説明を省くということは、読み手を信頼しているということ
以前Twitter(現:X)で「久しぶりに小説を読んだら、読み手を信頼している文章だな~と感動した」という主旨の投稿を見かけ、ものすごく納得して、赤べこのように何度もうなずいてしまった。
これを読んでいる皆さんは普段どのくらい文章を書くだろうか。
仕事で必要な依頼文書、取引先に提出する書類、SNS、ブログ、創作活動などなど……書く内容も公開する場所もさまざまだが、そのすべてに「伝えたい」という思いは少なからず存在する。
以前勤めていた会社で、社外向けの資料を作る仕事をしていたのだが、これがとにかくくどい。もちろん、もっとシンプルに作りたいと考えてはいるのだ。だがしかし、なぜそれが出来ないか。それはひとえに「読み手を信頼していないから」だ。
さまざまな解釈ができてしまう文章はクレームに繋がりかねないので、とにかく「分かりやすさ」が求められる。読んで理解できることが書いてあれば、媒体を読んだ人からの問い合わせは少ないはずなのだ。
それと同時に、「書いていないから分からなかった」と言われるのを回避するために、ありとあらゆる場合を想定して説明文を書く。これが曲者なのである。
例えばドラマを見ていると、「このドラマはフィクションです」とか、「実話を元に再構成しています」などと表示されるだろう。
少し考えれば分かることでも、こうやって書いておかないと誰に何と突っ込まれるかわからんのだ。極端な話ではあるが、書いておけば「あんなのおかしい」とか「現実にはありえない」とか言われても「フィクションですって書いてありましたでしょ?」と言えるのである。
私が書いていた文章も、とにかくクレームやらお問い合わせやらがなくなるように、保険をかけにかけたものだった。すると何が起きるか。当然文章は長くなる。
活字中毒の方は別として、大量の文字列に読む気が失せてしまった経験がある人は多いのではなかろうか。そう、長い文章は読まれないのだ。どんなに保険をかけた文章であっても読まれなくては意味がない。
しかし、書かれている内容=自分の武器となり得るので、書かないという選択肢はない。「こちらに記載がございます通り……」と説明するためには、やはり書いておかなくてはいけないのである。
なぜそこまでするのか。こればかりはどのような内容を扱っているのかによると思うので一概には言えないが、私が携わっていたところでは「言ったもん勝ち」を避けるためというところが大きかったと思う。
テストを受ける時を想像すると分かりやすいかもしれない。
例えば、開始前に「机の上には置いて良いものは筆記用具のみです」と指示があったとする。“筆記用具”と言われて、何を想像するだろうか。テストなのだから、鉛筆やシャープペンシル、そして消しゴムといったところだろう。
では、それらが入った筆箱はどうだろうか。
とくに何も無ければ置いておいても問題ないかもしれない。しかし、もし筆箱の中にメモが入っていたらどうか。それはもしかしたらカンニングペーペーかもしれない。意図的にしろ偶然にしろ、それを試験中に見てしまったらそれは立派なカンニングである。
しかしこの時「筆記用具は置いて良いと言われたから置いておいた。メモは入っていたものを出し忘れただけ。」と主張されてしまっては、それ以上の追求のしようがない。
だからこそ試験監督は、誰かがトクしたり、損したりすることのないように「机の上に置いて良いものは、鉛筆、シャープペンシル、消しゴムのみです」などと細かく指示をしたり「疑わしい行為をした時点でカンニングとみなす」旨の注意喚起を行ったりする。試験監督は基本的に受験者を信用していないのだ。
これと同じことが、世に溢れるありとあらゆる説明書や注意書きの中で起きている。
それに比べて小説はどうか。
確かに、読み手を信頼してさまざまな説明を省略している節があるかもしれない。読者に想像してもらうための「余白」を残している、とも言えるだろう。
もちろん、説明的な文章が続く小説もある(推理小説なんかは細かく書いてくれないと訳が分からなくなる)し、そういった小説にも良さはあるが、私自身は「余白」の多い小説の方が好きだ。
特に心理描写なんかは、この時この人物はどういう気持ちでこの言葉を発したんだろう?と考えて、自分なりに人物を解釈していくのが楽しかったりする。
読者の想像力を信頼するのは、ある種リスクでもあるけれど、その分さまざまな解釈が生まれ、それぞれの物語ができていく。それってスゴくロマンだなと思う。
同じ文章を読んで、みんなが同じ情景を思い描ける文章もスゴいし、みんなが少しずつ違うことを考えさせられる心理描写もやっぱりスゴい。私はやっぱり小説が好きだ。
今の私は、物書きの端くれとして以前よりは自由に文章を書いているけれど、やはり「この部分をもう少し詳しく説明してください」と指摘が入ることがある。ごもっとも……と思うこともあるが、その説明はなくても想像で補えるのでは?と思えることも往々にしてある。
その度に、心の中の夏井いつき先生が「こんなことは言わんでも分かる!わざわざ〇文字使って説明するなんてもったいない!」と憤慨している。限られた文字数の中で何かを書かなければならない時、どれだけ説明を省けるかは死活問題なのだ。
その説明を省いたことでキレイにまとまったのに~~~~~!!!ここは読者の想像にお任せで良いだろ~~~~~!!!
という気持ちを抑えながら「承知いたしました」と言って文章を直す私。悲しき社会の歯車である。
私が書く文章は小説のそれとは訳が違うが、私は私の分野でロマンが詰まった文章を書けたら良いなと思う。精進、精進。
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