第4章 息子のいない世界


第4章 息子のいない世界


 息子を失ってから初めて迎えた朝、由美はリビングのソファに横たわり、カーテンの隙間から空を睨んでいた。途中で、洗濯機を回していないことに気付いた。気力が無いから今日はやめよう。

 時計の針の音、音、音。

 壁にかかった時計は午前10時を回っていた。由美は平日、地下鉄の駅で清掃の仕事をしている。普段なら既に出勤している時間だ。しかし、朝早くに仕事を休む連絡をしておいた。事情が事情なだけに、しばらく休暇を取ることを許された。そういえば朝食を摂っていないが、食欲は全く無かった。

 今の由美にあるのは、果てしなく深い喪失感と、虚無感と、倦怠感だった。

 昨夜晩く、警察からの尋問から解放されて家に帰ってきた。時計を確認しなかったが、日付は変わっていたかもしれない。ソファに腰をかけると何も考えられない時間が続いた。しかし、身体は正直なものでいつの間にか眠っていた。

 朝に目が覚めたが、それからもずっとソファに横になっている。もう2,3時間そうしている。どれだけ時間が経っても、胸のあたりに穴があるような感覚が消えない。一生埋まることの無い、大きく、深い穴。

 昨日は夕方から大学時代の親友と2人で王子駅にあるイタリアンに行き、優雅なひとときを過ごしていた。
 
 店を出たのは午後10時過ぎ。お互い明日も仕事があるし早めに切り上げることになったのだ。学生の頃なら翌日学校があったとしてもそれに構わずに朝まで飲んでいたこともあったが、思い出話に興奮したせいか想像以上に酔いが回り、帰って早く休む選択肢を取ることにしたのだ。

 2人は王子駅の前に停まっていたタクシーに乗った。先に由美の家まで送ってもらうことになった。自宅の前に着き、財布を取り出そうとしたが、旧友が「いいよいいよ」と言ってくれた。由美はその厚意に甘え、お金を払わずにタクシーを降りた。

 ただいま。

 誰もいないと分かっているから、心の中でそっと呟く。由美を迎えたのは、闇に包まれた玄関。明かりを点け、靴を脱ぎ、風呂場に向かう。家を出る前に洗っておいたから、湯を張ればいいだけだ。由美はいつも風呂に入る前に翌日分の米を炊く。米を2合研ぎ、炊飯器のスイッチを押した。

 やるべきことは終わり、後は湯船にゆっくり浸かるだけだった。寝室に着替えを取りに行こうとしたそのとき、固定電話が鳴った。スマホが普及した今、家電に連絡が来ることは多くない。夜遅くにかかってきたこともあり、初めから嫌な予感がしていたのだ。

 連絡してきたのが瑞月だと分かると自然と声が明るくなったが、すぐに様子がおかしいと感じた。何かあったのだろうか、どうして電話を寄こしたのだろうか、胸の中で少しずつ心配が膨らんでくる。

「……もしもし? 瑞月ちゃん?」

「遊馬が……」

 突然話し始めたことよりも、自分の息子の名前を言われたことよりも、彼女が涙声だったことに驚いた。

「……どうしたの?」

「遊馬が、歩道橋から落ちた、みたいで」

 稲妻に打たれた気がした。落としそうになった受話器を両手で支える。酔いは完全に覚め、頭の中が真っ白になる。

「動かないの……」

 頭を鈍器で殴られたような感覚がした。生まれてこのかた味わったことの無い衝撃を受けた気がした。鼓動が加速する。胸の奥の奥が熱くなると同時に、寒気もする。

 瑞月に早急に救急車を呼ぶように伝え、由美はすぐに家を飛び出し、夜道を自転車で走り出した。

 遊馬が、歩道橋から落ちた……。

 胸に込み上げてくる得体の知れない何かを必死に抑え込んで、がむしゃらにペダルを漕ぐ。信号を無視して道路を横切る。近くでクラクションが鳴ったがそれも無視した。

 曲がり角を曲がり、大通りに出た。晩い時間だから人の通りも車の通りも少ない。静かな夜の三叉路に架かる歩道橋が見えてきた。歩道にしゃがみこむ背中を目にして、それが瑞月だと分かる。

