彼が開けた箱の中にはウサギが一羽、フォードは何も言わずにラテックスの手袋をつけ、おもむろに取り出した注射器で、琥珀色のとろりとした液体を注射した。ウサギはたちまち痙攣を起こし、耳や鼻から血を吹いて悶死したという。眼前で繰り広げられたあまりに残酷なショーに声もないオフィスマンたちをよそに、満足したのかフォードは去り、あとには血まみれのウサギの死骸と、青くなったオフィスマンたちだけが残った。
一連の事件はみな噂で流れた「実験」の結果だったのであろうか?。断ずるに足る証拠は皆無に等しい。すべてはメディアのこじつけと片付ける事もできる。少なくとも警察の突き止めた事例の一つ、フォードの行きつけの銃器店を経営するオーナーがサルコイドーシスなる奇病に罹った事が本件と直接的な関係があるかは微妙だし、膣の感染症に関しても「インナー・コンフィデンス」のカプセル部が汚染されていた可能性があるだろう。
だが、もし万事がそんな偶然の積み重ねだったとすると、バイオフェム社員ヴァレリー・ケスラーの背筋の寒くなるような証言に付き纏うリアルさは何なのだろう。フォードの愛人と噂された女性研究員だ。この時点で既に良夫の顔は何処へやらだが、手の速い2人は互いに夜毎、「白いチンパンジー」を漁る事しばしであったという。それは2人の間でのみ通じる秘密の言葉だった。夜を共にした男女を彼らはそう呼び、ケスラーの語るところによれば、恐ろしいことに2人はこの''実験動物''に度々''薬''を盛っていたというのだ。
調査は公衆衛生に影響を及ぼす伝染病に対象を絞って行われたために規模は小さく、当局はフォードの行っていたという「実験」について立証も反証も出来なかった。
2001年6月30日、オレンジ郡高等裁判所はダーチスに殺人の共謀と計画的殺人未遂の罪で無期懲役の判決を下す。警察は彼を、殺人を補助したドライバーにすぎないと判断した。実行犯たる金髪の殺し屋は、今もまだ捕まっていない。
・・・
何が嘘で、真実なのだろうか。少なくとも事件のだいぶ前に、フォードがアフリカに出入りを繰り返していたのは事実だ。「プロジェクト・コースト」への参加も裏付けは取れている。だがそれに関連したケスラーのもう一つの証言が事実だったのかはわからない。フォードが致死性の細菌を小瓶に詰めて空輸したという物だ。彼が南アフリカのある医師に協力し、菌類のサンプルを提供していた事だけは確かな事らしい。これはその医師も認めている事だが、彼の唯一否定した事には、それは全く無害のものだったという。
医師の名はウォーター・バソン。ジャーナリストのマレーネ・バーガーによれば、この男も実にキナくさい人物であった。
マレーネの取材時からこの本が刊行されるまで、そしてその後も、バソンは被告人として裁判法廷に立ち続けていた。罪状はのべ67件にも及ぶ。そしてそれは結果的に南アフリカという肥え太った怪物の腐った臓腑、「プロジェクト・コースト」を引き摺り出すための法廷ともなったのである。ありとあらゆる山師が白日の下に晒されて、薄汚い行状の全てを晒さなければならなかった。
バソンとフォードとニール・ノーベル、彼らを一つの線で結んだ「プロジェクト・コースト」。次章からは男たちを魅了したその悍ましい内幕を、残された資料をもとに探ってみることとしよう。
3.暗黒大陸のリップ・ヴァン・ウィンクル
1980年代のこと、南アフリカ・ヨハネスブルクのRRL社では、1ヶ月に渡り続けられていたある実験の結果報告がなされようとしていた。「ラリー・プロジェクト」と呼ばれたその実験計画は、自国でバイテク企業を経営する1人のアメリカ人によって実施されたものだった。RRL社社員のインメルマンは、彼から受け取った実験のサンプルを解析して憂鬱な気分になった。サンプルは社の期待を大きく下回る酷い結果しか出さなかった。雑誌や敷物類に致死量の毒物を含有させる、という計画の目標はもろくも崩れ去った。先のアメリカ人に、インメルマンらが下した評価は、この男が以前勤務していた卵巣癌研究センターの関係者とほとんど同じような物だった。
「アメリカから来た山師」ラリー・フォードが、南アフリカにおける生物化学兵器開発計画に残した足跡の一つである。彼はこの計画に参加した多数の外国人研究員の1人だった。先に紹介したビジネスマンXの告発に登場するYは、フォードと共にアフリカ大陸を旅行した経験を持つ。フォードの所有する細菌のサンプル隠匿に協力したとされるこのYの旅の隠された部分は、生前にフォードの口から語られていた。
彼の同僚は、フォードがアフリカの紛争地でソ連の使用した細菌兵器を解析するために、パラシュートで敵地に降り立ち敵兵の死体から血を抜いたと放言していた事を覚えていた。この話もまた虚栄心から来た出鱈目である可能性を拭いきれないが、しかし少なくとも南アフリカにおける秘密の計画に、彼が冒頭のような形で関与していた事だけは事実だ。プロジェクト・コースト、彼はその計画に集った有象無象の中の1人に過ぎなかった。彼の友人、軍医中将ウォーター・バソンによって率いられたこの計画は、元を辿れば10数年以上前の、南アフリカが白人国家としての道を決したその時から、綿々と受け継がれてきたパラノイア的な愛国心の成れの果てであった。
1961年、戦乱の暗黒大陸を生き抜こうとした白人至上主義者たちは、やがて人を人とも思わぬ血に塗れた暴虐と陰謀の道を選んだのである。さて、行手に待つは破滅か栄光か...。
・・・
1960年代、アフリカ大陸。南アフリカ共和国は異色の存在であった。大陸最南部に陣取るこの白人国家は、イギリス連邦下にあった1948年に黒人から参政権、教育、土地まで凡ゆる権利を取り上げるアパルトヘイト法を制定して以来、一貫した人種差別政策の道を突き進み国際世論を憤慨させてきていた。実質的な主人たるイギリスまでが批判側に与するに至ると、’61年には連邦を脱して独立。南アフリカ共和国として新しい道を歩み始める。それは四面楚歌のこの国にとって、険しく遠い荊の道だった。
1880年のベルリンにおいて定められた西洋諸国による分割統治は今や形骸化し、アフリカのあちこちで独立の旗が翻ろうとしていた。後にアフリカの年として綴られる事となるこの一大イベントは、結果的に17カ国もの国々を見えない鎖から解き放つのであるが、しかし王座にしがみつこうと足掻く旧支配国、ドサクサに紛れて土地を切り取ろうと虎視眈々の新興国、クーデターを企む将校グループ、更には西側の放つ死臭を嗅ぎつけ馳せ参じた共産主義者たちをも巻き込んで、血みどろの内戦のきっかけともなったのである。
新生南アフリカの1番の心配事は、北のコンゴで目下継続中の紛争だった。1960年6月30日、ベルギーから独立を果たしたパトリス・ルムンバ首相率いるコンゴ新政府は、未だ玉座にしがみつこうとするベルギー軍と、彼らを味方に南部のカタンガ州を独立させようとする分離主義者モイーズ・チョンベの対応に困り、遂に国連に縋り付いた。治安維持と事態の解決の為に派遣された国連軍はしかしチョンベが金にものを言わせて雇い入れた白人の傭兵部隊の抵抗にあい、両者はやがて一年近く続く凄惨な軍事衝突へとなだれ込んで行く。
紛争は1960年9月、ルムンバが軍事クーデターに倒れ、国連軍の威圧に負けたカタンガが解体するまで続いたが、その悲劇的な死の前、国連に愛想を尽かしていたルムンバはカナダのオタワで駐ソ大使に物資援助の約束を取り付けており、これはコンゴの動乱が暗に冷戦の代理戦争へと変化する事を示唆していたために西洋諸国を動揺させた。
この時期、なんとか援助を取り付けるため東奔西走していたチョンベと南アフリカの間のやりとり、そして南アフリカのコンゴに対する反応は、後にこの国をプロジェクト・コースト実行へと突き動かしたものの一端を垣間見せてくれる。それは係争地に禿鷹のように現れ虎視眈々と革命の機会を窺う共産主義者たちへの底知れぬ不安であった。早くからこれを見抜いていたチョンベはここぞとばかりに共産化の恐怖を煽り立て、例えばまんまと乗せられた高等弁務官ハロルド・タスウェルなどはチョンベとの関係がこれ以降の周辺国家との関係に影響すると考えて盛んにこの地方への援助を国に促している。彼はコンゴにおける反欧米の動きと南アフリカ沖に度々目撃されていたソ連船舶とを結び付けて、海岸からの工作員上陸を危惧していた。カタンガ保健相ジャン・ムウェワは南アフリカに緩衝国としてカタンガを売り込み、援助は有益な事であると述べた。チョンベ自身イギリスの通商担当委員相手に、今のままでは西側諸国はカタンガが「フライパンの上から火の中に落ちる」ことを助ける事になる、と焦燥感を煽るような発言をしている。
のちにアメリカ空軍によってまとめられたレポート「The Rollback of South Africa’s Chemical and Biological Warfare Program」は、一連の精神的な変化を''circle the wagon''症候群と呼んだ。がっちりと守りを固める''、あるいは''互いに互いを守りあう''を意味する言葉を冠したこの症候群は、この後も長きに渡って南アフリカに取り憑き続けるのである。
アフリカにおける生物化学兵器の使用は、プロジェクト・コースト実行から数年前の、ローデシア(現ジンバブエ)に始まったと言う。これは白人支配に抵抗した黒人ゲリラに対して行われたものであった。2002年に「Third World Quarterly」誌に掲載された論文の中で、著者のイアン・マルティネスはローデシア政府の計画に南アフリカが関与していた事を認めた上で、次のように書いている。
計画の総指揮を取ったのはローデシア中央情報局だった。彼らはローデシア大学の解剖学教授ロバート・シミントンに教えを請うた。いくつかの資料を読み解くと、この作戦が南アフリカにとって良い手本となったであろう事は想像に難くない。シミントンは1970年代の終わり頃、この国で相次いで起きたコレラや炭疽菌の大量感染の容疑者である。彼の協力のもとローデシア軍の特殊部隊「セルース・スカウト」が同軍の心理作戦部隊と共に5年以上に亘って実行した、コレラ菌で井戸や水源を汚染し有機リン酸塩の付いた衣服や食料を白人支配に抵抗するゲリラに流通させる作戦は、数百人以上の死に関係しているとされる。’79年から’80年にかけて、この国では1万378件のコレラ感染の報告がなされた。前年までの総数が334件だったのにも関わらず、である。この作戦はあまりにも残虐だったために、何人かの不幸な関係者は告発を恐れた軍部によって闇に葬られなければならなかった。
彼らはまた反政府組織の根城となっていた隣国モザンビークへ至る河川にコレラ菌を投棄しもした。その実行期間はモザンビークで起きたコレラの集団感染と時期を重ねている。セルース・スカウトはモザンビーク国内でも暗躍し、コチェマネという町の水源を汚染し200人を殺した。暗殺用の毒薬に関する研究も盛んで、研究者たちはマショナランドのダーウィンズ・マウンテンという田舎町に秘密の捕虜収容所を持っていて、適宜そこから送られる捕虜をリシンやタリウムなどの毒薬の実験台にする事ができたという
南アフリカがこの計画に参加していた事は、1977年のローデシア中央情報局の内部文書からも明らかだ。文書の中で作戦の担当者は、汚染された物資による犠牲者の数が79人に昇ったと報告し、続けて作戦の進行が滞っている原因として、南アフリカより到着する手筈の「必要物資」が不足している旨を告げた。同じ年、ビンドゥラの作戦担当者はせっせと25ガロンのドラム缶に入った、悪臭を放つ物体を加工する作業に従事している。彼らは10数回に渡って届けられたそれを全て金属板に開けて乾燥させた後、粉になるまですりこぎですり潰す作業を繰り返さなければならなかった。或いは、「必要物資」とはこの液体の事を意味していたのかもしれない。出来上がった粉末は食料に注入され、衣服に塗られてばら撒かれたのである。
マルティネスは先の論文で、中央情報局の元職員の発言を引用している。
「ロサンゼルス・マガジン」によると、この時ローデシア軍の特殊部隊にはアメリカから渡ってきた白人の医師がついていたという。それがラリー・フォードだった。同誌によると、彼はここで白人至上主義にどっぷり染まり、その後南アフリカの生物化学兵器開発計画に関与したとされている。
ローデシアで非人道的な化学戦が行われているのとほぼ同じ頃、南アフリカの上層部は己が国のもう一つの問題に直面した。獅子身中の虫、差別制度に雁字搦めで不満の溜まった黒人層だ。アパルトヘイトは彼等を亡き者同然に扱ったが、同時に彼らなしには成し遂げられなかった制度でもあった。ありあらゆる権利を剥奪された黒人を雇用した白人たちは、ジャーナリストのロバート・ゲストの言うには「庭の芝刈りに大工仕事、ブドウの収穫から家の掃除や子守りに至るまで」あらゆる仕事をやらせていた。彼らは自分達の望む土地にも住めず、望む職にも就けず、そもそもそれらの権利を主張できる程度の教育を受ける事すらままならなかった。
1976年にヨハネスブルグで起きた教育制度への反発に端を発する暴動は、鎮圧までに176人の死者を出すのだが、当時の国防省トップは、まちがいなくこの経験がプロジェクト実行にハッパをかけたと語っている。軍は実弾を用いずに群衆を統制する催涙ガスや薬物の必要性を痛感したのである。
"問題児''の交流記録に必ず登場するラングレーの紳士、CIAも計画に乗り気だった。ケネディ政権の時代から、南アフリカ国内でアパルトヘイトに反対し過激に先鋭化するアフリカ民族会議(ANC)との戦いにおいてこの国の情報部と共闘してきたCIAは、'62年にこの組織の伝説的指導者ネルソン・マンデラを逮捕する作戦で多大な貢献をして以来、関係を深めていた。
ジャーナリストのウィリアム・ブルムは、アメリカが1963年制定の南アフリカに対する武器禁輸措置を破り、’77年〜’78年にわたって秘密裏に武器類を密輸していた事を書いている。また’81年にはCIAの提供したリストに基づき、モザンビークに潜伏するANC党員を暗殺する秘密部隊を送り込んでいたともいう。逆にCIAもコンゴ経由で紛争地アンゴラへ援助を届ける際に、南アフリカの協力で海上輸送を実現させていた。ウォーター・バソン博士は米軍のウィリアム・アーガソン少将なる人物について、こんな証言を残している。
