表面的な自分を肯定したら、自分のアートが生まれた
今回のnoteから「ですます」口調で書くのをやめようと思った。
なんとなく印象がマイルドかなと思って、今までしばらく敬語で書いていたが、頭を使うので面倒くさいし、色々な他人の記事を読んでいて「...だ。」口調の文の方が、独り言みたいで好きだなと単純に思ったから。
表面的なものへの執着
私の描く絵は、非常にGRAPHIC(グラフィック)だ。
なんと日本語で表そうか考えると、「表面的」が合うような気がするけど、表面的という言葉はたいていの場合、否定的な意味合いで使われている。
私はもともと彫刻科の出身で、それを人に言うと驚かれることも多い。彫刻家の描く絵にはたいてい立体感があり、奥行きがあるからだ。
私の絵はグラフィックに近い。実際私はグラフィック・デザインの仕事もしているので、私が描く絵は、手描きのグラフィックみたいなものだと思って描いている。
私は学生時代、彫刻科の授業でも、ある程度の形ができると、彫刻の最も大事な、そこからさらに形を整えていく作業よりも、表面のテクスチャーを自分流にいじる作業が大好きだった。結果いつも先生に怒られるのだが、どうしてもそれがやめられないくらい、それが私にとって「ゾーン」に入る作業だった。
どんなアートが好きかといったら、彫刻よりも、浮世絵だったり、横尾忠則のポスターに夢中になった。浮世絵や日本画は、他国の同じ時代のアートと比べても断然細やかで丁寧で、その繊細さと表現力に感動を覚える。
グラフィック・デザインやポスター・アート、イラストレーションは、ファイン・アートとファッションの中間みたいで、見ていて子供心や遊び心を刺激されるし、洗練されているところが好きだ。
絵画作品は、立体よりも限られた次元空間で世界観が完結されているので、作り手の凝縮された感覚が伝わってくる。
私は好きな絵やポスターなら、何時間でもそれを眺めてその世界に入り浸る事ができる。
それから私は、日本で漫画を読んで育ったことが間違いなく影響している。
子供時代はもちろんの事、中高生になってからも、ホラー漫画やガロなどのサブカル漫画に夢中になった。
今は知らないが、私がいた頃の日本のファイン・アート界隈では、漫画をアートと認めないような雰囲気があったが、私は、漫画は日本が誇れる、立派なジャパン・オリジナル・アートだと思う。
アニメは世界に認められ出してから、ここ15年ほどでようやく地位が上がってきたけど、個人的に漫画ももっと認められてよいと思う。
日本の漫画は本当にバリエーションも豊かだし、漫画の持つ「世界観に引きずり込む」力はすごいと思う。
他にも植物だったら、花びらの柔らかそうなテクスチャーとか、動物の毛並みや目の美しさだとか、海の生物の奇妙なパターンだったり、蜘蛛の巣に付いた水滴や、老人の顔の深い皴なんかの美しさに、非常に目を奪われる。
表面には内部が滲み出る。それは単純に肌が綺麗だと心が綺麗だとかそういうことではなく、たとえば表情だったり、性格だったり、性質だったり、その物や人が重ねてきた年月だったり、環境だったりというものが、混じり混じって、表面にはテクスチャーとして現れる。
それを良いとか悪いに分けるのではなく、その対象を見た時の、自分の中に広がるストーリーや感動を、陰と陽のコンセプトと組み合わせて、世界にアウトプットしたい。そういう欲求から、私は絵を描いている。
コンプレックスとアートへの向き合い方
私は長年、自分の「表面的」な部分を「悪いもの」だと認識してきた。
わざわざ彫刻科に入学したのも、そこを「直そう」と思ったからだ。
大学に入るころには、ものの形を上手に捉えられるようになり、技術的な苦手意識は解決したが、そこで感じたことは「私はやっぱり表面や2次元が好き!」ということだった。
大学を卒業してニューヨークに来てからは、その「表面」さの極であるファッション系の仕事についた。
目に入るものすべてが新鮮で、その狂騒的で刺激的な日々は、まるで毎日がパーティーみたいだった。
そんな日々も本当に楽しかったが、約10年のブランクを経て、誰かの下でモノを作るのではなく、自分のアートを作りたい、という欲望が沸いてきた。
それから7、8年間、自分にとって、ちょうどアートとファッションの中間みたいなイラストや絵を描いたり、グラフィック・デザインの仕事をしている。
自分の中で感じた「美しさ」ー儚さや、グロテスクな美しさも含めてーを、ミクロな「点」で、そのひと粒ひと粒をつなぎ合わせて1枚のイメージを作る、この「点描」という技法は、「表面」にオブセッションを持つこの自分の特性を、全面的に追及することができる。
ひとつひとつの点がいくつも集まって陰影を作り、トーンを作り、やがてそれが一つの絵になる為、ひとつひとつの点をしっかりと確認する「今に集中」するというトレーニングにもなる。
点を打つという行為は、最小単位の行為であって、それに意識を向けなければならないので、衝動的なタイプの人には向いていない。
点描の場合、「なんとなく」打ちながら描くと、あまり良い画にならないのだ。「今に集中する」(点を打つ)事で、自分の納得する未来(完成作品)ができるというのは、生き方にも通じると思っている。
気が遠くなるような作業だが、瞬間瞬間を確認しながら、自分の世界を少しずつ少しずつ作っている感覚にうまく陥ると、とても気持ちがいい。
刺繡なんかに感覚は似ていると思う。
一つ絵ができると、今度はその手描きの絵をスキャンして、コンピューターで組み合わせ、また別のイメージを作ることもある。
私はこんな一連の作業が、単純に楽しくて仕方がない。
コンプレックスを敢えて追求することで、長所に変えてしまおうという発想の転換
絵を描くことや、自分の絵を使ってグラフィックを作ることは、私にとって、セラピーでもある。絵を描くと、「表面」にオブセッションを持つ、この自分の特性をポジティブなものに変換できるからだ。
「表面的」である自分を素直に認め、絵を描くことで、そのコンプレックスを自分の中で美しいと思うものに消化することができる。
好き嫌いは別として、ここ数年、私の絵はマイナーチェンジを繰り返しながらも、徐々に私独自の表現方法になってきたと思う。
すべての表現というものは、自分の成長や変化とともに、徐々に徐々に変わっていくものなので、これから自分の作品がどう変わっていくのかが楽しみだ。
もの創りは人生そのもので、人生はやっぱり楽しむべきだ。
競争だったり、同じような価値観で群れることも苦手な社会不適合者の私にとって、アートは自由と、どんな自分でもいいという安らぎを与えてくれる。
これからも、楽しみながら、自分だけの「好き」を追求しながら生きていきたい。