「瑞月ちゃん!」

 瑞月が振り返った。その拍子に、彼女の前に横たわる人影に気付いた。

 自転車が倒れる音。

 呼吸を忘れて、駆け寄った。

 夢の中なのか、現実なのか、分からないまま。

「遊馬……」

 名前を呼んでも、返事は無かった。

「遊馬!」

 名前を叫んでも、返事は無かった。

 遊馬……。

 遊馬……。

 遊馬……。

 
 遊馬。

 
 その名前は由美が考えたものだった。

 妊娠が発覚した日から、由美と順一は生まれてくる子どもにどんな名前を付けようか考え始めた。部署は違ったが、20年前も順一は警察官として忙しない日々を送っていた。結局一緒にゆっくり考える時間も無く、由美がいくつか候補を挙げることにした。

 お腹が膨らんでいくと同時に、名前の案も膨らんでいった。思いついた名前をノートに書いたり、無料のサイトで姓名判断したり、名字と繋げて発音したときに淀みが無いか何度も口にしたり、多くの時間を費やした。

 どんな名前がふさわしいのか、絶対的な正解は無い。与えた名前を、親が、子ども自身が、人生の中で正解にしていくのだ。一生ものであることを意識すると、易々と決めるわけにはいかなかった。数か月後、ようやく4つに絞ることができ、順一に相談した。候補の名前を記した紙を見せると、由美の予想に反してすぐに決断した。

 それが「遊馬」だった。

 草原を駆け抜ける馬のように、自由に、遊ぶように、生きていってほしい。そんな願いを込めた名前だった。

 順一に選んだ理由を訊くと、「何となく」と返ってきた。見た瞬間に遊馬がいいと思ったそうだ。学生時代に小説を書いていたという順一のことだから、少しはこだわりを見せると予想していたから、感覚的な理由で名前を決めるとは思わなかった。しかし、自分は少し難しく考えすぎていたのかもしれない。そう認識を改めたことを、今でも覚えている。

 仕事のこともあり、順一は遊馬のことについてあまり関わらなかった。仕方が無いと割り切りつつも、少しは手伝ってくれてもいいのにという気持ちが心のどこかにあった。着床から日が経てば経つほど、由美の身体的負担が増していったから、家事のひとつやふたつ、手伝ってくれてもいいのにとよく呟いたものである。いい返答は望めなかったから、呟くのはいつも心の中でだった。

 しかし、遊馬が産まれるとき、順一は仕事を蹴ってまで病院に駆け付けてくれた。そして、産まれたての遊馬を抱えて、順一は涙を流した。由美が順一の涙を見たのは、そのときが初めてだった。遊馬の誕生に号泣した順一を眺めて、この人と結婚してよかったと心の底から思った。

 遊馬の成長は順風満帆というわけでは無かった。産まれてまもなくして、肌が酷く荒れたのだ。そのときは医者に乳児湿疹と診断されたが、後に卵アレルギーによるものだと判明した。

 母親の食べたものは、お腹の中の赤ちゃんにも運ばれる。何気無く口にしていた卵料理の成分が、遊馬の身体に送り込まれていた。そういうわけで、産まれてすぐの遊馬の肌に異常が生じたのだった。卵アレルギーと知らなかったとはいえ、呑気にプリンやスクランブルエッグを食べていた自分を恨んだ。

 少しでも見た目をよくしようと、お宮参りのときはステロイド剤を使って肌を綺麗にしたことを覚えている。この世界に生を受けてすぐに、遊馬には辛い思いをさせてしまった。

 あのとき自分の全てを捧げて遊馬を育てようと決めたのだ。

 遊馬の創作が始まったのは幼稚園児の頃だった。由美が図書館から借りてきて読ませていた絵本に影響されたのだろう、自分でオリジナルの絵本を作っていた。もちろん拙い絵ではあったけれど、周りの子と比べたら上手だったし、何よりも楽しんで絵を描いている姿が由美には輝いて見えた。

 言葉や文章に興味を持ち始めたのは、小学校に入学してからだった。授業で扱った教材に影響されて、詩や紙芝居を作り始めたのだ。言葉選びには目を見張るものがあって、作った物語には心を動かされた。そういえば小学2年生の頃、作文コンクールで佳作を獲ったことがあった。由美は改めて思う。あの頃から、遊馬には作家としての素質が確かにあったのだ。