ラリー・フォードはかつて、自分がCIAで働いていると吹聴していた事があった。彼はワイマン将軍と彼の呼んでいた政府関係者とともに、何らかの計画の一環となる動物実験を担当していた。彼はいわゆる神童だった。60以上の論文を発表し、10代の時に放射線被曝の研究で国際学生科学技術フェアの大賞を受賞した。CIAが’50年代から繰り返していた生物化学兵器の実験を彼に手伝わせていたとしても何ら不思議はない。
一つの皮肉な事実として、CIAに化学戦の知恵を授けられたエジプトは、ANCにそれをそのまま伝授して南アフリカを怯えさせていた。赤十字の調査で明るみに出た、150人の人々を残酷に殺した1967年のイエメンにおけるエジプト軍の毒ガス爆撃は、CIAのノウハウを応用した物だった。そして、おそらくこの攻撃も含めた化学戦の成果は、陰からANCに流れていたのである。
・・・
こうして様々な地下活動と違法行為を経て、南アフリカは生物化学兵器開発へ着実に歩を進めていったのだった。
4.試シテハイケナイ理科ノ教科書
1979年、バルタザール・フォルスター大統領の下、数々の紛争から得た教訓を生かす為に進められた国防省の改革が、ついに南アフリカ医療サービス(SAMS)の設立に結実した。同年、後述するアンゴラの戦場で浮き彫りになった後方支援の欠陥、特に負傷兵を治療する軍医の不足を補うために設立されたこの機関を軸に、プロジェクト・コーストの企画が持ち上がる。その正確なスタートがいつ切られたのか、未だはっきりした事は分かっていない。ただ、少なくとも’79年には彼らによる非人道的な人体実験と、研究機関の組織が始まっていた。
もと国防相で現首相、’84年に大統領に就任する事となるピーター・ウィレム・ボータは、’60年代にこの国の軍需産業を発展させた功績を残しているが、このときに生まれた軍需企業Armscor社に化学兵器研究の部門が創設されたのが'79年の事である。同じ年、かつての盟友であり実験の対象でもあったローデシアの白人支配が崩壊する。EMLCと名付けられたこの化学兵器研究部門は、国を逃げ出そうとするローデシア中央情報局の関係者を続々と登用し、彼らがかつて自国で行っていた毒物研究を南アフリカ国内で続けさせた。'80年、「オペレーション・ウィンター」と題された大々的な空輸作戦によって、崩壊したローデシアから多くの情報局職員、特殊部隊セラス・スカウトの隊員たちが南アフリカへ飛び、プロジェクト・コーストの実行役に組み込まれているが、後述するいくつかの計画では、かつてローデシア紛争で見られたような衣服に毒を塗りつける方法や食物に毒を混入させる方法が取られている。
首相はまた、新しい国家安全保障の導入を目指し、軍や治安部隊に紛争に対するより効果的な対処法を模索するよう命じた。国防相のマグナス・マランの庇護の下で、’80年代に入ると、SADFをバックに持つ国営企業が乱立し始め、そのうちのいくつかはプロジェクト・コーストの折、生物化学兵器を開発する研究室の役割を担うようになった。デルタG、インフラデル、プロテクニーク、RRL...すべて背景にはSADFおよびSAMSが居た。これら企業については後でさらに詳しく書こう。
これらの企業はその設立時からある男の管理下に置かれていた。その男はある日の軍高官の会議でプロジェクト・コーストの発足をしきりに促し実行へ王手を打った功労者であり、のちに死神の代弁者となる男であった。
SADFの司令官、参謀情報部長、特殊部隊のリーダーという錚々たるメンバーを前に彼は’60年代からこれまでの化学戦の変遷を語り、これからの戦場を勝ち抜くには、致死性の化学兵器、防護服が必要不可欠であると説いた。上層部はこれにいたく心を動かされ、1981年4月、計画は本格的な実行へと移されたのである。
男の名はウォーター・バソン。後に67件の犯罪で裁かれる事となる心臓外科医だ。
・・・
─ カウンターから身を乗り出す白衣の男。頭を丸め顎髭を蓄え、顔には悪意のこもった笑みを浮かべる。3人の白人の客を前に、片手に掲げたドライバーの説明をしている。
「・・・そしてコノ子!一刺しするだけで数分後には呼吸が止まっちまう!」
店の名は「Dr.ウォーター・バソンのトキシック(毒)・トイザらス」。ショーウィンドウには普通の品物に見せかけた、暗殺用の秘密兵器が並んでいる...。
1950年、ラグビー選手の父親とオペラ歌手の母親の元に生まれ、プレトリアの大学で医学を修めたこの男が、軍高官に国際法を侵害する事の意義をとうとうと説き、20年足らずで皮肉たっぷりの風刺画の主人公になる未来を、当時は誰も予想だにしなかっただろう。だが彼が1980年代に、政府公認の非人道的な実験を指導し、公金を着服し、麻薬産業にまで手を伸ばしていた事は隠しようもない真実なのである。
’70年代の終わり頃、当時では珍しくない徴兵を終えたバソンに声がかかった。彼の経歴に注目し、SADFの主導する生物化学兵器開発プロジェクトへの参加を促したSAMSの2代目総監ニコラス・ニューウットは、彼をSADFの訓練コースに放り込んで鍛え、卒業と同時に海外で科学者同士のコネ作りと情報収集にあたらせた。そして前述のプレゼンを経て、彼は正式にプロジェクト・コーストの責任者に迎えられたのである。
’SADFは既に’73年から、中央集権的な指導構造へと大きくその内部構造を変化させ始めていた。第二次世界大戦に従軍した当時の指導層が軒並み退役を始め、更にゲリラからの国境防衛という新しい課題により、彼ら旧指導層の行動規範が意味をなさなくなると、謂わゆる「伝統なき伝統」を作り上げた新世代による新生SADFは、総司令官コンスタント・ビルジョーン、陸軍長官でのちの国防相マグナス・マラン、元帥ジャニー・ゲルデンボイス、特殊部隊の長でのちのSADF最高司令官A・J・リーベンバーグによって、超個人的なつながりに重きを置いた中央集権的な組織構造へと変貌していった。
結果的にプロジェクト・コーストの実現を可能にする事となる彼ら軍上層部は、特にマランを中心として当時国防相だったボータと繋がり、それは彼が首相、更に大統領と歩を進めた後も続いたのである。順調に出世街道を歩むバソンが、こうしたSADF指導層と繋がりを得るのに、そう時間は掛からなかった。バソンはリーベンバーグに仕えるニューウットを介して彼らと繋がった。彼はマランとボータ2人との個人的な連絡網を築き上げていた筈だと、シャンドレ・グールドとピーター・フォルブの手による論文「Project Coast: Apartheid's Chemical and Biological Warfare Programme」は書いている。
同じ論文によると、プロジェクト・コーストの初期の原則として、武器への実践化は考慮されて居なかったという。最初期の計画ではArmscor社などの軍需産業が排除されており、彼らの参入後も人体に対する使用に関しては慎重に検討すべきとのお達しが出されていた。それはあくまでも対抗手段としての化学兵器研究だった。
同時期に南アフリカ東部のクルーガー国立公園で起きたヒヒの狩猟騒ぎは、このお達しが忠実に守られていたことを伝えてくれる。国立公園の職員は、ある時期から増えた観光客による通報の対応に追われていた。研究者風の男たちが、ヒヒを捕獲して木箱に詰めたり、毒矢のようなものを撃ち込んで殺すのがあちこちで目撃されていたのである。彼らはEMLCの研究者による実験動物の採取を目撃していたのだった。
だが、''circle the wagon''の病気の虫は収まる気配を見せなかった。ローデシアにおける"実験"に飽き足らず、南アフリカは未だ共産主義の魔手にパラノイアックな不安を持ち続けていた。国境を接するアンゴラで激化する内戦がこれを後押しした。長年ポルトガルに支配されていたこの国も’60年代から始まった独立運動が実り、解放戦争を経て’75年に独立を果たしていていたのだが、今度は激化する解放軍同士の権力闘争が、血みどろの内戦の予感を高め始めていた。
冷戦期における米ソ代理戦争の代名詞として良く持ち出されるこの戦争は、政府側とゲリラ側のどちらもが生物化学兵器を保有しているという稀な状況下で行われた。まず独立前の解放闘争の時代にポルトガルが解放軍の陣地に枯葉剤をばら撒き、捕らえた捕虜に薬物を投与してヘリコプターから突き落とすといった非人道的な作戦において初めて化学兵器を使用し、独立ののち野心に燃える3つの主要な武装組織がそれぞれの大国の代理として銃を取るようになると、共産主義陣営も懇意の組織へ化学兵器を提供し始めたのである。
1980年代、西洋諸国に支持されたアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)のメンバーは、身体に浴びると失明し、ひどい時には死亡する黒い粉や、毒を持った黄色や緑の蒸気が空から降り注ぐのを見た。ソ連やキューバなどの共産主義者のバックアップを受けたアンゴラ解放人民運動(MPLA)の散布する有害な毒霧だった。’81年にはアフガンのゲリラたちも同じようなガスがソ連の軍用ヘリから吹き付けられるのを目撃している。彼らのある者はガスを浴びて引き金に手をかけたまま息絶えた仲間の死体を、またある者は死体が急速に腐敗し、紅潮した皮膚がガスで膨れ上がるのを見たと、口々に語った。
アンゴラに噴霧されたものがソ連とキューバどちらの開発だったかはわからない。しかしやがてUNITAに派遣されていた南アフリカ軍がガスマスクや解毒剤などの化学戦用の装備を拿捕すると、"circle the wagon"の不安は白人政権の要人の中で鎌首をもたげて、この分野における自国の装備があまりにも貧弱な事をなじり始めた。’78年にSADFがアンゴラ・カシンガでの戦闘において麻痺作用のあるガスを使用した形跡こそあれ、この国の戦闘面での化学兵器部門は共産主義陣営に圧倒的な遅れをとっていた。
’’79年、ナミビア洋上を飛ぶ航空機から、いくつかの死体袋が投げ落とされる。黒々とした表面を、一瞬アフリカの熱い太陽に煌めかせ、紺碧の海に白い波紋を残して没したその''中身''には、実はまだ息があったのであるが、そんな事は搭乗員にとってどうでも良い事であった。彼らにとって重要なのは、''中身''を死体に等しい昏睡状態にした薬物であった。SAMSのある若い研究員がその投与の結果報告を望んでいたのである。
航空機の操縦士、本名を明かさずただミスター・Kと公的な文書では呼ばれる元ローデシア軍の男は、第一次大戦後から南アフリカの統治下に置かれ、反政府運動が激化していたナミビアの南西アフリカ人民機構(SWAPO)戦闘員の捕虜を使って、「デュアル作戦」と名づけられた鎮静薬の人体実験が行われていた事を日誌に記している。それは過激な人体実験を禁じていたはずのEMLCによって提供された物であった。別の工作員ヨハン・セロンは毒物の塗られたダーツを渡された。これを刺された捕虜はたちまちのうちに昏倒し、死体袋に納められて海に投げ込まれたという。ある日の作業で、暴れ出した捕虜を取り押さえる際にミスター・Kは叫んだ。「撃つな!撃たないでくれ!」。慈悲ではない。"薬を使って殺せ''の意─SAMSにダーツの効き目を報告できなくなるからだ。指揮を取り、サポートしたのはバソンであったという。200人以上を同じ手法で殺害した後、セロンは恐ろしい事に同僚の飲食物に毒物を注射する事も命じられた。南アフリカにより実行された最も初期の人体実験がこれである。内外の問題に板挟みの白人指導者たちは、ついに跨いではならぬ線を越えた。以降、実験は対人攻撃のための、より過激なものになっていった。
’80年代に入ると、南アフリカはバソンの関与による様々な研究所の設立を見た。それは表向き化学技術を提供する企業として振る舞っていたが、トップはバソンやニューウットとの強固で超個人的な繋がりを持ち、国防相の指揮下に置かれていた。この超個人的な繋がりこそが、プロジェクト・コーストを発達させた。企業による独自の計画として化学兵器の研究を行うことで、政府との繋がりを覆い隠したのである。こうして、大統領、研究機関、SADFのごく一部の高官によって固められた鉄壁の陰で、恐るべき実験が始まった。
’’82年、国営企業デルタGサイエンティフィックが発足、翌年には同社の発明品のテストを行うこちらも国営の姉妹会社RRLが発足する。RRLの最初のオフィスはなんとデパートのビルに間借りしていた。様々な機関との連携が取られ、医療目的の生化学の研究という隠れ蓑の下、研究員は日夜、殺人に有効な毒素の研究に勤しみ、ローデシアで使われたリン酸塩をはじめ、炭疽菌やペストやコレラ、猛毒蛇ブラック・マンバの毒素まで、幅広い種類の毒素を取り扱っていた。幹部の間では使用法についても議論が進み、塗るのか、吹き付けるのか、体内に取り込ませるのか、株主総会を装った研究報告会で、恐ろしい議論はとめどなく続いた。
しかしそんな内容が一般公募の研究員に伝えられる訳もなく、彼らの中には自らの研究が何の役に立つのか全く理解していないものも居た。
研究員の中には日々の生活に垣間見える歪さを訝しむ者も出た。─何故45株もの炭疽菌を取り扱うのか?、何故同僚に仕事の愚痴をこぼす事が社内規則に違反するのか?。ある研究員は自宅に盗聴器が仕掛けられていたと頑なに信じている。自宅で妻にこぼした愚痴を、あくる日になって上司が指摘してきたのだ。こうして監視を匂わせる事により、研究員たちはコントロールされていたという。
インフラデルはプロジェクト・コーストの財務管理を行っていた国営企業である。のちにカナダに移り住んだ同社の元社員、デオンとアントワネット・エラスマスの夫妻は、1日の終わりにすべての書類を金庫にしまうよう命じられていた。しかし、彼らはその異様な厳重さに疑問を抱く事はなかった。
もう少し会社の中心にいた人物、つまり''need to know"の規則の内側にいた人物の中には、自分が何に加担させられているのかを理解し、退職する者も居た。しかし殆どはそれらを知った上で、尚会社に留まった。
