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麻痺側と非麻痺側を比較してはいけない理由

セラピストのみなさん、脳卒中のクライアントに麻痺側と非麻痺側を比較させていませんか?

それにはメリットとデメリットがあり、デメリットを把握した上で行うべきだと考えます。

今回は麻痺側と非麻痺側を比較してはいけない理由を解説したいと思います。

脳卒中者のリハ場面において、麻痺側と非麻痺側の比較を行うことは多いです。

その目的は、

■非麻痺側の動きを分析し、真似るようにして麻痺側の動きを促す

■非麻痺側の感覚を確認し、麻痺側では何が足りないのかを分析するよう促す

といったところだと思います。

麻痺側と非麻痺側を比較することの何がいけないのか。

順を追って考えていきたいと思います。


比較とは何か

比較とは、生物が生きていくために必要な『情報』を得るための手続きです。

グレゴリー・ベイトソンは、『情報』を次のように定義しています。

差異を作る差異(A difference which makes a difference)

これは、自分にとって意味のあるものを自分で見分けるということです。

何かと何かを比較し、そこに違いを見出すことで『情報』が得られます。

しかし、自分にとって意味のないものは差異とはならず、外界の差異は情報にはなりません。

ただ違いがあるだけでは情報は得られず、それを比較し、そこに意味を見出すから(自分にとっての)情報が得られることになります。

そして、比較によって得られるものは2つあります。

それは既に上で述べた差異と、もう一つは類似です。

2つのものを比べ、そこに差異と類似を見出す。

これが比較するということです。


麻痺側と非麻痺側を比較するということ

では、脳卒中者の麻痺側と非麻痺側を比較するということがどういうことなのか、考えていきましょう。

発症して間もない時期は、麻痺した側の上下肢が動かないことに気付く時期です。

当然、強いショックを受ける方が多いと想像できます。

そんなとき、セラピストが麻痺側と非麻痺側を比較するように促します。

「右手と左手を比べてどうですか?何が違いますか?」

きっとその方はこんな差異を見出すのではないでしょうか。

「こっちの手は動かないんだ」

「こっちの手は何も感じない」

「こっちは使えない手だ」

そして、どんな類似を見出すことができるのでしょうか。

「似ているのは見た目だけ」

「似ているところなんてない。全然違うものになってしまった」

このような比較の結果、本人にとっての左右の手は次のような意味付けがされてしまうかもしれません。

「こっちの手はもう動かないから、こっちの手でやるしかない」

少し極端な例だったかもしれませんが、実際にこんなことがないとは言えないのではないでしょうか。

私自身は回復期病棟でのリハを終えられた方、場合によっては発症から数年経過した方と関わることが多いですが、そのような方から次のような表現を聞く場面は多いです。

「ダメな方の手」

「動かない方の手」

このネガティブな表現は、麻痺側と非麻痺側を比較した結果として出てくる表現ではないでしょうか。

もしも急性期や亜急性期に関わるセラピストが麻痺側と非麻痺側の比較を促しているのであれば、麻痺側と非麻痺側の区別はセラピストが作っているものとも言えるのではないでしょうか。


行為の中での役割分担

もちろん、セラピストが促さなくても、ご自身で比較をしてしまうことはあると思います。

その結果、麻痺側の上下肢にネガティブな感情を抱いてしまうこともあるでしょう。

それは仕方のないことかもしれませんが、我々セラピストができることはないのでしょうか。

一つ提案したいのは、行為における左右上肢(下肢)の役割分担という視点を取得できるよう促すという介入です。

このためにセラピストは、次の点に気を付けて関わる必要があると考えています。

■麻痺側と非麻痺側の比較をしない

■麻痺自体を練習・改善の対象としない

■動作や行為を練習・改善の対象とし、その可否を話題の中心に据える

これらは全て、麻痺側を麻痺側として捉えないための工夫です。

もちろん麻痺はあります。これは逃れようのない事実です。

クライアント本人は「麻痺を治したい、良くしたい」と願っているでしょう。

それでもセラピストは、『麻痺』を対象とした練習を行うべきではなく、『動作・行為』を対象とすべきです。

これは決して麻痺の改善を目指さないということではありません。

麻痺の改善が目標なのではなく、麻痺が改善した結果の動作・行為が目標であるということです。


動作・行為を中心に据えた関わり

では、イメージしやすいように具体例を挙げておきたいと思います。

脳卒中により左片麻痺を呈した方がいたとします。

ご本人は「左手を動かせるようになりたい」と希望されています。

それはそうですよね。麻痺しているのですから。

私であれば、例えばこんな風に会話を続けるかと思います。

「動くように練習を進めましょう。左手が動くようになったら、どんなことをする必要があるのでしょうか?どんなことがしたいですか?」

色々な希望が出てくるでしょう。

書字の際に紙を押さえたい、食事の際に茶碗を持ちたい、調理の際に食材を押さえたい…

そして私は次のようなことを言って、練習を開始していくと思います。

「では、そのために左手はどんなことができないとならないのでしょうか?一緒に考えましょう」

実際にはこんなにスムーズにいかないことも多いかもしれませんが、大切なのは麻痺自体の改善を目的とするのではなく、動作・行為の獲得を目的としていくことです。

動作や行為には、必ず左右上肢(下肢)の役割があります。

利き手・非利き手があるように、左右の手を全く同じように動かす必要はないのです。

左右対称に動かす必要のある動作・行為も存在しますが、全く同じ動きをするということは稀です。

立ち上がりでさえ、左右下肢を完全に対称に動かしている人は少ないでしょう。

そもそも役割が違うのに、それを比較することにどんな意味があるのでしょうか?

もちろん、比較をすることはあります。

しかし、比較するにしても、動作や行為の中でそれぞれの役割があるということを前提として比較する必要があるのではないでしょうか。


まとめ

今回は麻痺側と非麻痺側を比較してはいけない理由について解説しました。

比較によって生まれるのは差異と類似であり、脳卒中者、特に発症直後の方は差異にばかり目が向いてしまいがちです。

そのような時期からセラピストが比較を促し、差異を顕在化させてしまえば、麻痺側の手(足)は動かないという意識を強化してしまう可能性があります。

これを防ぐ手段として、麻痺の改善自体を目的とするのではなく、その結果として可能になる動作・行為を目的とすべきである、というのが今回の提案です。

脳卒中発症直後に関わる医療者の発言は、非常に強い影響力を持ちます。

その影響は、退院後も数年に渡り続きます。

どうせ影響が続くのであれば、ポジティブな影響を与えられる発言・関わり方を心がけたいですよね。

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まじい@マジメな理学療法士・公認心理師
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