 そして、小学5年生の頃、ついに小説を書き始めた。少し前にミステリー小説の魅力に取りつかれ読み漁っていたから、その影響が大きいのだと思う。

 あれ以来、遊馬はずっと小説と向き合ってきた。中学生になっても、高校生になっても、変わらず物語を綴っていた。

 その努力が実を結んだのは、高校2年生のときだった。地元北区の主催するミステリー文学賞に応募した遊馬の作品が奨励賞を受賞したのだ。当時の遊馬はあまり感情を表に出さずにいたが、受賞の知らせを聞いたときはさすがに喜んでいた。きらきらした笑顔を見せ、運動部顔負けのガッツポーズを見せ、終いには不思議なダンスを始めた。夢をひとつ叶えた遊馬の姿を、由美は微笑ましく、誇らしく眺めていた。そして、由美の胸は幸せで満たされた。我が子の努力が実を結んだことが、自分のことのように嬉しかったのだ。

 奨励賞受賞をきっかけにいろんな人から声をかけられた。由美の会社の同僚からもお祝いのプレゼントを頂いた。そういえば、瑞月のお母さんとまた会うようになったのも、遊馬の受賞がきっかけだった。

 翌年には、北区の事務局の方から連絡があり、次の地方紙の目玉記事に、遊馬と区長が対談する企画を考えている旨を電話で伝えられた。遊馬はもちろん引き受けることを決めた。

 対談は、王子駅から少し歩いたところにある中央図書館の一室で行われた。由美も立ち合い、遠くで見守っていたのだが、いつも以上に遊馬がたくましく見えた。

 対談の様子は惜しみ無く地方紙の一面を飾った。今はまだ北区という小さな領域ではあるけれど、きっといつか日本中の誰もが知っているような有名作家になる。掲載された遊馬の写真を見つめながら、由美は本気で信じることができた。

 しかし、塞翁が馬とはよくいったもので、遊馬の人生は急下降を見せた。

 大学受験に失敗したのである。

 奨励賞受賞を果たした翌年、受験の年が始まった。由美は予備校に通うことを勧めたが、遊馬はそれを拒んだ。独学で受験に臨むつもりのようだった。第1志望校は都内にある国立大学の文学部。

「作家になりたい」

 改めてそう宣言され、由美は遊馬の覚悟を受け入れることにした。初めこそ不安だったが、遊馬は直向きに勉強に取り組んだ。夏の終わりの模試では第1志望校に合格する確率は80%だと診断された。いわゆるA判定が下されたのだ。このときは由美も気が楽になった。当の本人も不安を拭うことができたはずだ。

 しかし、きっと安心しすぎてしまったのだろう。高3の秋に、例の区長との対談が行われたことも関係しているかもしれない。すっかり気が緩んでしまった遊馬の成績は、A判定を獲った夏の模試を境に下り坂になった。1月に実施される1次試験では目標より100点も低い点数を出した。第1志望校に合格する見込みはかなり低くなってしまった。それでも、望みが潰えたわけでは無い。2次試験まで1カ月間、遊馬はそれまで以上に勉強に励んだ。

 もしかしたら、受かるかもしれない。2次試験の結果で逆転合格できるかもしれない。可能性は、ゼロでは無い。

 由美はずっと祈りながら、机に向かう遊馬の背中をこっそり見つめていた。

 しかし、受験直前、その可能性がゼロになった。全てが水泡に帰すことになった。

 遊馬は、試験日を間違えた。

 第1志望校の2次試験の日付を、一日間違えて覚えていたのだ。

 翌日が試験日だと勘違いして迎えた朝、朝食後、遊馬はスマホで第1志望校のホームページを開いた。後で聞いたことだが、特に理由は無かったらしい。虫の知らせというやつだ。

 改めて試験のスケジュールを確認した瞬間、遊馬は「あ……」と一言だけ漏らした。「どうしたの?」と由美が訊くと、「今日だ」と短く返ってきた。その返事の意味を捉えきれずにいたが、遊馬がその後すぐに「試験日」と言い足したことで、事態の重みに気付いた。