RRLのインメルマンは、ボツリヌス菌入りのエアリアル・チョコレートや炭疽菌入り煙草や、バソンに提供されたエイズ患者の血液が何に使われるかを知っていたし、ジェームズ・デイビスは自分が歯科用ドリルで穴を開け、RRLお気に入りの有機リン系農薬パラキソオンを注射した缶詰が、どこにばら撒かれるかを知っていた。それでも尚、彼らはプロジェクト・コーストの発覚まで会社に留まったのである。
5.1:殺しのライセンス
ミスター・Kが「撃つな!」と怒鳴ったナミビア洋上での失敗は、バソンによって提供された薬物の効き目の薄さが原因だったと彼は思った。機内での大捕物の最中、相棒のセロンは捕虜の首に強力な結束バンドを巻き付け、力一杯に絞め殺さなければならなかった。帰還後、基地で偶然バソンと会ったKは抑えきれないいらつきを面と向かってぶつけ、太腿にダーツを刺した筈の捕虜が、無抵抗どころか死にものぐるいの抵抗を示した件について叱責した。「次は品質確認をしっかりやってくれ」。Kの言葉にバソンは「任せてくれ」の一言を残し去ったという。以降、作戦終了までこうした問題は報告されていない。
ナミビアは良い実験場だった。デュアル作戦は’79年から10年以上に渡って続けられた。捕虜収容所が空っぽになるほどの大量虐殺であった。バソン自身は関与を否定しているが、’82年に彼から直接毒物を受け取ったと言うセロンの証言、Kによるバソンとのやり取り、そして毒物の支給元がEMLCであったといういくつかの調査報告は、SAMSとバソンの明らかな関与を示唆している。'82年、バソンは手ずから2人のSWAPO戦闘員を殺害した。セロンと連れ立ってナミビアのレヴ砦に向かったバソンは、地下の尋問室で椅子に縛られた2人の男に、大量の薬物を投与して殺したという。
鎮静薬のみならず、暗殺用の毒薬とそれを気づかれずに使用する為の暗器についてもバソンは研究を怠らなかった。’83年に南アフリカのクワズールー=ナタール州で捕らえられた反政府主義者に対し用いられた''ゼリー状の軟膏"は、恐らくこの暗殺用の毒薬の1つだろう。これらは主に警察・軍機関と密接な関わりを持つ準軍事組織や右翼暗殺組織によって国内外で使用されたのである。
・・・
1980年、南アフリカのアパルトヘイト政策に反対していたアフリカ民族会議(ANC)のテロ攻撃が激化する。6月のSASOL石油タンク襲撃をきっかけに、原子力発電所、空軍指令部を爆破。製油所にロケットを撃ち込むなど、過激化の一途を辿っていたANCの軍事部門「ウムコントゥ・ウェ・シズウェ」は、バックにキューバやソ連を持つ強力な武装集団で、獄中にある旧指導者ネルソン・マンデラの意志を継いで無差別なテロ行為を繰り返していた。ゲリラは道路に地雷を仕掛け、散発的な攻撃を加え、追っ手が来ると即座に国境を越えて周辺国の基地まで引っ込むので、SADFには手出しが出来なかった。彼らは常にアドレナリンやアンフェタミンの小瓶を持ち歩き、2日間ぶっ通しで走り続ける事が出来たという。
こうしたテロ組織の精力的な活動に対抗して、「市民協力局」(CCB)や「ファルークプラス」(C10)と呼ばれる凶悪な右派の殺人集団が雨後の筍のように乱立し始めた。今となっては成立年すらはっきりしないそれらの組織は、軍警察の管理のもと反体制派のリーダーや対立国の政府要人を暗殺する冷酷な殺し屋たちの集まりであった。
1990年、アメリカの公民権団体「Lawyers' Committee for Civil Rights Under Law」により、これら暗殺団によるテロ行為の事例の大雑把なリストが作られた。その殆どは雑で、荒々しく、血に飢えた野獣のような、おおよそ文明的であるとは言えない仕事である。例えば1981年に南アフリカ警察の秘密部隊C10が実行した、人権派弁護士グリフィス・ムセンゲの事例はこうだ。
その日、ピックアップトラックを車庫入れしたムセンゲは、路肩に佇む4人の人影を見た。どうやら車の故障で往生しているようだ。親切心から近寄った彼を待ち受けていたのは残酷なランバージャック・デスマッチだった。豹変した4人の男に四方から殴られ、蹴られ、スパナで殴打された末にナイフでのめった斬りである。組織は念を入れて、4年後には彼の未亡人も殺害した。
海外に落ち延びた支援者にも魔手は及んだ。1982年にはウムコントゥ・ウェ・シズウェの指導者ジョー・スロボの妻が死んだ。彼女ルース・ファーストは、モザンビークの勤務地で国連の印のついた封筒を受け取ったところだった。暗殺団の仕掛けた爆弾が作動し、それを包んでいた封筒ごとファーストは吹き飛んだ。
アフリカ国内で血みどろの暗殺事件が相次ぐ中、'88年にはベルギーのANC事務所に爆弾が仕掛けられ、フランス、スイス、ルクセンブルク支部の統率者ダルシー・セプテンバーが家の前で撃ち殺された。同じ年モザンビークで今度は車爆弾が爆発し、ANCの弁護を行ったアルビー・サックスが巻き込まれて重傷を負った。現場に駆けつけた報道カメラマンの撮影した写真には、皮一枚で繋がった右腕をかばい、左腕で身を起こそうとするサックスの姿が映し出されている。
しかし、かようにド派手な作戦を国内外問わずやらかした刺客側もただでは済まなかった。セプテンバー暗殺の下手人はその入国からフランス当局に筒抜けだったし、いくつかの事件では犯人が逮捕され、組織との関係が暴かれる危機に陥っている。バソンらSAMSの面々はこうした失敗に対応する為に毒物と暗器の提供を開始した。国営企業はありとあらゆる殺し屋やスパイの為の宝箱となり、殺しのリストに名の載った反体制派は、それほど時を経ずして不可解な''病死''を遂げたり、突発的で奇妙な疾患に悩まされるようになっていった。
’80年代にANCの発表した60人と言う海外活動家の死が真実なのかどうか、いよいよ殺人と突発的な死の区別がつかなくなってきたこの頃、秘密文書にも記載されず、単なる心臓発作として処理された例もあるだろう。それでも残ったいくつかの記録は、EMLCやSAMSの関与を今に語ってくれる。セロンやKの同僚、つまりデュアル作戦に加わった何人かの殺人者はそのまま殺し屋として登用され、デルタGとRRLによって試験された毒物で標的の排除に勤しんでいた。
1981年、C10はロンドンに滞在中のウムコントゥ・ウエ・シズウェ指導者ジョー・スロボに身分を装って接近し、その飲食物に毒薬を混入させるという作戦を計画した。実行の有無については資料が残っていないため不明であるが、これは最も初期の秘密機関による毒殺計画の一つであると見られる。同じ年の10月、ANCの活動家シピウォ・ムティムクルが治安警察に捕縛され、拷問ののち毒物を投与された。釈放後、彼はひどい胃痙攣と歩行が困難になるほどの脚の腫れを発症し、タリウム中毒と診断されたが、おそらくは事が明るみになるのを恐れた機関の手によって再び病院から拉致され、殺された。
’80年代半ばになると、誰を暗殺するべきかを判断し、対象に関する情報を収集する為の秘密機関「反革命情報タスクフォース」(TREWITS)が新たに創設され、実行部隊を補佐した。活動停止までにこの組織は82人の殺人を指揮した事が伝えられている。その設立年は’86年とも’87年とも言われているが、設立以前の’83年ごろから既にSAMSの代表ニューウットが組織と直接情報のやり取りを行い、ターゲットに関するデータを提供していたという。
この機関はしばしば無能な身内をターゲットにする事もあった。そのせいで、元SADFの秘密機関員ダニエル・ファールは、自分の同僚を手にかけなければならなかった。その兵士ビクター・デ・フォンセカは脳腫瘍を患って床に臥せっていたのだが、何を思ったか病床から自らの従事した秘密作戦についてぽつぽつと語り始めたのだ。'86年、組織は慌ててファールに毒の粉末を与え、彼はそれをフォンセカのお茶に混ぜて飲ませたが、効き目は殆どなかった。フォンセカが回復をみせた頃、ファールは彼を免許更新の名目で連れ出し、更新センターから出てくるのを待つ間、買ってきたレモネードの1本に薬物を注射した。帰ってきたフォンセカは喜んでそれを飲み、数日後、体調を崩して死んだ。
翌年の4月、ANCはモザンビークのマプトにあるポラナホテルで幹部の会合を開く。ホテルのシェフがCCBに密告し、直ちに出席者を暗殺する計画が立てられたが、結局実行には移されなかった。しかし同じ月、CCBは(おそらくはCIAの協力を得て)調べ上げたモザンビーク国内のANC党員宅に忍び込み、毒物の混入したビールやブランデーやソフトドリンクを置き去りにした。後の報道で、この家で開かれた会合に出席した1人が死亡した事が分かった。
同じ年に行われたオランダの反アパルトヘイト活動家の暗殺未遂事件には、ローデシアに倣って毒を染み込ませた衣服が登場した。1987年9月、ザンビアの首都ルサカを訪問したコニー・ブラーム女史の部屋に暗殺者の仕掛けた毒入りビタミン剤が功を奏さなかった為、組織は数日後に彼女の滞在したハラレのホテルに別の罠を仕掛けなければならなかった。そこで秘密機関は2枚のお洒落なジャケットを用意し、予めホテルの部屋のクローゼットに''かけ忘れて"おいた。ブラームは案の定そのジャケットに目をとめ、何の気なしに羽織ってみたらしい。4時間後、彼女の体を激しい痛みが襲った。ジャケットにたっぷりと塗り込められた有機リン系農薬パラキソオンが彼女の細胞を蝕み始めたのだ。結局何とか一命は取り留めたものの、ブラームは肛門と膣の間に生じた大きな腫瘍を取り除く外科手術を受けなければならなかった。だが、彼女は同じ攻撃を仕掛けられた友人のクラース・デ・ジョンゲよりは運が良かった。同じパラキソオンを用いたと思われる攻撃によって、彼は失明してしまったのである。
それから2年後の1989年、エスワティニのANC活動家イーノック・''ノックス''・ドラミニが娘に1枚のメモを遺してこの世を去る。3日前、バーベキューに参加してビールを数杯開けたという。彼の死因は急性膵炎として記載されたが、バーベキューの前、エスワティニの南アフリカ工作員が露店で購入した5〜6本の缶ビールにタリウムとボツリヌス毒を混入し、ドラミニのパーティーに紛れ込ませた事を知る者は居なかった。ANCによるエスワティニでの南アフリカ工作員の射殺と、エージェントの根城となっていたレストランの爆破事件の敵討ちであった。
CCBのエージェント、トレバー・フロイドは、フレデリック・フォーサイスの小説からそのまま抜け出してきたような経歴を持つ、''戦場の狼''だ。ビアフラ戦争でゲリラを訓練し、SADF特殊部隊1偵察コマンドーを創設した「ダーティ・ダズン」と呼ばれる11人のうちの1人、1975年に連隊の曹長として、タンザニアでANCを海上から急襲する作戦に参加している。退役後、特殊機関に拾われた彼は、何人ものANC関係者やSWAPOメンバーの殺害に手を染めた。毒物注射が主な手口だったが、一度はパートナーのミスター・Kがヘマをした為、3人の犠牲者をハンマーで殴り殺すという気の滅入るような作業をしなければならなかった。
そんな彼がロンドンのあるアパートの門をくぐったのは1987年の事だった。ANCイギリス支部メンバー、ロニー・カスリルスとパロ・ジョーダンの暗殺に必要な、ある品物を受け取りに来たのだ。フロイドはその協力者の名前を知らなかったが、戸口に覗いた顔が事前に見せられた写真と同じだったので安堵し、シボレーに乗って2人はパブへ出掛けた後、そのまま街から少し離れたコテージに向かった。部屋の中、協力者ヤン・ローレンスは件の品物を取り出した。フロイドは、それが自分のイメージした通りの出来に仕上がっていたのをみて満足した。
それは内々でシラトランと呼ばれる、一見すると普通の傘にしか見えない代物だった。ローレンスは最後の仕上げに特殊な注射器を先端に取り付けた。標的の体に押しつけると針が飛び出し、毒液を注入する。バソン配下の闇の武器職人、あらゆる物に毒針を忍び込ませる事のできた元セラス・スカウトのフィリップ・モーガンによる、芸術的とも言える暗器であった。
・・・
ローレンスは大学で金属加工と機械工学を学んだ技術屋で、暗殺用の暗器の図面を作成する役目を担っていた。バソンの提供したダミー・カンパニーの加工所で、モーガンと共に彼が作りあげた品物は次の通り:タバコの箱に治まる大きさの毒入り折りたたみナイフ、火薬やバネじかけで毒針を撃ち出すドライバー、先端から毒を仕込んだ極小球を発射できるシラトランのプロトタイプ、爆発するブリーフケース、毒針を仕込んだ杖、毒物を内蔵できる指輪...。
トレバーがロンドンに向かったのと同じ年、モザンビークで毒入りビールを飲んで死んだANC活動家サミュエル・マクワに対して、のちにジンバブエで拘禁されたCCBの暗殺者レスリー・レシアが使おうとしていたのがこの毒入り指輪であった。秘密兵器の数々はRRLによってテストされ暗殺者に渡されたが、この指輪はその使用法についてエージェントに説明中の職員の手の中で作動し、装着者自身を中毒状態にしてしまうという笑えない悲喜劇を演じもしている。
・・・
ローレンスがうっかりして注射器から漏れた毒液と気づかず手についた水滴をなめ取ってしまった為に、一時現場はパニックに陥ったという。フロイドの勧めるまま牛乳と解毒剤を浴びるように飲んだのが良かったのか、元々飲んだのが致死量以下だったのかは分からないが、とにかく助かったローレンスに見送られ、フロイドは標的の元へ発った。
しかしカスリルスもジョーダンもとうの昔にアジトを変えてしまったようで、組織の告げた住所はいずれも喪抜けの空。拍子抜けしたフロイドはうんざりして作戦を中断し、毒の入った瓶とシラトランはテムズ川に投げ捨てられ、007の猿真似のようなこの珍妙な計画は、結局実行されずに終わったのである。
5.2:不浄なる男たち、不浄なる血
プロジェクト・コーストの実行部隊として機能していた準軍事組織であるが、彼らは単に暗殺のみを淡々とこなしていた訳ではなかった。恐ろしい事に、彼らは反政府組織の関係者のみならず、黒人そのものをアフリカ大陸から消し去ろうとしていたらしい。次にご紹介する話は2019年、フランスの映画監督マッズ・ブルッガーが別件の調査中に発見し、自身の作品内で明かした情報に基づくものである。それは1998年に発見された数枚の作戦文書を巡るドキュメンタリー映画だった。「セレステ作戦」と名付けられたその極秘軍事作戦は、1961年に起きた国連事務総長ダグ・ハマーショルドの搭乗機墜落事故が、ある準軍事組織の手により引き起こされた事を明らかにしていた。更にブルッガーによれば、今に続くアフリカの悲劇、そしてプロジェクト・コーストの発端でもあるコンゴ動乱の泥沼化を招いたこの事件の実行部隊「南アフリカ海洋研究機構」(SAIMR)は、アフリカ大陸に居住する黒人の絶滅のため、彼らに投与される予防接種のワクチンに培養されたエイズウィルスを紛れ込ませていたというのである。
