忌部氏と麻布、麻生、浅草、千葉県安房(あわ)との関係。 忌部氏の祖 フトダマの出自は? 松江市 忌部神社の天太玉命と橿原市忌部町の天太玉命神社。 クシヒカタと奈良県御所市の鴨都波神社
こんにちは。
トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。
今回は、謎の多い日本の古代氏族の忌部氏に関する一考察です。
忌部(いんべ)は、大化以前に設けられた部民の1つで、大きく分けて、朝廷に属する品部(ともべ = 職業集団)と中央の忌部氏の部曲(かきべ = 私有民)の2種類が存在しました。
朝廷の品部としての「忌部」は、出雲・紀伊・阿波・讃岐が代表的なものとして明らかとなっています。
『古語拾遺』では、天太玉命に従った5柱の神を「忌部五部神」として、各忌部の祖としています。
讃岐忌部とは?
讃岐忌部(さぬきいんべ)氏は、手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖神とする日本各地に分布する忌部氏の一族。
讃岐忌部氏は、矛竿の材料である竹を求めて、いまの香川県三豊市豊中町笠田竹田忌部の地に居を構え、そこを拠点として特に西讃(せいさん)地方を開発した。また、善通寺市大麻町の式内社「大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」という旨の記述が見え、大麻山(おおさやま)山麓部から平野部にかけて居住していたことがうかがえる。この開拓は、西讃より東讃(とうさん)に及んだものといわれている。
その他現在、香川県内にみられる神社や地名のうち、三豊市高瀬町の麻部(あさべ)神社、観音寺市の粟井(あわい)神社などの神社、高瀬町麻(あさ)、同町佐股(麻またの意味)、仲多度郡まんのう町佐文(さぶみ、麻分の意味)などの地名はその名残である。香川県神社誌(上巻)には、「東かがわ市引田町の誉田神社は忌部宿禰正國(いんべのすくねまさくに)の創始で、正國は旧大内郡の戸主であった。」との記録がある。
その後の讃岐忌部氏の足取りは定かではないが、高瀬町誌に「讃岐忌部氏は江戸時代の中ごろまで豊中町竹田字忌部にいたがその後、高瀬町上麻に転住し現在に至る」との記述がある。
【朝廷への貢物】讃岐忌部氏は、朝廷に毎年調庸(みつきもの)の他に800本の竿を貢じてきた。延喜式の臨時祭、桙(ほこ)木の条によると、「桙木1200本を讃岐国から毎年11月以前に進納する。」ともある。この朝貢は、崇徳天皇の時代(1123~1142年)まで続いた。
讃岐忌部に関係する神社
🔹手置帆負命(たおきほおいのみこと)を祀る香川県三豊市の忌部神社
モリヨシナリのプロフィール
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事。その後、香港、中国にて外資系商社の設立に参画し、副社長をへて顧問。その間、米国に2年、シンガポールに2年、中国に12年間滞在。
現在、Bizconsul Office 代表。ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。
・観光庁インバウンド研修認定講師
・四国遍路通訳ガイド協会 会員
・トリリンガル讃岐PRオフィサー
保有資格:
【英語:】全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点(L満点)、TESOL(英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級、他
【中国語】全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級、他
【ツーリズム】総合旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド(瀬戸内国際芸術祭2019公式ガイド)、他
忌部氏と安房地域、麻布、麻生、浅草(鷲神社)との関係は?
その他の忌部氏に関係がある地名は?
🔹忌部氏と千葉県安房(あわ)地域
忌部氏は、古代日本の有力氏族の一つで、神事や祭祀、特に麻(麻布)の生産や織物に関わっていたとされています。安房地域(現在の千葉県南部)は、古代には安房国として知られ、忌部氏との関係が非常に深い地域です。
天富命(あめのとみのみこと):忌部氏の祖神とされる天富命が、阿波国(あわこく: 現在の徳島県)から東国へ移住する際に、安房(あわ)に上陸し、麻を栽培したという伝承があります。これが安房(あわ)の地名の由来の一つとも言われています。
安房神社(あわじんじゃ):安房国の一宮であり、天富命を祀っています。忌部氏が深く関わっていた神社と考えられています。天富命は出雲の富家との関係を調査する必要があります。
このように、安房地域は忌部氏が東国へ進出する拠点の一つであり、その後の発展に大きな影響を与えた地域と言えるでしょう。
🔹忌部氏と麻布、麻生
「麻布(あざぶ)」や「麻生(あそう)」という地名は、麻の栽培や麻布の生産と関連があると考えられます。忌部氏が麻の生産に関わっていたことから、これらの地名も忌部氏との関連が指摘されています。
●麻布
麻布:現在の東京都港区の一部。江戸時代には武家屋敷などが置かれましたが、古くは麻の生産地であったと考えられます。「麻布(あざぶ)」という地名は、文字通り麻(あさ)の布、つまり麻布の生産と関連があると考えられます。忌部氏は、麻の栽培や麻布の生産に深く関わっていた氏族であるため、麻布という地名も忌部氏との関連が指摘されています。
