クライアントの物語に寄り添えていますか?
重い病にかかるということは、かつてその病む人の人生を導いていた「目的地の海図」を喪失するということである。病む人々は、「それまでとは違う考え方をする」ことを学ばなければならない。彼らは、自分自身がその物語を語るのを聴くことによって、他の人々の反応を吸収することによって、そして自らの物語が共有されるのを経験することによって学んでいく。(アーサー・W・フランク著:鈴木智之訳:傷ついた物語の語り手 身体・病い・倫理, P17, 2002)
この引用は、アーサー・フランクという医療社会学者の著書の冒頭に書かれたものです。
これは慢性疲労症候群を患った方の言葉についてのアーサー・フランクの考えですが、『重い病』にかかった経験というのは、それまでとそれからを分断してしまうような経験であるように思います。
我々医療者は、そのような方々と日々向き合う立場にありますが、こういった声にどれだけ耳を傾けられているでしょうか?
アーサー・フランクの言うように、『物語』を語るということがいかに必要なことであるのか、我々はどのように患者さん・利用者さんと関わるべきなのでしょうか。
理想的な関わり方は、寄り添うということだと考えています。
病者はどのような物語を語るのか
重い病にかかった方が語る物語について、アーサー・フランクは次のように分類しました。
●回復の語り
●混沌の語り
●探求の語り
重い病にかかると、次の日には、来週には、来月には病気が治っているのではないか、という希望を持ちます。
傷のついた体や風邪などが時間経過によって治癒していくのと同じように。
これが『回復の語り』です。
重い病ではそのような回復過程を辿れず、悩み、苦しむことになります。
そのときの混乱に満ちた、不安定な心理状態に起因する語り。
これが『混沌の語り』です。
そして、悩み、苦しみ抜いた後、新たな身体、新たな生き方、新たな生活を探求していく必要性に気づきます。それは苦しみと向き合うということになります。
これが『探求の語り』です。
ものすごく簡単に説明してしまったので、詳しくはぜひアーサー・フランクの著書をご覧いただきたいのですが、大まかにはこのような経過を辿るとされています。
このように分類して書いてしまうと非常に簡単に見えてしまいますが、このような物語を辿っていくのがどれほど苦しいことなのか、その苦悩を想像できるでしょうか?
想像することはできます。しかし、本当にはわかりません。
我々セラピストが関わる方の中には、少なからずこういった経験をされた方がいるはずです。
我々はそのような方とどのように関わるべきなのでしょうか?
「わかります」なんて簡単に言えない
病院や在宅で患者さん・利用者さんと関わっていると、その苦悩を吐露される場面は多いのではないでしょうか。
脳卒中により思ったように動かせない身体となった方
神経難病により、少しずつ動けなく恐怖と向き合う方
慢性的な疼痛を抱え、夜も満足に眠れない方
そんな方の苦悩をお聞きしたとき、どんな言葉をかけられますか?
「わかります、辛いですよね」なんて、私は絶対に言えません。
どなたか、どんな言葉をかけたら良いのかご存知でしたら、コメントで教えてください。
私は、聴くに徹することしかできません。
「そうなんですね」
「そんな気持ちだったのですね」
「そういうことで悩んでいるのですね」
私が言う言葉はこんなものです。
私たちは重い病にかかっていなければ、その方(患者さん・利用者さん)でもありません。
その方と同じ経験をできるわけがないのです。
物語を語ってもらうことに意味がある
私たち医療者は、重い病を患い、このような物語の中にいる方と、どのように関われば良いのでしょうか?
私は、アーサー・フランクの著書を読み、語ってもらうことに意味があると結論しています。
セラピストという立場で患者さん・利用者さんと関わる場合、一定の時間を二人きりで過ごすことができます。
入院中に毎日1時間も同じ時間を共有できる医療者なんて、他にいるでしょうか?
『リハビリ』と言ってしまうと、機能訓練や動作練習といった点に目が向いてしまいがちですが、『リハビリテーション』の本義に立ち返るのであれば、物語を語ってもらうというのはある意味で機能訓練や動作練習以上に重要なことなのではないでしょうか。
我々セラピストは、「この人にはこんなことも話して良いんだ」と思ってもらえて初めて、本当の意味での『リハビリテーション』に向かっていく手助けができるのではないでしょうか。
本当は、手助けなんかできないかもしれません。
しかし、話を聞きながら、寄り添うことくらいはできるのではないでしょうか。
障害受容はさせるものではない
「あの患者さんは障害受容ができていない」なんて言葉を耳にすることがあります。
『障害受容』って何のことなのでしょうか?
それは正直よくわからないのですが、このように医療者が言ってしまう、考えてしまう方というのは、アーサー・フランクの『回復の語り』の時期にいる方なのではないでしょうか。
自身の病いが治るという希望が捨てきれない。それを望んでいる。
このような様子を、その病いが治らないことを知っている医療者は「障害受容ができていない」なんて表現で言ったりするのではないでしょうか。
では、障害受容を促せば受容できるものなのでしょうか?
現実を突きつける?
その病気の医学的な知識を説明する?
そんなものが有効とは思えません。
もし『障害受容』というものがあるのだとしたら、それは病む人が自分でゆっくりと受容していくものなのではないでしょうか。
それは促されるものでも、誰かにしてもらうものでもありません。
自分自身で自分の身体や気持ちと向き合い、苦しみながら折り合いをつけていかなければなりません。
折り合いをつけると言っても、アーサー・フランクによる分類の最終段階が『探求の語り』であるように、生きている限りは探求は続けていかなければならないと考えられますが。
私たち医療者はそのことを理解し、その人に寄り添うという関わり方を常に意識すべきなのではないでしょうか。
まとめ
アーサー・フランクの著書を参考に、セラピストやその他の医療者が患者さん・利用者さんとどのように関わるべきなのかについて、考えてきました。
アーサー・フランクによると、『回復の語り』『混沌の語り』『探求の語り』という物語を辿るとされます。
その人の物語はその人だけのものであり、共有することはできません。
そして、医療者によって操作されたり、促されたりするようなものでもありません。
私たち医療者は、その人の物語を語ってもらい、その物語の脇役として寄り添いながら関わるということが必要なのではないでしょうか。
より深く学びたい方へ
冒頭でも引用した書籍です。是非読んでください。
『寄り添う』ということを考えると、こちらも参考になるのではないでしょうか。『居るつら』として有名な本ですね。
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