・・・
悪の組織は黒づくめ、という相場に反して、その組織の構成員は全員が真っ白な制服に身を包んでいたという。SAIMR:「South African Institute for Maritime Research」の頭文字を取った略称で呼ばれるこの準軍事組織は、’98年にアパルトヘイトの実態について調査を行なっていた「南アフリカ真実和解委員会」(TRC)によってその内部文書が発見されるまで全く世に知られていなかった。
アパルトヘイト体制亡き後、出獄したネルソン・マンデラを大統領に迎えた新生南アフリカで、旧政府の統治下における人権侵害の全容解明を目指して右翼テロに関する資料収集を行ったTRCは、この年1通の文書を国連に提出している。その内容を一言で表すなら「困惑」であろう。それが現れた時、運の悪い事に真実和解委員会は解散を目前に控えていた。その真偽を判断するには、時間があまりにも足りなかった。
1961年9月18日、コンゴ動乱の最中、カタンガ州の分離独立を図るチョンベ軍と期せずして武力衝突を起こしてしまった国連軍の尻拭いをするため、ダグ・ハマーショルド国連事務総長はダグラスDC-6Bに乗り込み、チョンベとの和平交渉の為に空路カタンガを目指して出発した。そして二度と生きては戻らなかった。
粉々になったDC-6B機と、変わり果てた乗員乗客16人は、ローデシアのジャングルに四散していた。ただ1人、虫の息で病院に収容され5日間持ち堪えた国連職員ハロルド・ジュリアンは、死の前に機内で爆発があった事を証言した。ブラックボックスのない時代のこと、密室の中で本当は何が起きたのか。今でも語りうるよすがは無い。しかしジャングルに転がっていたハマーショルドの遺体には、第三者の何らかの意図を持った介入の証拠が残されていた。
血まみれのカラーに挟まった一枚のカード。それは彼が大国のポーカー・ゲームに巻き込まれて死んだ事を伝えたがった、闇に潜む何者かの手による物だったのか。
この写真を入手したブルッガー監督は調査を進め、飛行機の墜落を目撃した人々、当時の英国大使館駐在武官、イギリスの諜報機関の元職員、そしてコンゴ動乱と前後してアフリカ大陸を暴れ回った傭兵たちを取材した。セレステ文書中に書かれていたのは、ハマーショルドをDC-6Bの車輪格納庫に仕掛けた爆弾によって、ローデシア上空で木っ端微塵に葬り去るという恐るべき計画の内容であった。共謀者はアメリカのCIAとイギリスのMI6、そしてSAIMR。いずれもカタンガの鉱山利権に目の眩んだ西側の強国だ。しかしブルッガーの調査によれば、爆弾は爆発せず、代わりにカタンガを飛び立ったベルギー人傭兵の戦闘機が撃墜の任務を果たしたという。
パイロットの名はヤン・ファン・リッセゲム。第3章で述べたチョンベ配下の傭兵部隊の1人であり、仲間内でハマーショルドの殺害に加わった事を放言していた人物だ。実は墜落の日、現場から遥か離れたキプロスで、主に通信傍受の役割を担うアメリカの情報機関NSAの中佐が奇妙な無線交信を入手していた。
「低空に輸送機を視認。全ての灯が点いている。降下して接近する。やはりそうだ、トランスエアのあのDC-6だ。あの機体だ」
声の主は冷静に告げたあと、機関銃の標準を機体に合わせる。そして銃声。
「命中した。火が出ている! 墜ちていく。目標は墜落する!」
ブルッガーの取材時、リッセゲムはすでに死去しており、彼の妻も取材を頑なに断った。しかし彼の元同僚は、リッセゲムの飛行記録に捏造がある事を指摘、彼が9月18日の空欄に記録されることの無かった、秘密作戦に従事していた可能性を示唆したのである。
・・・
ここまでの全てが事実だとするなら、リッセゲムの雇い主こそ、SAIMRであると見るべきであろう。ブルッガーもチョンベの指示があったとする機密文書などに寄り道しながら、SAIMRに関してもしっかりと調査を進めていた。南アフリカの記者ポトヒーターという人物は、SAIMRについて直接その幹部に取材した貴重な資料を持っている。SAIMRの起源は184年前にイギリスで結成された、国の命令を受けて行動する水兵の秘密組織であったという。パトロンはイギリスの対外諜報機関MI6だ。
この組織は、イギリスや南アフリカの為に働くクーデター・メーカーであった。これは筆者の推測だが、おそらくハマーショルド暗殺の頃にはメンバーの殆どは水兵からヨーロッパ生まれの白人傭兵たちへと取って代わっていたのではないか。コンゴ動乱時、南アフリカは傭兵の供給源として機能した。クーデターによるパトリス・ルムンバの死、そして国連軍の協力によるカタンガ解体と共に動乱が一旦落ち着きを見せたことは第3章でも述べたが、政権奪取に成功した軍部の指導者モブツ・セセ・セコは、今度はルムンバ主義を受け継ぎゲリラ闘争を続ける武装組織の対応に追われることとなる。シンバ(獅子)と呼ばれたこの狂信的な若者たちは異常なまでに強固な結束で結ばれ、中国共産党の援助を受け、指導者の尿を浴びると無敵になるという迷信を信じ、その死をも恐れぬ突撃で’64年以降あちこちの戦闘で政府軍を打ち破っていた。
第二次コンゴ動乱と呼ばれるこの攻勢の中で困り果てたセコが頼ったのが、かつて憎み合い、国連の力を借りて一度は叩き潰した旧カタンガ国の白人傭兵たちであった。セコはまずチョンベと和解し、彼をコンゴの大統領の座に据えることでご機嫌を取ったあと、その人脈を駆使してかつてカタンガを守っていた白人傭兵たちを再びコンゴの地へと呼び戻そうとした。
ジェリー・ピュレンは不足している傭兵達をかき集めるために、南アフリカに飛んだ。1961年の動乱初期からチョンベの下で働いていた傭兵である。ピュレンの上司はアイルランド人の有名な傭兵"マッド・マイク"・ホアーで、彼はチョンベから段階的に1000人の傭兵を集めるよう指示を下されていた。またピュレンの飛んだ南アフリカ・ヨハネスブルグでは、懐かしい戦場に戻ろうとする元カタンガ傭兵らによる徴兵キャンペーンが活発化していた。のちに明かされたそうした活動のうち、政府が公式に言及した1つにイアン・ゴードンの行っていたものがある。彼は自宅をそのまま事務所として使い人を集めていた。同じような動きは南アフリカと北部で国境を接するローデシアとアンゴラでも起こった。伝説的な傭兵"ブラック・ジャック"ことジャン・シュラムはこの地で8,000人の人員を集めたという。
SADFの記録によれば、南アフリカはこの傭兵部隊がプレトリアのタバ・ツワネ軍事基地からローデシア航空サービスの便に乗ってコンゴへ飛ぶ手助けをしていた。さらに’64年8月から、援助物資の輸送も始まった。日本円にして400万円以上の食料、医療機器、無線器具、迷彩服のセットなどは、チョンベの依頼した物よりも遥かに少なかったが(彼は戦闘ヘリやナパーム弾までを要求していた)、それでも国際世論を憤慨させるには充分すぎる内容であった。
公式発表に反して、傭兵部隊にSADF(南アフリカ防衛軍)の兵士が紛れ込んでいたという陰謀論が乱れ飛んだ。ロビー・ロバートゼ隊員によるSADFの人員を中心としチョンベに仕える特殊部隊設立の提言や、国防大臣ヤコブス・フーチがSADFの指揮官にコンゴ軍への編入を告げた事に裏打ちされるこの噂話は、その決定的な証拠が確認できていないにも関わらず今日まで信じ続けられている。
あるいは、こうした傭兵らの分派として、SAIMRは第二の生を受けたのでは無いかと筆者は思うのである。それを裏付けたのが、記者ポトヒーターにSAIMRの情報を授けた幹部、「コモドール」ことキース・マクスウェルの存在だ。彼自身、元傭兵の悪辣なクーデター仕掛け人として、周辺諸国で知らぬものは居ない人物だったという。元帥(コモドール)の渾名に解るように、パーティーの席等では前時代の英軍元帥に扮して砕けた表情を見せたマクスウェルだったが、秘密機関の幹部格ともなると仕事には実に冷徹で、自らの手で処刑した裏切り者は数知れない。彼の表の顔は町医者だった。その"治療"といえば患者を巨大チューブの中に入れたりするおかしなものだったが、少なくとも人々からは尊敬されていたという。プロジェクト・コーストにSAIMRが加わった時、冷徹さと共に求められたのが、まさにこの信頼関係であった。これがなければ、次に述べる様なワクチンを使った実験はハナから芳しい結果を出せてはいなかっただろう。
ある時、ひとりの女性研究員が憤慨と共にデルタGに退職届を叩きつけた事があった。RRLの開発しようとしているアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)女性兵士用のワクチンに不妊剤が混入されている事を知ったからだったのだが、しかし不妊剤ならまだマシな方で、先にも述べたように彼らの最終目標はエイズ入りワクチンによる黒人の完全淘汰だったのだ。UNITA女性兵士へのそれは、いずれ用いられるエイズ・ワクチンの架け橋となったことであろうことは想像に難くない。
ここでアレクサンダー・ジョーンズを紹介しよう。ブルッガー監督の発掘したSAIMR関係者一覧から、監督の取材に応じた数少ない面々の1人であり、SAIMRの行ったエイズ・ワクチン計画について世界で初めて公言した人物である。
ブルッガー監督のはじめの目的はあくまでハマーショルドの死の真相に迫る事であり、エイズ云々の計画に関しての質問は勿論用意していなかったし、知りもしなかった。だが、新人研修で飛行機墜落現場らしき場所に立つマクスウェルの映像を見たと語るジョーンズに、SAIMRの活動内容について質問してから、ブルッガー監督の関心は一気にそちらに向いてしまった。
アフリカ大陸の悲惨な現状を取材した「アフリカ 苦悩する大陸」の著者ロバート・ゲストは、この大陸に異常なまで根を下ろしたエイズ疫渦に関し、次のような原因を挙げてその蔓延の過程を解説している。
コンドームを装着する習慣がない。これをつけると快感が半減すると考える人が多いため。
セクシャルな話題を避ける傾向がある為に性教育が行き届かない
精液に美容効果がある、などの迷信
貧困
季節労働者の移動
兵士によるレイプ
女性からコンドームの装着を促すことを良しとしない男尊女卑の思想
アルコール
割礼の習慣がない事
或いは、ゲストは10個目の原因を付け加えなければならなくなるかも知れない。
10. 南アフリカのアパルトヘイト政府と手を組んだ準軍事組織による計画的な陰謀
・・・
ジョーンズによれば、作戦は南アフリカの黒人街トコザやアレクサンドラ、ウエストランドといった街に置かれた、様々な機器を揃える清潔な研究所で始まった。作戦本部はモザンビークにあって、恐らくはそこで培養されたウイルスを、研究所にて実施した黒人対象の無償の予防接種によって蔓延させていたという。
エイズがチンパンジーの体内で人間に適応できるよう進化してから数十年、何故か猫と人間にのみ力を発揮するこの奇妙な選択性が、何者かの手により付与された、つまりエイズは生物兵器であるという言説が、洋の東西を問わず語られてきた。1981年にアメリカのゲイ・コミュニティで発病が確認されると、早速ソ連はこのウイルスが米軍基地の実験場から、厚いフラスコのガラスを飛び越えて分散したという情報工作を始めている。だからSAIMRも彼らの計画もハナから全て出鱈目、荒唐無稽な共産主義者たちの妄想に過ぎないと笑ってすませることも出来るかも知れない。なにせ、少ない関係者と雑な印刷の怪文書、他に途切れ途切れの内部文書、神経質そうな白服の男の写真以外には、その存在を証明できる物が存在しないのだ。
だが視点を変えると奇妙な一致が見えてくるのもまた事実だ。マクスウェルはエイズ治療に関心を寄せる一方で、この病気が完璧な細菌兵器になりうるとも語っていた。RRLのある職員は、バソンが軍病院からエイズ患者の血液を取り寄せて保管していた事を知っていた。1988年のイ・イ戦争中、ハラブジャなどでクルド人に対し使用されたイラクの毒ガス兵器の情報を入手する為に、バソンはイラン国家安全保障最高評議会を名乗るハシェミという人物に接触している。イランに化学兵器対処の防護服を給与する代わりとして、バソンは同国の入手した毒ガス弾のサンプル提供と、ペプチド合成機の手配をねだった。DNAの書き換えに必要な遺伝子工学の実験機材だ。最終的には毒ガス弾のサンプルのみ提供されたまま、取引は御破算になったらしいが、合成機自体はのちにソ連の闇商人を仲介してもたらされたという。
そして同じくこの病気の治療に関心を寄せていた男ラリー・フォードは、既出の通り有色人種のみに感染する選択性を持った細菌を培養していた噂がある。予防接種だけでは黒人から白人へ感染する事を防げない。だがDNAが書き換えられ、黒人にのみ感染する特質が付与されれば話は別だ。連鎖的に、それも黒人にのみ感染する不治の病。これがもし大陸を包み込んだのなら、彼らの絶滅も夢ではない。しかし、断片的な情報から全体を分析する事ほど不正確なものはないだろう。
この取材の後、ジョーンズは密かに某所へ住所を移し、国連の調査に協力する意向を示した。国連はイギリスと南アフリカにも協力要請をしたが、両国ともこれを拒否。さらにある科学者が、エイズウイルスのワクチンによる拡散は困難であると回答した為に、真相は今も闇の中である。
6.落日
かくも多方面に触手を広げ、国の財源を貪ったプロジェクト・コーストは、数多くの軍人や政治家のポケットを潤す汚職の元凶ともなっていた。今一度プロジェクトの組織図を見てみよう。軍上層部と研究室を結ぶ線はバソンただ1人、更に研究室の代表がそれぞれ彼と昵懇であったことは前にも述べた通りだ。そこに莫大な額の金が注ぎ込まれたとなれば、あとはお分かりだろう。’87年、ニューウットの後を継いでSAMSの責任者はニール・ノーベルへと代替わりするが、バソンらはこのパラダイスが最早長くない事を悟っていた。事実、’80年代の後半からプロジェクト崩壊のカウントダウンはすでにスタートしていた。