 遊馬が顔を上げて、壁にかかっている時計を見た。針は8時30分を示していた。試験開始時刻は9時。試験会場である大学まで1時間以上かかる。

 もう、無理だった。間に合わないと悟った。

 ただ、遊馬はすぐに支度をして、家を飛び出した。駒込駅に向かい、山手線に乗ったが、受験票を忘れていることに気付き、再び駒込駅に戻った。

 遊馬から連絡が来て、由美は急いで受験票を手に、駒込駅へ自転車を走らせた。改札越しに受験票を受け取った遊馬は、何も言わず背中を見せた。そして、駆け足でホームへ続く階段を上っていった。

 どれだけ祈ったところで何も変わらない。時計の針は戻らない。

 結局、遊馬は試験を受けることができなかった。一時はA判定が出たはずなのに、第1志望校に進学する夢は叶わなかった。試験日を間違えるという、つまらない不注意のせいで。

 遊馬は万が一の保険のために、後期日程で茨城大学に願書を出していた。そこに合格することができたため、無事大学生になることはできたのだが、あの頃の遊馬は行き場の無い遣る瀬無さに、活力を失っていた。奨励賞受賞の知らせを聞いたときや、区長と対談したときのような輝いた表情は無かった。

 遊馬と一緒にちゃんと確認しておけばよかった。そんな風に、自分自身を責めたこともあった。

 でも、由美はいい体験だと思った。遊馬にとって必要な試練だったのだと受け止めることにした。試験日を間違えて希望通りの道には進めなかったけど、未来のどこかでよかったと思える日が来るはず。胸を張って、その道を勇敢に歩ける日が来るはず。そう祈ることにしたのだ。

 しかし。

 祈りは、届かなかった。

 間違って進んだ道の先に待っていたのは、成人の日の夜に命を落とすという残酷な現実だった。

 全部悪い夢であってほしかった。いつ覚めるんだろう、とバカなことを考えている。

 由美が現場に駆け付けた後、まもなくして警察と救急が到着した。順一が現れたことには驚いた。動かない遊馬を前に、順一は静かに衝撃を受けていた。しかし、由美のように取り乱すことは無く、すぐに刑事の顔に戻った。それが、由美には悲しかった。

 そういえば、今、順一はどうしているんだろう。現場で一度話したけど、それからの行方は知らない。順一は今、機動捜査隊に配属されているから、主に初動捜査を担当するはずだ。長く捜査に関わることはできないけれど、やれるだけのことはやろうと考えているのかもしれない。刑事として、犯人逮捕に力を尽くしたいのかもしれない。

 でも、犯人が捕まったところで、誰も救われない。遊馬が生き返るわけでも無いし、自分の今の状況が好転するわけでも無い。

 枕にしていたクッションを手に取り、顔に強く押し当てた。

 瞼の裏に、遊馬の顔が浮かんでくる。少年の頃のあどけない笑顔から、近頃の不愛想だけどたくましい表情まで。もう目にすることのできない、遊馬の顔が浮かんでくる。

 浮かんでは、消えていった。



 インターホンの音で目が覚めた。三度目のコールで起き上がり、玄関へ向かう。途中で時計を一瞥する。既に13時を回っていた。いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。

 メイクをしていなかったから今はあまり人と会いたくなかったが、ドアアイを覗き、訪ねてきたのが瑞月だと分かり扉を開けた。

「こんにちは」

 瑞月が小さく頭を下げた。昨日は華やかな服装をしていたが、今日は鼠色のダッフルコートにジーンズという格好をしていた。

「瑞月ちゃん、どうしたの?」

「いや、その……お母さん、大丈夫かなと思って」

 由美は目を細めて微笑んだ。

「ありがとう。せっかくだし、上がっていきなさい」

 由美は瑞月をリビングに案内した。ちょっと待っててねと言って由美はキッチンへ向かう。紅茶を淹れている間、瑞月はソファに座って黙って待っていた。

 トレイの上にティーカップを置き、溢さないように運んでいった。テーブルの上にそっと置く。

 瑞月は「いただきます」と言って、紅茶を一口啜った。

「瑞月ちゃん、学校は?」

「休むことにしました。やっぱり気分が乗らなくて……」

「そうなの……本当ならね、遊馬も今日学校あったらしくって、始発で茨城に帰るつもりだったみたい。どうせ朝まで誰かといるから家には帰らない、そう言って成人式に行ったの」

