終わりを求めて
無数の感情を知りたいと思ったことがある。
その感情や思いを息吹として形にするために、長い年月をかけて多彩な色彩に触れ、創造を重ねてきた。
しかし、結局のところ、その感情が届くのはわずかな一瞬にすぎない。
人は覚え、そして忘れる。
その繰り返しが人間である。
全てにはいずれ終わりが訪れ、すべては無に帰する風化の過程を辿る。
それは遅かれ早かれ訪れることを知っていたはずだ。
わかっていたはずだろ。
けど、どこか心の奥深くで、この瞬間がずっと続けばいいと願っていたのではないだろうか。
それでも時代は流れ続ける。流動的で留まることはない。世界は絶え間なく変わるのだ。
そしてこの世界においてそれは決して揺るがない絶対的な摂理である。
受け入れるしか無かった。
でも、私はその一時の輝きが誰かの心に触れ、他人に何かを生み出すきっかけを作ることができたのならそれで十分ではないかと、たとえ希望が薄れつつも、その信念の為に強い創造力を長年にわたり抱いてきた。
しかし、今となっては、その夢があまりにもかけ離れていると感じる。
なぜなら、もはや将来を見たいという欲望は私の中にはないからだ。
枯れてしまった。
その欲求がもはやない。
最近、目にする光景は嫌なものばかりでうんざりだ。
電子世界では誹謗中傷ばかりが目に入る。
現実社会ではただ労働を重んじるだけの押し付けと蹴落とし合いが鬱々とした日常を形作っている。
そしてそれにより最近感じたことがある。
それは、労働が尊ばれる一方で倫理観が失われつつあるということだ。
私はそれが資本主義により形成された、比類なきほどの深刻な汚点と踏まえている。
確かに、生きるためには労働が重要であり、必要なことだと思う。
国の発展のために、人々が生きやすい環境をにつくるためにもそれはかかせない。
しかし、同じくらいに、絶対に忘れてはならない貴重な価値観がある。
でも、今の世の中を見ていると悲しいことに、労働によってそれが失われているような気がする。
何かを理由に叱責を受ける時も「社会人だなんだから。仕事だから。お金を貰いに来てるんでしょ」といった都合のよすぎる魔法の言葉に多くの人は最終的に行き着くのだ。
それを言われてしまえばもう為す術はない。
言い難いが道徳性のようなものが壊れてきてるんじゃないかなと感じている。
優しさや思いやりがますます欠けているように思う。
それはあまりにもみていて悲しいし寂しい。
人は一人では生きていけない。
優しさと助け合いがあればこそ、生命はそこでやっと初めて意味を持つようになるんじゃないのかな。
平和ってなんだろ。
生きるってなんだろ。
大切にしていた心。
そんな事を考えていると、気持ちが激しく揺れ動く。
またあいつがやってくる。
忘れた頃に、それは突然と顔を覗かせてくる。
もう、うんざりだ。
膨らんでは縮み、何度もその繰り返しは命の限り続く。
決して終わりは見えない。
苦しい。
なぜ人生はこんなにも長いのだろう。
あまりにも長すぎる。
成功者にとっては人生は短く感じるかもしれないが、何も成せない人間にとっては果てしなく長い道のりだ。
もしも、明日この旅路が途絶えるとしたら、私は何を感じるだろうか。
人の最期はあまりにもあっけいない。
だから、もしかしたら、何も思わずに消えてしまうかもしれない。
でも、もしも自分の思いを残してこの世を去れるとしたら、私は一体何を思うのだろう。
ただ、何も成し遂げられずに終わるのならば、私は自分自身をきっと許さない。
これまでにも、自分自身のこと、そして周りの気持ちをこれでもかというほどに考えてきた。
他の誰よりも強く、人との繋がりを求めてきたかもしれない。
ただ、みんなと笑いあって一緒に繋がっていたかった。
きっとそれだけなのだ。
それでも、人との繋がりをうまく築けないこ
が、本当に悔しい。
なぜ何もできないのだろう。
なんで何でこんなにも上手くいかないんだろ。
あまりにも悔しい。
正直もう終いにしたい。
そんなことを言っておきながらも、もうちょっと頑張ってみないかと優しく手を差し伸べる自分がかすかに見える。
正直にもうやめて欲しい。
いつものように己を救えない哀れ者が、これ以上救おうとしないでぐれ。
一体お前は何がしたい。
とにかく、もう疲れ果てた。
今は何も見たくない。
終わりのない安らぎ。
ただ私は今、それのみを追い求めている。