それは1989年、プレトリア中央刑務所の死刑囚監房から始まった。農民殺しの容疑で収監されていたブタナ・アーモンド・ノフォメラはいま、一世一代の駆け引きに勝った。死刑執行を明日に控えた夜に彼のサインした供述調書は、ゆくゆく南アフリカの闇に潜む怪物たちを裁くための聖なる護符となる。ノフォメラはアパルトヘイト政府のために働く暗殺部隊C10の殺し屋だった。駐屯する牧場の名をとってファルクプラースと渾名されたこの集団は、先の人権派弁護士ムセンゲを始めとする100人以上の殺人に関与しながら、その殆どをもみ消し、未だ血みどろの殺し屋稼業を続けていた。ムセンゲを葬り去った死のランバー・ジャックが一角となったのがこのノフォメラだった。彼は刑の執行が停止されるや、ベールに包まれた組織のありとあらゆる内情を暴露し始めた。
これまでならいつも通りのお目溢しで、上層部がノフォメラをさっさと処刑台に送り込んで仕舞えば良かっただろう。だが。時代とともに上の事情も少しずつではあるが変わり始めていた。ソ連の衰退、東欧の共産主義諸国が軒並み崩れ去り、冷戦の勝敗が決定的になり始めたこの年、強固にアパルトヘイト政策を推し進めてきたボータ大統領が初めてANCとの会談の席を設け、未だ獄中にあったネルソン・マンデラとの直接交渉に踏み切っている。黒人系のリーダーに対する攻撃的な論調は相変わらずだったが、ボータの中には明らかに融和への関心が芽生え始めていた。もはやソ連も亡く、白人指導層はアパルトヘイトや準軍事組織により、''がっちりと守りを固める''必要性を見出せなくなってきていた。同じ年、彼は大統領の座を降りるが、南アフリカにはしかし、たしかに新しい風が吹き始めていた。そして後任のフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領に実質トドメを刺される形で、アパルトヘイト政策はその長い長い暗黒の歴史に幕を下ろすのである。
デクラークに関して通り一遍に言われる、アパルトヘイト撤廃の立役者としての評価は、1990年に行われた大々的な改革、つまり国会演説ですべてのアパルトヘイト法を廃止すると宣言し、ANCをはじめとする非合法政党の認可を決め、黒人抑圧の中核を成した人口登録法、原住民土地法、集団地域法を廃止したことに依拠するものだ。彼は政治犯の出獄を指揮し、ネルソン・マンデラらANCの指導層が続々と出獄、水を得た魚のように政治活動に加わった。だが、本稿ではこれら輝かしい業績の紹介はここら辺に留め、その影に隠れた秘密軍事組織の活動の停止とプロジェクト・コーストの大幅な縮小と調査、そして彼の政治的な暗部を紹介しなければなるまい。
ノフォメラは組織の内情を、微に入り細に入り実に詳しく話してくれた。ムセンゲを殺すために彼らの練った計画─車の故障を装っておびき寄せた─から、その作戦に参加した全員にボーナスが支給された事、彼のトラックは別の場所で燃やされた事、ANCの離反者「アスカリス」と呼ばれた組織御用達の殺し屋の存在...。それ以外にもスワジランド在住だった2人を含める8人のANC隊員の殺害が彼の口から語られるにつれ、政府は公式な調査委員会を設置する必要があることに気づいた。
ノフォメラは関係者に関しても実名を出して証言した。かつて彼の同僚だったディルク・クッツェーはすでにモーリシャスに亡命を遂げていたが、南アフリカの新聞記者に全てを打ち明けた。'80年モザンビークでの作戦に関する彼の証言には、プロジェクト・コーストとC10との関係が透けて見える。マプトで拉致したANC党員、暗号名".ゴースト"を殺すために、クッツェーは2回に分けて毒薬を注射したが、合わせて400ml近い投与を行ったにも関わらず、"ゴースト"が死ななかった為、クッツェーは仕方なく鎮静剤を投与したのち彼を撃ち殺したという。被害者の様子をメモしておくよう命じた毒薬の提供者は、プロジェクトで催涙ガスなどの開発に関わり、バソンとも関係のあった警察の科学捜査研究所所長ローター・ニースリングだった。ノフォメラ及びクッツェーの証言は幾つかのレポートにまとめられたが、それまでだった。秘密部隊及びプロジェクト・コーストの関係者たちが裁きにかけられるには、まだもう少し待たねばならなかった。
・・・
後の調査で、デクラークは’85年のマチュー・ゴニウェ、ムブレロ・ゴニウェ、フォート・カラタ、シセロ・ムラウリの殺人に際し、最終決定を下した政府と軍の会合に参加していた事が分かっている。全員の出身地に準え「クラドック4人組」と呼ばれた教師のゴニウェと彼の知人従兄弟3人は、クラドック州における住宅の賃貸料値上げに反対し、勝利を勝ち取ったが故に勤務校を追われたが、それをきっかけに黒人系住民が大規模デモを巻き起こすほど影響力を持っていた。この時代の南アフリカで黒人の持つ影響力ほど危険なものはない。政変に怯える白人指導者の繰る秘密部隊に命令が下るまで、それほど時間はかからなかった。南アフリカの週刊誌「ニューネーション」によると、デクラーク、ボタ、国防軍の将軍による会議で、彼らの殺害にゴーサインが出されたという。同誌の発見したメモには、標的らを「永久に社会から排除する」案について走り書きがあり、事実その通りにこの4人は帰郷した所を拉致され、体中を切り刻まれて殺されたのであった。
裁く側もかつての処刑者であったということに注目してほしい。いくつもの調査チームが結成され、完全に腐敗に染まりきってはいなかった軍警察、ムセンゲら被害者の遺族、法律家の団体が、秘密部隊を徐々に追いつめていった。危害委員会がメスを入れたCCBは’91年に解散し、カーン委員会による資金網の遮断により、C10も息の根を止められた。にも関わらず、彼ら関係者の氏名や情報がこの時点では一切公開されず、調査を担ったハームス委員会の報告書でもそれらが伏せられていたというのは、やはり何らかの忖度があったか、或いは極秘捜査の進展を相手側に読まれないよう、敢えて今は伏すことに決めたのであろうか。
1989年のデクラーク就任から、プロジェクト・コーストに関する最初の提言が彼になされた1990年までの短い間にも、コースト計画における幾つかの作戦が粛々と実行に移されていた。前述した通り、'87年にSAMSのトップはニューウットから彼の副官ニール・ノーベルへと引き継がれていたが、ノーベルは前任者と同じ違法行為を繰り返した。
1989年6月9日、パパ・ブッシュ大統領との会談の為、アメリカへ発った強固なアパルトヘイト反対派の牧師フランク・チカネを、突然の痛みと呼吸困難が襲った。訪米前に立ち寄ったナミビアで起こったのと全く同じ症状であった。直ちに入院の措置がとられ、何らかの毒素─有機リン塩に良く似た─を盛られた事が分かったが、その汚染源、種類の特定は不可能だった。チカネがナミビアに持って行ったのと全く同じスーツケースに服を入れ、当日はその服で登壇していたことが分かったが、それきりだった。
RRLは、別名「買い物リスト」と呼ばれる極秘資料に、軍や治安部隊へ提供した毒物の内訳を記していた。研究員インメルマンは、チカネ事件の前、バソンに紹介された3人の男に有機リン系農薬パラキソオンを提供した事を記録している。昼飯時のこと、みなでファースト・フードにかぶりつきながら、バソンと3人の男はインメルマンに、毒物が最も効率よく吸収される部位について質問したという。インメルマンは答えた。「睾丸の裏と瞼だろうね」「毒はシャツの襟とベルトに付着させるのが良い」。数日後、新聞を開いたインメルマンはチカネの一件を知った。
’89年8月、国境を越えてナミビアに侵入したペトルス・ヤコブス・ボテスらCCB部隊が難民キャンプの水源をコレラ菌と黄熱病菌で汚染した。彼らに細菌の詰まった茶色い薬瓶を渡したのは南アフリカの医師だったという。水源の塩分濃度が高かった為に細菌が根こそぎ死滅してしまったようで、同キャンプの保険担当者による調査が行われる頃には、汚染の証拠は綺麗さっぱり消え失せてしまっていた。同年9月にはCCBによって、ナミビアの反政府組織である南西アフリカ人民機構(SWAPO)の最高幹部の1人アントン・ルボフスキがAK47の掃射により命を落としている。これらは国連監視のもと行われたナミビア初の民主選挙に対する介入の一部であったと考えられている。
デクラーク大統領はそれまで、プロジェクト・コーストがアンゴラをはじめとする周辺国でSADFの直面した化学兵器への、至極真っ当な国家防衛案の一つだったと認識していた。当時の国防相マグナス・マランは陸軍長官時代から受け継いできた超個人的な繋がりによって、その違法性を覆い隠していた。バソンやニール・ノーベルによるデクラークへのプロジェクト・コーストの説明は、1990年の3月に初めて行われたが、その中で彼に示されたのは、協力する企業によって製造された防護服とガスマスク(対外的な作戦にはほぼ使用され無かった)、そして幾つかの致死的な毒物だけだった。デクラークはただちに毒物の製造を中止させたが、’92年にピエール・ステイン将軍の陣頭指揮をとったSADFの内部調査報告書「ステイン・リポート」の提出によって、デクラークは2年前のあのブリーフィングが氷山の一角に過ぎなかったことを知る。
デクラークの指令によってSADFの暗部に迫ったステインを待ち受けていたのは、熾烈な嫌がらせの嵐だった。A・J・リーベンバーグSADF最高司令官は彼に言った。「私は誰でも監視する事ができる」─彼は常に付き纏う監視の目に悩まされ、家に侵入した空き巣にコンピューターを盗まれた。しかし逆境にも負けず彼はリポートを完成させ、いくつかの暗殺や不正行為にSADFの関与があった事を、疑惑の段階であるものも含めて記した。そして結果それはデクラークをSADF上級将校23人の解雇へと踏み切らせる契機となったのである。リーベンバーグは、デクラークとともに軍の不正を終わらせる為、彼らの解雇を決めた1992年12月の会議のメンバーだった。おそらく、リーベンバーグにもプロジェクト・コーストの終わりは見えていた筈である。嫌がらせは最後の足掻きだったのだろう。クリスマスまでに粛清された23人の中には彼のかつての友人バソンの名もあった。
’91年にマグナス・マランがある不祥事に絡んで退陣すると、プロジェクト・コーストを覆う鉄壁の情報統制は完全に取り去られたかに見えた。しかし、デクラークの改革はここで止まった。前年に勃興した反ANCのズールー人組織「インカタ自由党」(IFP)はANCと内戦一歩手前の血みどろの抗争を繰り広げ、国内には中途半端な自由を経た黒人系住民とそれを極端なまでに危惧する白人系住民が緊張状態に陥っていた。ANCに追いつけ追い越せと黒人勢力による武力闘争も激化の兆しを見せ始めていたし、反ANC勢力に対する資金援助も草の根で続いていた。「ブラック・キャッツ・ギャング」は出獄したANC党員に対する残酷なテロで有名になった組織だが、エルメロを管轄とする白人警官やIFPから援助を受けていた。
デクラークは’91年と’92年の2回に分けて、全党を招いた改憲のための「民主南アフリカ会議」(CODESA)を開き議論を重ねたが、3回目の開催を前にした’92年6月、インカタ自由党によるANC党員40数名の虐殺事件が起き、ANCの会議脱退、ANC系労働組合によるボイコットで国内は揺れに揺れた。今の彼に、プロジェクト・コーストの複雑に張り巡らされた組織網を解きほぐしている余裕などなかった。デクラークは民主化への意欲を見せ始めた南アフリカに、更にハッパをかけ続けなければならなかった。プロジェクト・コーストは民衆に公開されることなく、再びパンドラの箱の中で眠りについたが、水面下では引き続き調査が進められていた。クビを切られたバソンはそのまま調査の証人として"再雇用"され、資金の流れなどに関する裏取り作業に携わっていた。
’92年10月にIFPら反ANC政党の一部が「南アフリカ憂国連盟」(COSAG)を結成すると、政治的分裂を後押しするように今度はANCがIFP支持者26名を殺戮。11月に入ると政府によって2年後の’94年3月〜4月までに自由選挙を開催する準備を整えるとの見通しが発表されたが、それも虚しくIFPは反ANCの態度を取り続け、1959年にANCから分裂した「パンアフリカニスト会議」(PAC)の武装組織「アザニア人民解放軍」(APLA)が白人系住民を血祭りにあげた。白人保守派、特に右派のCOSAG系野党保守党(CP)経済担当クライヴ・ダービー・ルイスは直接的な行動に打って出、ポーランド系移民のヤヌシュ・ワルーシュに改造したベクターZ88ピストルを手渡した。彼はこれを使って1993年4月10日、ウムコントゥ・ウィ・シズウィのカリスマ指導者クリス・ハニを暗殺するのである。
ANCは’93年以降も政府との交渉を続け、得票数が5%の政党を政治に参画させる連立政権の構想で合意していた。他の党を招いた最終的な合意のための第1回多党交渉フォーラムが4月1〜2日に渡って開かれ、まずフォーラムの基本的なスタンスと討議すべき内容については合意をみたが、ハニの暗殺が実質的討議までの日程を先延ばしにした。彼の暗殺が招いた動揺と憎悪は、昨今の白人と黒人間の緊張ゆえ一歩間違えれば流血の大惨事に発展する危険性があった。ANCは南アフリカ共産党らとともに自制を促し、抗議デモは完全に平和的な非暴力の行進の域を出る事なく、9万人の参加した彼の葬儀も同じ結果にとどまった。
実質的討議はそこから2度延長され、結局7月2日に再開される。26政党が参加し、(1)8月末までの暫定執行委員会の設立、選挙管理委員会、メディア委員会の設立、(2) 暫定憲法の制定,、(3)政治暴力の終結については合意を見たが、選挙の開始前に暫定憲法を発行すべきとのCOSAG政党の意見を汲み、これらは制憲議会において再討議される事となった。そして11月18日、複数政党による暫定憲法が発足、第1回多党交渉フォーラムで決定されていた暫定執行評議会が、同時に決定された新生南アフリカ最初の民主選挙実行日、1994年4月26日までの残り数ヶ月間にわたって、民主化へのスムーズな移行を進めていくのである。