「そうだったんですね……」

 由美も瑞月も続ける言葉が見つからなくなって、ティーカップから沸き立つ湯気を眺める。

「遊馬はさ……同窓会、どんな感じだった?」

「……え?」

「楽しくやってた?」

「ええ、楽しそうでした……」

 瑞月はか細い声を絞り出すように言った。

「でも……喧嘩しちゃったんでしょ? 昨日言ってたよね」

 瑞月はゆっくり頷いた。

「お酒が入ってたこともあって、熱くなっちゃって……」

 そのときのことを思い出したのか、瑞月の顔がさらに翳る。

「確か、将来のことでぶつかったって聞いたけど……」

 瑞月の話によると、同窓会で北区の地方紙に載った区長との対談の話題になったらしい。瑞月に限らず、遊馬が新聞に載ったことを知っていた旧友は少なくなかったという。遊馬からすれば至福の瞬間だったに違い無い。でも、直後に起きた喧嘩のきっかけになってしまったから、複雑な気持ちを抱いていたことだろう。

「やっぱりすごかったんですね、遊馬って」

 瑞月の顔が少し柔らかくなった。

「小学生の頃、5年生だったかな、遊馬が原稿用紙を渡してきたんです。何だろうと思って見てみると、それは小説で、タイトルの次に小山遊馬って書かれていたんです」

「遊馬が書いた小説?」

「そうです。そのとき、すっごいキラキラした顔をしていて、昨日の夜も同じ顔をしていました」

 由美はその顔を頭の中で思い浮かべる。奨励賞を受賞したときや区長と対談しているときの顔と重なった。

「誰だって夢を持っていたと思うんです。もちろん私だって。でも、みんなこの20年のうちに折り合いを付けているんです。少なくとも、私はそうです」

 瑞月の言う通りだと思った。

 試し書きをしたはいいものの、理想通りの未来を描けなくてあきらめるのが普通だ。そのキャンバスを人目につかない場所に隠しておくのか、乱暴に破いて捨てるのか、始末の仕方に個人差はあるけれど、少年の日の夢を終わらせていく人が大半である。

「あの頃と変わらない夢を追いかけていて、今もその夢を信じていている遊馬って、すごいと思ったんです」

 言葉にならない思いが胸に込み上げてくる。自分の息子を誰かが褒めてくれるとやっぱり自分のことのように嬉しかった。しかし、この世界に遊馬はもういない。その揺るぎないたったひとつの事実で、どんなプラスの感情もひっくり返ってしまう。

 寂しくて、悔しくて、痛くて、空しかった。

「すみません、なんか……」

 由美の涙を見て、瑞月は謝った。由美は慌てて首を振った。瑞月は何も悪いことをしていない。謝る必要は無い。むしろ感謝をしたかった。

「瑞月ちゃん」

「……はい」

「お願い、聞いてもらっていい?」

「もちろんです」

「もう少し、遊馬のこと、話してくれる?」

 瑞月はゆっくりと確かに頷いた。

 その後、由美と瑞月は、淹れ直した紅茶をお供に、遊馬との思い出を語り合った。

 その途中、由美はふとあることを思い出した。

「瑞月ちゃんさ、ひとつ訊きたいんだけど」

「何ですか?」

「式典が始まる前に、遊馬と会った?」

「え? 会ってませんけど、どうしてですか?」

「ううん。なら、いいの」

 昨日、遊馬は少し早めに家を出た。理由を訊くと「野暮用がある」と濁していたが、それが何だったのか気になったのだ。瑞月と会っているとばかり思っていたが、どうやらそうでは無かったらしい。もしかしたら、遊馬の死と関連があるのかもしれない。

 突然、玄関から物音がした。まもなくしてリビングの扉が開き、順一が現れた。

「あなた……」

 順一は驚いた表情を浮かべた。まさか瑞月が自宅のリビングのソファに座っているなんて思いもしなかったのだろう。

 気まずい空気が流れる。

「飯尾瑞月さん、だったね……」

「お邪魔してます」

 瑞月が軽く頭を下げると、順一は一歩を踏み出した。表情は張り詰め、眼差しは尖り、呼吸は少し乱れていた。様子がおかしい、由美がそう思った瞬間、順一の口から銃弾のような問いが飛び出た。

「君が、遊馬を殺したのか?」


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