風を感じる人がいるから、風は存在できる。
――作家なんだから、何かを生み出さなければいけない。でも、生み出したところでそれを受け取ってくれる人がいなければ存在していないも同然なんじゃないか
人生は物語。
どうも横山黎です。
今回は「風を感じる人がいるから、風は存在できる。」というテーマで話していこうと思います。
📚自作へのコメントに救われる
最近、新作長編の執筆でひいひい言っているんですが、一昨日、筆が進まなくなってふとnoteを見ると通知が来ていました。noteに公開した小説『初めましての恋』にコメントが来ていたんです。
それを読んで、「大丈夫、ちゃんと届いてる」と自分を慰めることができるんですよね。せっかくですし、作品を紹介させてください。
『初めましての恋』は僕が去年書いた短編青春ミステリーです。中学校の入学式で、第2ボタンのない制服を着た男子生徒の謎を解き明かしていきます。タイトルからお分かりの通り、「初恋」がテーマなんですが、それとミステリーとが上手く混じり、桜が儚くも美しく彩ってくれています。
その記事のコメント欄をみてもらえると、いくつかコメントが並んでいます。一昨日コメントしていただいた方だけでなく、以前にもいくつかいただいていました。この際ですから、抜粋してコメントを紹介させていただきますね。どんな作品なのか、知っていただく良い機会だと思いますし。
1万字くらいの小説でさらっと読めるので、興味を持たれた方は是非以下の記事をご覧になってください。
で、本題に入るんですが、作家活動をしているとふとした瞬間に思い知らされるんですよね。作家なんだから、何かを生み出さなければいけない。でも、生み出したところでそれを受け取ってくれる人がいなければ存在していないも同然なんじゃないかって。
📚風を吹かせろ
作品をつくったところでそれを読んでくれる人がいなかったら、それは作品と呼ぶにふさわしいといえるでしょうか。作品をつくって誰にも見せなかったら、それは作品なのでしょうか。
作品ではあるけれど、つくった本人しか認知していなかったら、その作品の価値はかなり低いものです。作品ではあるけれど、作品としての価値はない。
分かりやすくいえば、「モナ・リザ」は世界中の人が認知しているから作品としての価値があるわけで、ダヴィンチの家に飾られたままだったらそこまでの価値は生まれなかったといえるでしょう。
いや、読者ひとりの心をどれだけ動かせるかが作品の価値だ!と叫びたい気持ちはありますが、多くの認知を集めた作品はその分評価されるし、注目も集まる。多くの読者の心を動かす可能性があるわけですよね。
僕の作品はせいぜい友達まわり、あるいはnoteまわりにおさまっているので、多くの認知を集めておらず、大きな価値はありません。ただ、風を吹かせなければ、遠くの人の心を揺らすことはできません。
作品を作るだけでなく、届けるからこそ、心を揺らすことができる。そんなことを思うんです。
📚風が存在するために
去年書いた『初めましての恋』が今こうして新しい人に届いたのも、書いて終わりにせず、noteに投稿したからだし、そのテーマソングをつくってそれも公開したからだし、機会があれば宣伝してきたからです。僕のパソコンの中に閉じこめたままだったら、知らない人からコメントをもらうことはなかったのです。
風は目には見えないし、形もない。重さもありません。どんな色をしているかも分からない。それでも僕らが風を風として認めることができるのは、髪がなびいたり、花が揺れたから……風を感じる瞬間があったからです。
風を感じてもらうためには、風を吹かせないといけません。つくるだけじゃなくて、届ける作業も大切だってことを改めて思いました。
今回の風のくだり、実は冒頭にも触れた現在執筆中の長編のなかでも登場します。早く届いた気持ちでいっぱいなので、早く書きます(笑)筆が進まなくても、大丈夫大丈夫と言い聞かせながら物語っていきます。
完成したそのときには、また風を吹かせますね。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
20230414 横山黎