この年、マンデラとデクラークはノーベル平和賞を受賞した。
7.トリップ・ドリーム・ストリーム
1994年4月26日からの3日間の選挙は、全党参加のもとで行われた。その不透明性が議論の的とはなったが、大規模な騒乱はすでに遠い昔の話で、始まりから終わりまで新しい南アフリカに相応しい、平和で民主的な選挙であった。結果は大方の予想通りマンデラの一人勝ちだった。彼は大統領に就任した後、旧政権との合意通り得票数5%を獲得したIFPのマンゴスツ・ブテレジを内相に、旧政権のデクラークを副大統領に迎え、かつての敵をも味方につけた宥和の道を歩んでいった。
問題は山積していた。平均経済成長率は0.6%、約160万人の失業者がおり、治安も悪く、1人の男性が殺害される確率は銃社会アメリカの何倍も高かった。しかしマンデラは、これら現在の問題に取り組みながらも、過去に忘れ去られてきた記憶の清算をおざなりにするつもりは無かった。それは同年9月、デズモンド・ツツ大主教以下19人の委員を擁する「真実和解委員会」(TRC)の結成に結実する。彼らはアパルトヘイト政権下のみならず、この地で起きた人権侵害の実例を19世紀末まで遡って掘り下げ、レポートにまとめた。1998年に提出されたその最終報告書で、ある章の扉を飾ったのがこの男であった。
ウォーター・バソン。1998年のレポート公開時、プロジェクト・コーストの全てを知る男は檻の中にいた。それはTRCにとって実に都合の良い事だった。バソン逮捕の際に回収された文書は、ステイン・リポートのみを主要文献としていたTRCのプロジェクト・コースト調査に華を添えた。そしてなにより、本人を直接証言を得る事のできる舞台へと引き摺り出した事で、TRCはその他大勢のコースト関係者への聞き取りを裏付け、あるいは誤りを訂正し、情報を洗練してゆくことが出来たのである。
・・・
1992年12月の一大粛清前夜、バソンの足は冷戦の終結と共に揺らぎ始めた第三世界へと向いていた。表向き対外貿易商社を装ってこの年彼の設立した「グローバル・マネージメント」社は、元社員の証言によればダチョウ肉からハイテク機械までを扱う総合商社だったというが、AK-47の売買などアンダーグラウンドな世界に手を出そうするなど別の顔も持つ''総合商社"でもあったらしい。バソンに捜査の目が向けられたのは、まさにこうした身分を弁えない試みのためだった。そしてそのビジネスの中核を担ったのは、皮肉なことに彼自身の育て上げたプロジェクト・コーストの残穢だったのである。
1983年、警察科学捜査研究所所長ローター・ニースリングの協力を受けて、プロジェクト・コーストのもう一つの道を模索する動きが始まった。読者の皆皆様はすでにお忘れの事と思うが、抑圧政策に対して頻繁に抗議の暴動を起こしてきた黒人系住民達への対抗策を見出す事が、このプロジェクトの一つの目標であった。プロジェクト発足の契機となった’76年ヨハネスブルクでの黒人暴動が、鎮圧まで子供を含む176人の死者を出したことは既に述べた通りである。プロジェクト・コーストは警察の協力を受け、これら暴動を即時かつ最小限の犠牲で鎮圧する方法を模索していた。
はじめに開発されたのは、強力な各種の催涙ガスであった。これはデルタGの生産ラインで大量に出荷され、南アフリカ警察の主力装備のひとつとなった。ニースリングは、これが拳銃や散弾銃といった殺傷力の強い武器を用いる事に消極的な警察の主力武器となる事を予想していた。キーボード計画と呼ばれたこの催涙ガスの武器化は、手榴弾や迫撃砲に搭載可能な催涙ガス弾の開発にも影響を及ぼし、外的、内的両方の武装を強化するのにも一役買った。主に生産されたのはCRとCSの2種類だった。以降、抑圧の撤廃を叫ぼうとした黒人デモ隊は、これらのガスにアパルトヘイトの終わり頃まで悩まされる事となる。
しかし、即時鎮圧の面で、生理機能に攻撃を仕掛けるこれらの兵器は劣っていた。特にCSガスには皮膚にひどい糜爛を生じさせる効果があり、これでは本末転倒である。バソンとニースリングは、キーボード計画の技術を、群衆の心理面に影響を及ぼす兵器開発に転用できることに気がついた。搭載する薬物を変えればいいのだ。彼らの目をつけた薬物、それは陶酔作用を持つ3種類の麻薬と覚醒剤だった。
LSD、大麻、メタクアロン─ニースリングは警察の押収品、10万個に上るこれら3つの違法薬物をバソンに提供した。彼らはこれらをエアロゾル化して兵器に搭載すれば、群衆を一気に酩酊状態へと陥らせ、暴動を瞬時に鎮圧できる安全な対暴徒用の兵器を開発できると考えたのである。研究はこれらの薬物にMDMA、エクスタシーを加え、5種類を主成分の候補として進行した。ニースリングは、薬物が群衆にどのような影響を及ぼすかに関して一家言持つ人間だった。レイヴクラブの裏に家を持っていた彼は、週末になると多くの若者がこれらの薬物でトリップするのを見ていたのである。薬物は生産ラインに乗った。しかし、試験的に作成した兵器の効果は散々なものだった。
ニール・ノーベルはMDMAの大量生産にゴーサインを出していたが、これは’90年代の著しい変革の中で衰退を迎えたデルタGの前に垂らされた
一条の蜘蛛の糸に写った。デルタGは’90年、他の2社(RRLとプロテクニーク)と同時にマグナス・マランによって民営化されていた。危機的な財政難の中で、デルタGはこの計画の副産物を用いた薬物売買をもやむなしとの判断を下したらしい。幸い、民営化への移行の監視は甘かった。こうして'93年までに1トンのMDMA錠が生産され、出荷の準備を整えた状態でドラム缶に詰められたのである。
更にバソンは当時内戦真っ只中のクロアチアに飛び、同国のエネルギー担当相から500kgのメタクアロンを入手するミッションにも従事しもしている。1992年のほぼ一年間を使って、複雑なルートを辿った取引と振込の手筈を整えたバソンは、クリスマスの3日前までに、戦果のメタクアロンを携え帰国した。しかし、全ては遅すぎた。自宅に帰り、泥のように眠りについたバソン。翌朝彼を待ち受けているのが、デクラークによるプロジェクト・コーストの停止と、己の解雇通知だということを、この時彼はまだ知らなかった
4年後の1997年、グローバル・マネジメント社の幹部グラント・ウェンツェルがこの計画に目をつけるまでに、発覚を恐れた関係者の手によって証拠はみな破棄された筈だった。バソンの供述によると、彼が身を粉にして入手した500gのメタクアロンを始めとする、おおよそ2トン超のSADF収集の違法薬物は1993年1月27日、彼自身の立ち会いの元で南アフリカ北部のズワルトコップ空港を飛び立つ航空機に積み込まれ、紺碧の太平洋に波の藻屑と消えてしまった。彼は感情的になるのを抑えきれなかったという。10数年の歳月をかけた仕事の成果が目の前で航空機のハッチから捨てられてゆくのを眺める、その心情はいかほどのものか我々には想像もつかないが、或いはウェンツェルが麻薬ビジネスに手を出そうとした時、バソンが案外すんなりと片棒を担ぐ事に了承したのは、この時味わったやるせなさのせいだったのかもしれない。
ニースリングとバソンは、陶酔作用を持つガス弾の開発に勤しむ傍ら、南アフリカ警察の捜査能力を高める為、潜入捜査用にこれらの薬物を錠剤加工する設備を購入しもしていた。1985年に首都プレトリア郊外のSADF基地に設けられた加工工場では、「MX」と「RL」の刻印がそれぞれ1面ずつ施されたメタクアロンの錠剤が生産されていた。これは捜査員がウムコントゥ・ウィ・シズウィや他の犯罪組織の活動網に潜入する際に所持して嫌疑を避けたり、ターゲットの所持品に仕立て上げ逮捕の口実に使うために使用されたが、デルタGが薬物売買に関心を示していた‘92年には、デュアル作戦の参加者の1人がこの錠剤を渡され、東ケープ州のサーファー達に売るように指示されたという。また、ラグビー南アフリカ共和国代表のイングランド戦を観戦するラグビー・ファン達を載せたジェット機に、極秘裏に大量のエクスタシーの錠剤を搭載していた記録もある。後者は密輸のためだろうが、こうした錠剤の一部は、廃棄を免れ未だにデルタG社の地下にドラム缶に詰められて眠りについていたのだ。
グラント・ウェンツェルは個人的な財政難に陥っていた。そんな彼にプロジェクト・コーストの違法薬物開発計画の噂は、実に開拓しがいのある金鉱に写った。結局、彼はプロジェクト・コーストに魅入られた男達の長い長い名簿の最後端に名を連ねる事になった。ウェンツェルは同僚のスティーブ・マーティンから計画の噂を聞いたのだったが、幸いにもその真偽はすぐにわかった。彼らの雇用主こそがその計画に最も近くで携わった張本人だったのだから当然である。
こうして外堀を埋めたウェンツェルはいよいよ麻薬ビジネス網の構築を目指し動き始めた。彼がそ始めに協力を要請した元デルタG科学者は「リスクが高すぎる」と突っ慳貪だったが、バソンが案外乗り気だったので、それはビジネスの進行自体にはそれほど支障をきたさなかった。
'97年1月18日、プレトリアのレストランで、バソンはウェンツェルに袋に入ったカプセル状の薬物を差し出した。これは、あまり前例のないタイプのエクスタシーのカプセルだった。ウェンツェルはこれをマーティンに渡し、マーティンは既に決まっていた顧客のフレッドという男にカプセルを売った。取引はひとまず無事に終わり、信用に足ると判断したのか、このあとフレッドは更に2000個の追加注文を出す。彼がバソンの考えていた1カプセル220円の価格設定にも納得した為に、次の取引の日にちもすぐに決まった。だが、約束の21日にラステンバーグへ赴いたウェンツェルを待っていたのは警察だった。
慣れない仕事に手を出すには、ウェンツェルにもバソンにも経験が足りなさすぎた。フレッドは警察の予備役だった。一連の取引は、全て南アフリカ麻薬局(SANAB)によって仕組まれた罠だったのだ。スティーブ・マーティンはこの件における警察の主要な情報提供者だった。そしてケンタッキー・フライドチキンを舞台にした見せかけの取引にまんまと騙されたちまち確保されたウェンツェルも、訴追を免れる事を条件に薬の供給者を白状してしまった。捜査陣の注目は、2000個ものエクスタシー、それもあまり市場に流通していない、恐らくは自家製のカプセル入りエクスタシーをぽんと供給した「危険で知名度の高いプレトリア在住の心臓外科医」に集まった。そしてSANABのヨハネスブルグ支部長ギエル・エーラーズは、ウェンツェルらの情報を元に、この心臓外科医ウォーター・バソンの息の根を止める作戦を考えつく。およそ1週間後、満を持して作戦は決行へと移されたのであった。
1月29日、バソンの自宅前のマグノリアデル公園はいつも通りの朝を迎えた。まだ冬の寒さの残る季節、名物「愛の橋」のたもとを流れる小川に枝垂れた木々にも未だ葉はつかず、些か寂しい眺めのこの公園は、しかし昨日とはガラリと装いを変えている。今、駐車場に1人の男が車を転がし入ってきた。ウェンツェルだ。彼は囮捜査への協力を宣誓していた。警察から供給された麻薬の代金約40万円を懐に、バッソンから''商品''を受け取ろうというのだ。彼の身体には今朝取り付けられた盗聴器がこれから起こる全ての物事を聞き逃すまいと密かに聞き耳を立てていた。側の茂みには監視役の男達が潜み、更に車のトランク内にも1人、ヨッティ・ヴェーゼル巡査が息を潜めていた。
そんな事など露知らぬバソンが車を駐車場につけたのは、それから少し経った頃の事だった。張り詰めた空気の中で、金を受け取った彼は白い日産・セントラのトランクを開け、黒いゴミ袋を取り出した。ウェンツェルがそれを受け取り、短い会談は平和に終わりを告げたかに見えた。しかしウェンツェルの車がゆっくりと動き出し、駐車場を出るか出ないかの内に茂みの中から拳銃を構えた警察官が一斉にバソンに飛びかかった。すんでの所で躱し逃げるバソン。公園の敷地に飛び込んで、彼の頭の中には最悪のシナリオが描かれていた。
''一体奴らは何者だ?''。おそらく最初の疑問はそれだった。おもい当たる節は山ほどあった。バソンはプロジェクト・コースト末期、最後のひと稼ぎとばかり己の地位を利用して幾つか危ない橋を渡っていた。先ずは「CBWマフィア」である。’84年、バソンがドイツの実業家から紹介されたこの団体は、生物化学兵器に関する情報をやり取りする為のリビア、東ドイツ、ソ連の諜報機関の集まりだった。特に彼が関係を深めたのはリビアだった。1992年にはトン単位の催涙ガスを香港経由で輸入する取引において、リビアの諜報員アブドゥル・ラザクが関与していた事が明らかになっている。同国の「狂犬」と呼ばれたアメリカ嫌いの独裁者カダフィが、プロジェクト・コーストの副産物にいたく興味を示していたことは、バソンがリビアでインフラ建設やタバコ産業、そして本業の心臓外科医として腕を奮えていた事からも明らかだ。恩恵を授けたにも関わらず、CIAとMI6のストップによって情報提供は妨げられた。その意趣返しにあの「狂犬」が殺し屋を差し向けたのだろうか。
或いはCIAかMI6の抹殺指令が下ったのかもしれない。この両組織が彼に疑いの目を向けていたのは事実だ。南アフリカ軍の防諜機関にして、ステイン・リポート作成をサポートした国家情報庁(NIA)はプロジェクト・コーストの調査において緊密な連絡を取り合っていた。直近で南アフリカに届いていた、バソンに国外逃亡の恐れありというCIAからの報告は、今回の囮捜査の契機の一つともなった。
しかし最も恐るべきシナリオは、自分がアラブ諸国の関係を嗅ぎつけたイスラエル諜報特務庁(Mossad)を相手にしてしまう事だった。1月の寒空の下、枯れ葉の積もった公園を縦横無尽、脱兎の如く駆け回りながら、バソンは必死に思考を巡らせたことだろう。
─奴らは手強い。狙った獲物は地の果てまで追い詰め消し去る冷酷な組織だ。まずい、非常にまずい。このまま走り続けてどうなる?。諦めて投降するべきだろうか。しかし捕まえられた後が怖い。過酷な尋問が待ち受けている事だろう。自白剤を投与されるかもしれん。何を投与されるか分かったものではない。いかん、いかん。逃げろ、逃げるべきだ。どこへ逃げよう。例えば...
思考は急に途切れた。公園の敷地を流れる小川に足を取られ、彼は盛大に水飛沫をあげながら、1月の冷たい水の中に転げ落ちた。
8.Blood feast fairytale:アフターマス
バッソンの逮捕の後、警察は間髪入れず彼の自宅に捜査の手を伸ばした。そこは宝の山だった。1993年3月末、プロジェクト・コーストの関係資料は全てがCD-ROM化され、大統領とごく一部の政府高官のみが鍵を持つ国防省内の金庫に封印された事になっていた。しかし、おそらくはバッソンを薬物取引へと突き動かしたであろうあのやるせなさが、ここでも働いたようだ。彼は栄光の日々の記録を誰の目も届かない薄暗い金庫の中で眠りにつかせるには忍びないと感じ、その極秘文書の一部を密かに自宅に持ち去っていたのである。
同じような書類はバッソンの友人の家にも預けられており、その数1千枚近くに上った。企業の内幕や財政問題、研究内容の詳細を綴ったそれらの文書の中には例えばRRLの「買い物リスト」や、1993年の違法薬物の海洋投棄を確認した旨の証明書があった。これはステイン・リポートすらもプロジェクト・コーストの全貌を把握できていなかった事を明らかにするものだった。ステイン・リポートには例えば暗殺の存在や、モザンビーク反政府組織への化学兵器の供給などについての記述はあるが、薬物開発計画についての言及はない。そしてそれは、これまで参考資料をステイン・リポートに頼らざるを得なかったTRCの調査の不充分さを明らかにするものでもあった。
'98年6月8日、TRCはケープタウンの本部で公聴会を開く。それは調査の不明点を補完すると同時に、波乱に満ちた法的駆け引きの幕開けを意味していた。
TRCが驚いたのは、いざとなった時の政府の隠蔽体制であった。公聴会2週間前の5月25日、国防省、外務省、NIAの会合に招かれたTRC委員たちは、2つの根拠から公聴会の先送りを迫られる。
公表される資料に制限がかけられる事は、CIAやMI6の圧力もあり決定的なものになるであろう事は、関係者の誰もが予想していた。一般大衆のみならず世界中の耳目を集まる事が予想される公聴会で、催涙ガスや毒物や暗器の詳細を公表することは、西洋諸国に相対するアラブの急進派やその他テロ組織に手ずから塩を送る様なものだ。ニール・ノーベルの立ち合いの下、TRC委員は所蔵するプロジェクト・コースト関連文書を(1) 公聴会で言及し、メディアに公開するもの、(2) 言及するが公開しないもの、(3) 全く言及しないもの、の3つのカテゴリーに分類する必要があった。
(2)の取り決めが厳重に守られていたことはすぐに明らかになった。あるスイス人ジャーナリストが初日のトップシークレット文書のコピーを国外に持ち出そうとして逮捕されたのだ。この厳重さは、しかし完全公開のこの公聴会における証人のプライバシー保護の厳重さの証でもあった。会に招かれた証人たちが危惧したのが、まさに上で書いたような第三勢力からの勧誘や襲撃だった。
証人たちには恩赦を与えるのがTRCの理念であった。告白と引き換えに赦しを与える。その姿勢の是非は兎も角、集った証人は多かった。RRL、デルタG、プロテクニーク、その他旧国営企業のオーナー、科学者、マネージング・ディレクターが居た。SAMSの代表、準軍事組織の暗殺者、彼らに装備を提供した暗器の開発者、MDMA他違法薬物の開発に携わった研究者、国防相、SADF総司令官も居た。彼らは皆、リポートの言葉を借りるなら「プログラムの性質を明らかにし、若い科学者が同様の非倫理的状況に陥らないように教育するための政策を策定するために、(リポートの)著者と緊密に協力することに合意した」。
およそ2ヶ月間続いた公聴会で、プロジェクト・コーストは再び、今度は国際社会と一般大衆の目の前に、その基本的性質に最も肉薄した40人以上の人々の口を借りて蘇った。その詳細はこれまでの各章ごとに述べてきた通りだが、誰もが忌まわしい体験を公表することで、一刻も早く罪悪感から逃れようとしていた。彼らは(またしてもリポートの言葉を借りるならば)告白によって「自分たちがしてきたことの償いにつながるような、とてつもない安堵感を覚えた」。後には証言をひっくり返す者も出たが、大多数の関係者たちがかつての行いに少なからず苦しめられていた。
告白が彼らに出来る唯一の償いだとするならば、しかし、公聴会中、最も多くの人々の口にのぼり、最も多くの注目を集めていた男の口から、償いの言葉はまだ聞かれていなかった。彼は公聴会に出席こそしていたものの、証言については頑なに拒み続けていたのだ。
その男、ウォーター・バソンは弁護士を雇ってずるずると抵抗を続けていた。彼は自由性を盾にTRC公聴会での証言を拒否するための裁判を起こしていたが、TRCは後に待ち受ける刑事裁判の内容を彼に有利なように取引し、なんとか公聴会の最終日に出席を取り付ける事が出来た。満足したバソンは更に聴取をはぐらかすためのありとあらゆる策を巡らせながら、7月31日、満を辞してケープタウンのTRC本部へと向かった。
彼の来訪から数分と絶たず、TRCの聴取者たちは限られた制限時間を更に削ろうとするバソンの最後の足掻きに翻弄される羽目となる。しかしそんな事とは露知らず、ビジネススーツを着込み、にこやかに挨拶を交わしつつ席についたバソンに、彼らは他の関係者と同様に、彼が心からの後悔と懺悔を真実の告白という形でもって示してくれるものと、勝手な期待を抱いてしまった。バソンはカメラマンのレンズにウインクをし、それはこの公聴会を象徴する一枚となった。
まず始まったのは、彼の弁護士ジャープ・サイラーズとTRC法律顧問ハニフ・ヴァリーの長ったらしい法律論争だった。黙秘権を行使することの是非についてひたすら話し合った後、ようやっと口を開いたバソンは、しかし殆どの質問を忘却を理由にはぐらかし、場を茶化した。薬物開発の副産物にビジネスの誘惑を感じた事が無かったかとの質問に、バソンは聴取者の1人を標的にした趣味の悪い冗談で答えた。
午前の会合はこの一言でおじゃんになった。呆れ返った聴取者の1人ウェンディ・オアが退室し、ドゥミナ・ンツェベーザがバソンを嗜めた─ドクター、彼女は恥ずかしがっています。
彼はこの3日間の誘惑を堪えれたように、エクスタシーやメタクアロンの一件で一線を越える事はなかったと、遠回しに、そしてわざと相手を憤慨させるような言い回しで述べたのだった。更にバソンの悪趣味は容赦がなかった。中休み、TRC本部近くのカフェに集ったTRCのメンバーに、偶々その場に居合わせたバソンはツカツカと歩み寄ると、中にいた法律顧問ヴァリーの額に戯けた様子でキスをした。後にわかった事だが、バソンはこのカフェの壁に意味深な落書きを残していた。
─何よりも真実 DR,DEATH
・・・
公聴会は世間に大きな影響を与えた。それは国境を越えた広がりを見せた。イギリスのMI6は、警察の記録を1980年代まで遡って、不審な死を遂げたANC関係者6人を割り出している。バッソンが保管していた文書が、リビアやイラクに売り渡されていたのではないかとの懸念もあった。
1999年10月、彼は遂に詐欺、200件以上の殺人、違法薬物の取引をはじめとする64件の罪で裁判所へと引っ立てられた。7日31日の公聴会中の取引により、その全貌は全く外部に公開されなかった。
経済犯罪だけで200ページ、更に暗殺や違法の薬物開発、武器取引を加えて膨れ上がった2巻の起訴状を紐解く裁判は2002年まで続いた。裁判官は証人を探すため時にはアメリカまで飛んで証言を聴取した。検事のアントン・アッカーマンの手の下、バソンはなんと61件の罪状を認めた。しかしそのほとんどはプロジェクト・コーストに投入された資金を使ったマネー・ロンダリングや、ペーパーカンパニーの設立などの汚職であり、プロジェクト・コーストの人道的犯罪とは関係のないものであったとアッカーマンは強調した。裁判開始から6週目にはバソンを調査した政府側の対応の問題点が追及された。10週目には更なる証拠がためのために一時休廷が示され、その是非を問う論争が巻き起こった。驚くべき事だが、この時バソンは60ページにのぼる保釈申請書が受理され、裁判のない日、軍病院に勤め、医者として働いていた。保釈中の身である分には何の問題もない処置であるが、患者の心情穏やかでなかった事は察するに余りある。
裁判官ウィリー・ハーツェンバーグは、本法廷に国外における犯罪を裁く権利がないとしてナミビアでのデュアル作戦に関する告訴を棄却し、更に南アフリカでの4件の殺人に関する告訴が棄却され、最終的にバソンの罪状は46件にまで減らされた。このたった1人の男の罪に関して、州の用意した''たった''153人の証人の証言だけでは、法的な判断を下す事は困難だったようだ。そして、この度重なる棄却の果てにこのハーツェンバーグが下した判決は、当時の南アフリカを動揺させるものだった。
「mail&guardian」紙の記事によれば、ほとんどの証人に「個人のビジネス帝国の資金調達のためにシステムを操作しただけでなく、アパルトヘイトの敵を国家公認で排除するためにプロジェクト・コーストの科学成果を曲解した人物だと指摘された」この男は2002年4月23日、残りの全ての罪状に関して無罪を言い渡された。ハーツェンバーグ判事曰く、政府の調査し提示したバソンのプロジェクトにおける役割に関する内容が、「合理的な疑い」の域を超えられなかった為であるとの事だった。再審は認められず、ANCはこの判決に「とんでもなく悪い」と率直な気持ちを表明した。TRC議長デズモンド・ツツは、4月23日を「黒人の目から見てまだ贖罪と更生を果たしていない南アフリカの司法プロセスの信用度にとって悲しい日」と評した。
裁判決着後からしばらく経った後、あるメディアの取材にバッソンはそう語った。同じ紙面に、このメディア「ati」は彼のもう一つの顔を伺うことの出来る言葉を載せている。
9.残穢
プロジェクト・コーストの現代に続く問題を知りたければ、南アフリカ・東ケープ州にロッジを取って、近くの太平洋沿岸に広がるツィツィカマ国立公園に足を向ければいい。そこでは、プロジェクト・コーストの残した可愛らしい"遺産"とその子孫たちの群れを観察する事ができる。
RRL社の研究員は、暗殺用の毒薬や細菌兵器を研究する傍ら、イヌの忠実さと狼の頑強さを兼ね備えた「スーパー・ウルフドッグ」の開発にも従事していた。’80年代の事である。研究員らはアメリカから6頭のハイイロオオカミを輸入し、イヌと掛け合わせることで人間が統率できる完璧な生物兵器へと改造しようとした。施設の警備に応用したり、ANCなどのゲリラを追跡するために、実戦に投入する事を予想した研究だった。しかし、野性の遺伝子は飼い慣らされたイヌのそれを圧倒的に凌駕した。誕生したウルフドッグは狼の特性を多く受け継いでしまっていた。
このウルフドッグたちを調教したヨハン・プレトリウスは、彼らが狼の群れの中におけるルールを人間にも適用した為リーダー争いが起き、その中で調教師たちが優位に立つ事は困難だったと述べる。計画はゲリラ攻撃の少なくなった’80年代後半には放棄され、残された200頭以上の生物兵器たちは、人を殺し殺される事なく、南アフリカの温暖な気候にも適応し、今日も東ケープの安全な森の中で命を育んでいる。
・・・
これはプロジェクト・コースト裁判で明らかになった秘密計画の一つである。鳴物入りで始まった裁判は、しかし厳重な情報統制が災いしてマスコミの興味を惹くことなく、ひっそりと閉廷した。
全く手掛かりの掴めない怪事件も多かった。例えば1990年代に連続して起きた武器産業の関係者の怪死事件は、プロジェクト・コーストとの明らかな共通項を持ちながら、いまだに犯人すら見つかっていない。
「ソー・ケミカルズ」はプロジェクト・コーストの末期において、デルタG社をはじめとする幾つかの会社と用途不明の水銀化合物の取引を行っていた旧国営企業である。1991年11月、ある取引の2ヶ月後、この企業の幹部で化学的な塗料の専門家アラン・キジャーが、ヨハネスブルグのソウェトに停められた自分の高級車のトランクの中でバラバラになって発見された。遺体は謎の黒い油状の物質に塗れていた。1ヶ月後の12月11日、今度はランドバーグの化学会社役員ジョン・スコットが、妻と娘をキッチンナイフで刺し殺し、「5週間前に取り返しのつかない事をした」との遺書を残してガス自殺した。1993年4月23日、ダーバンビルの化学エンジニア、ワイナンド・ヴァン・ウィックは自宅にかかってきた電話の相手に、ケープタウンの高級ホテルで落ち合う約束を取り付けた。リッツプラザホテルの18階が彼の墓場となった。足下に広がるケープの街並みから太平洋の水平線までを一望できるこの部屋で、ウィックは撲殺死体となって発見された。
彼の妻シーラは、ウィックを殺したのが複数のイスラエル・モサド工作員であると踏んでいた。ウィックに限らず、これまでの一連の犠牲者の殺害にモサドが絡んでいるという説は当時広く流布されている。キジャー、スコット、ウィックに、イスラエルと敵対するイラクのサダム・フセイン政権への核開発協力疑惑が浮上したからだ。そして、湾岸戦争の立役者だったこのちょび髭の独裁者とは、プロジェクト・コーストも深く関わった形跡がある。
イラクでフセインのため、射程距離1000kmを誇る多薬室砲「スーパー・ガン」の開発に勤しんでいた有名な弾道学の権威、ジェラルド・ブル博士と、バソンはかつて細菌兵器を搭載した砲弾の研究で協力した事があると述べた。また、裁判真っ只中の2000年3月23日に猟銃自殺を遂げたアーバインのプロジェクト・コースト関係者ラリー・フォードは、湾岸戦争中に用いられたイラクの化学兵器に関する出所不明の詳細なデータをニール・ノーベルに提供した事があるというが、これに関連していると思われる証言が、裁判中バッソンの口から飛び出している。'86〜'87年にかけて、彼はイラクのファルージャで、スイスやドイツの科学者とともにフセインのためのマスタードガス開発にオブザーバーとして参加していたと語った。これは、イ・イ戦争における南アフリカのイラク支援の一環だったという。
ジェラルド・ブルが1990年に諜報機関の関与が疑われる状況下で射殺された様に、南アフリカの犠牲者達はモサドに葬り去られたのだろうか?。しかし、彼らの仕業にしては不可解な点が多い。ウィックの妻シーラは夫の死後、何度も自宅に不審な夜盗が入った事を記憶していた。彼女は「weekend argus」紙の取材に、恐怖の一夜の記憶を語っている。ある夜、彼女の幼い娘は2階へ続く階段で誰かが話すのを聞いたと言う。オカルトでも幽霊でもなく、それは明らかに人間だった。奇妙なことに、シーラがある取材にウィックの個人的な日記を所持していない事を明かすと、空き巣はピタリと止んだ。
ジェラルド・ブルに対し、モサドは似たような手法で監視を匂わせた事がある。部屋にわざと忍び込み、何も盗らずにただ荒らすのだ。しかし、今回の一件はそれとも違った。明らかに目的はウィックの日記だった。それに、モサドは標的以外には危害を加えない様細心の注意を払う事で知られる組織である。仮のその誓いが破られたのだとしても、殺害後にターゲットの身辺関係を記した日記を狙うのも不自然だし、何よりも迅速に行動を起こして即時撤退する事が鉄則である筈の越境を伴う暗殺作戦において、暗殺後も国に留まり、何度もターゲットの家を荒らしに出向くと言う事が、果たしてあり得るのだろうか?。
怪死事件は更に続いた。1994年3月9日、ヨハネスブルグの化学工場に勤務するトレバー・カーターが頭を撃ち抜かれ、変わり果てた姿となって見つかった。女を侍らせ、派手な暮らしぶりで"ドン・ファン"の渾名をとった武器商人ドン・ランゲが6月にダーバンビルの自宅アパート一室でビニール袋をかぶって窒息死した。死の前、彼は自分が「抹殺」されるという恐怖に取り憑かれていた。警察も疑いを持つ状況下での死だった。7月に入るとダーク・スタッフバーグという武器商人も妻とともに不自然な自殺を遂げた。
次第に南アフリカ警察やジャーナリストたちは、殺害された人々の間にイラクやモサド以外のもう一つの共通点を見出すに至った。彼らはみな、国際的なブラック・マーケットに出回ったとされるある"神話"に翻弄された経歴を持つ人々だった。
・・・
1994年8月、夜のナミビア。ジャーナリストのピーター・ホーナムを突如、けたたましい電話のベルが襲った。
彼は南アフリカから始まりナミビアへと、ある"商品"の足取りを辿ってやって来たのだった。電話の主は興奮した様子で「ナミビアを出なければ大変な事になる」と警告した。電話の主はすぐにわかった。電話一本入れるだけでは不親切だと、相手の方からホーナムの部屋まで出向いてきてくれたからだ。南アフリカ政府のために働く諜報員だと名乗る、銃器で武装した男だった。彼はホーナムの取材内容が、怒らせてはいけない筋の逆鱗に触れた事を告げた。イスラエルと戦うパレスチナの武装組織「ヒズボラ」が、ホーナムの首に懸賞金をかけたというのだ。
ヒズボラは彼をMI6のスパイだと勘違いしたらしい。それは明らかに、ホーナムの追っていた"商品"を彼らも狙っていた事の証明であった。いや、ヒズボラのみではない。それはソ連崩壊の直後から、世界中の政府要人、武器商人、研究者、テロリストを魅了した夢であり、神話であった。諜報員の男に伴われて、ひっそりとナミビアを出国したホーナムは、その神話が自分の予想を遥かに越えて多くの邪悪な人々を魅了していた事を痛感したであろう。
レッド・マーキュリー=赤い水銀。それが彼らの夢見た"商品"の名前である。それは旧ソ連の極秘プロジェクトによって開発された理想のエネルギー資源であり、或いは僅かな量で甚大な被害を与える事のできる原子爆弾の材料であった。
1995年の「New scientist」誌上で、マンハッタン計画に携わり、長崎に落とされた原子爆弾の開発に従事したサミュエル・コーエン博士は、この物質を評して「組織社会の終焉を意味するテロ兵器の一部」と語った。それはコーエン自身によれば、通常物質に少量の特殊な核物質を混ぜ、原子炉に投入するか、あるいは分子加速光線を当てることで製造されるものであり、スウェーデンの国際平和機関「ストックホルム国際平和研究所」元所長フランク・バーナビーによると、原子炉で20日間照射された水銀とアンチモンが結合した、ゲル状のポリマーであるという、赤色の水銀を主成分とする物質であった。そして、どちらの説も凄まじい威力を持つと言う点では一致していた。
兵器として威力を発揮するためには、レッド・マーキュリーは野球ボールほどの大きささえあれば充分だと、同誌は書く。たったそれだけで、この物質は周囲600m以内の全ての人々を一瞬の内に消し炭にできるほどのエネルギーを秘めているという。それはエネルギー資源としても兵器としても実に魅力的な性質であった。前述したモサドを始めとする世界中の諜報機関やテロリストたちがその情報を追い続けたが、それに出会えたものはついぞなかった。彼らが闇市場で見つけた"レッド・マーキュリー"は、大方マニキュアで彩色した単なる水銀やその他の化学物質に過ぎなかった。いっときは新生ロシアの軍装備であった迫撃砲の弾への応用がなされているとの説まで流れたこの夢の欠片は、2004年に国際原子力機関(IAEA)の行った調査によってデマであると結論づけられるまで、人々を魅了し続けた。
インターネット・メディアの「Vice」によって明らかになった、2012年になってもまだブルガリアの闇市場で核弾頭が売買されていたという事実を見ると、それはソ連と東欧の旧共産主義国から核開発に応用可能な機器や物質が闇市場に漏れ出したという事実に基づいた共同幻想だったと片付ける事も可能なのかも知れない。南アフリカの男たちは、幻想を追い続けた果てに死を掘り当ててしまったのだろうか。
フランク・バーナビーはNew scientist誌に、環境保護団体の「グリーン・ピース」を通じて持ち込まれたというソー・ケミカルズの極秘文書を公開している。「赤色水銀20:20」という呼称で示される、水銀と「酸化水銀アンチモン」の化合物の注文書の一部であろうという。注文者は不明だが、前述の通りこの会社は、デルタGとの間で大量の水銀化合物をやりとりした記録が残っている。更に突き詰めると、黄色だったというこの用途不明の水銀化合物は「赤色水銀20:20」を製造する為の原料だったのではないかとする説もある。
そしてこれはナミビアでの脱出劇を演じたピーター・ボーナムの調査によって明らかになった事だが、レッド・マーキュリーを探していた海千山千の輩の中には、マンデラ政権に対するクーデターを目論んでいた白人保守派勢力が混ざっていた。
─あるいは、こう考える事も出来るのではないか。白人支配政権の崩壊後、ついに南アフリカの権力を掌握した黒人系を頂点にいだく連立政権の政治家たちに対し、SADF高官を始めとするプロジェクト・コースト関係者たちは一矢報いるチャンスを虎視眈々と狙っていた。資金網が縮小され、組織の不正が次々と暴かれる中、彼らは崩壊しゆく東側諸国から流れ着いた噂に縋りついた。それは強力な原子爆弾を盾に、あわよくば政権を奪取し、住み慣れた白人優位の体制へと逆に舵を切るクーデター計画。しかし、計画は頓挫し、関係者たちは再び保身に走る。彼らは自らの立場を守ろうと、加担した者たちを口封じのために殺戮して回った...
一連のいわゆる「レッド・マーキュリー殺人事件」において検挙された者は居なかった。
・・・
狼は、群れの先頭に老いた狼の一群を置く。彼らは後方につけば取り残されるし、何より真っ先に敵に狙われる存在だから、率先して群れの先頭につかされ、全体の舵取りを任される。
しかし、彼らはリーダーではない。群れのリーダーは最後方につき、群れを全体的に俯瞰しながら、全ての調和を保つために細心の注意を払い行軍について行く。
─全体を敷衍すべきリーダーを失った、哀しき狼の群れ─
プロジェクト・コーストを取り巻く白人優位体制に縋りつこうとした人々の群像は、そんな光景を想像させる。
リーダーが死んでも、老いた狼たちに率いられ、群れは進む。一見何事もなかったかの様に、彼らは密林を駆け抜ける。
しかしそこに統率はない。老いた狼たちに、最早群れを纏める力はない。だが、それについて行く中堅の狼たちにもまた、それが異常であると言う事を悟る力がない。
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プロジェクト・コーストは終わった。残されたのは200匹以上のウルフドッグと、無惨に朽ち果てた国営企業のオフィスと、かつて大量殺人に関与した100あまりの"一般人"。彼らの夢見た白人政府は、今や過去の悪しき歴史として教科書の片隅に記されるのみであり、国営企業の建物は次々と改装され、新たな企業のオフィスとなっていった。
2014年、RRL社の跡地を訪問したアフリカ安全保障研究所(ISS)のシャンドレ・グールド、ブライアン・ラパート、ヴァーン・ハリス、キャサリン・スミス一行は、既に農業関係の企業のものとなる事が決まったその建物の地下で、朽ち果ててゆくかつての時代の遺産─永遠に記される事のないサインを待つ書類の山や、漏水で汚く黴びた壁紙、かつての威厳を無くした取締役室、実験動物の絶望を吸い込んだ檻の山─を見て周り、その公式サイトにこんな一文を残している。
裁判で無罪を勝ち取ったウォーター・バソンはその後どうしたか。「the africa report」は2021年、衝撃的な内容の記事を公開した。それは南アフリカを始めとするいくつかのアフリカ・中東諸国に事業を展開する病院グループ「メディクリニック・インターナショナル」のダーバン医院に勤務する医師の紹介ページに載った、ある老医師に関する記事であった。
心臓病専門医を名乗り、カメラに向かって微笑むスーツ姿のその老人こそ、かつてプロジェクト・コーストを牽引し、64件の罪で起訴された「DR,DEATH」ウォーター・バソンその人であった。
彼の存在をめぐり、地域社会は動揺した。彼の退任を要求する声に、メディクリニックは彼の免許が登録開業医の名簿に載っている以上、いかんともしがたいとコメントした。
そして、南アフリカにおける医療従事者のデータベース「Medpages」の情報を信じるならば、2023年現在も彼はそこで働いている。
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南アフリカはこの老狼を守り続けている。それは彼の医者としての腕を、過去と切り離して考えようと言う実用主義的な観点からか、はたまた後ろから全てを見守るリーダーの秘密を握られているからだろうか。
バソンはかつて、自分がプロジェクト・コーストの責任者に抜擢された理由を、端的でわかりやすい比喩を交えてこう語った。
もう2度と、南アフリカに白人政権が誕生する事はないだろう。
彼の国の人々は知ってしまった。
片目の「DR,DEATH」が率いる盲目の狼ほど、恐ろしいものはないと言う事を。
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