麻の生産:忌部氏は、特に阿波忌部が麻の栽培を広めたとされており、その技術は各地に伝えられました。麻布も重要な生産物であり、朝廷への貢納品でもありました。
地名の由来:麻布の地名が、忌部氏によって直接命名されたという確証はありませんが、麻の生産地であったことから、忌部氏との繋がりが推測されています。
現在、麻布という地名で特に有名なのは東京都港区の麻布ですが、この地域は麻の生産地であったという歴史的な背景があります。
港区麻布の地名の由来
●麻生
麻生:麻生と言う地名は、各地に存在します。「麻生(あそう)」という地名は、麻の生産と関連があると考えられます。こちらも忌部氏との関連が指摘されています。
麻生氏:筑前国、豊前国の麻生氏の他、阿波忌部の系統の麻生氏があります。
地名の由来:麻生も麻布と同様に、麻の生産地であったことが地名の由来と考えられます。忌部氏が麻の生産に関わっていたことから、麻生という地名も忌部氏との繋がりが推測されています。
日本各地にある麻生と言う地名
「麻生(あそう/あさお)」という地名は、日本各地に存在します。麻の生産地であったことに由来する地名が多く、読み方も地域によって異なります。主な「麻生」という地名には下記のようなものがあります。
主な「麻生」という地名
神奈川県川崎市麻生区(あさおく):
川崎市の北西部に位置し、多摩丘陵の一部を占める自然豊かな地域です。
「あさお」と読みます。
鎌倉時代には「麻生郷」という地名が見られ、古くから麻の生産が行われていたことが地名の由来とされています。
日本最古の甘柿「禅寺丸柿」の発見地としても知られています。
新百合ヶ丘を中心とした芸術文化活動が盛んです。
福岡県飯塚市麻生(あそう):
麻生太郎氏の出身地として有名です。
「あそう」と読みます。
麻生氏は、この地を拠点とした豪族で、炭鉱業などで発展しました。
麻生氏と忌部氏との関連を指摘する説もありますが、定説には至っていません。
北海道札幌市北区麻生町(あさぶちょう):
「あさぶ」と読むのが正式ですが、地元では「あざぶ」と呼ばれることが多いです。
かつて帝国製麻琴似工場があったことから、この地名が付けられました。
地下鉄麻生駅を中心とした地域として知られています。
その他: 上記以外にも、小規模な集落名や字名として「麻生」という地名は日本各地に存在します。例えば、茨城県や栃木県などにも見られます。これらの地名も、かつて麻の栽培が行われていたことに由来する可能性が高いです。
地名の読み方について
「麻生」の読み方は、「あそう」と「あさお」が一般的です。北海道札幌市の「麻生町」のように、「あさぶ」と読む場合もあります。どの読み方が正しいというわけではなく、地域によって慣習的に使われている読み方が異なります。
🔹麻生氏
🔹忌部氏と浅草(鷲神社)
浅草の鷲神社は、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀っています。天日鷲命は、忌部氏の祖神である天富命と同一視されることもあります。そのため、鷲神社も忌部氏と関連があると考えられています。
酉の市:鷲神社で行われる酉の市は、商売繁盛の神様として知られていますが、元々は農作物の収穫祭だったと考えられます。麻の収穫も重要な要素だった可能性があり、忌部氏との関連を示唆しています。
🔹鷲神社とは?
🔹阿波忌部ゆかりの浅草の「鷲神社」(祭神・天日鷲命)
●浅草の地名の由来
浅草の地名の由来には諸説ありますが、主なものは下記です。
地形説: 武蔵野台地において、比較的草の丈が低い場所であったため「浅草」と呼ばれるようになったという説です。『江戸砂子』という江戸時代の地誌にも同様の記述があります。これは、武蔵野の深い草むらに対して、隅田川に近い浅い草むらの土地であったという地形的な特徴から名付けられたとする説です。
植物名説: かつてこの地に麻(あさ)や藜(あかざ)などの植物が多く生えていたことから、それぞれ「麻草(あさくさ)」、「藜草(あかざくさ)」が転じて「浅草」になったという説です。
🔹その他の忌部氏に関係がある地名
上記以外にも、忌部氏に関係があるとされる地名はいくつかあります。
忌部(いんべ):日本各地に「忌部」という地名が残っています。これは、忌部氏が居住していた、または関わっていた場所と考えられます。
太布(たふ):「太布」は麻布の古名です。この地名も麻との関連から忌部氏との繋がりが考えられます。
斎部(いんべ/さいべ):忌部氏の別表記である「斎部」を含む地名も、忌部氏との関連が考えられます。
これらの地名は、忌部氏の足跡を辿る上で重要な手がかりとなります。
主な忌部(部民)の後裔
織田氏(桓武平氏を称するが、その祖である平親真は忌部氏という説がある)
玉作氏(出雲忌部)
麻殖氏(社家、阿波忌部)
麻生氏(阿波忌部)
早雲氏(阿波忌部)
三木家(阿波忌部直系本家・現在でも天皇陛下即位の際、大嘗祭に麁服を調進している)。
元首相の三木武夫さん、元官房長官 後藤田正晴さん、徳島県知事の後藤田正純さんは阿波忌部氏の系統。
忌部氏の出自は?
忌部氏の出自は、日本の古代史において謎の多いテーマで、複数の文献で語られています。ここでは、主な出典と内容を説明します。
🔹主な出典
忌部氏の出自について書かれた主な出典は以下の通りです。
『古事記』
『日本書紀』
『古語拾遺』
これらは、日本の古代史を記した文献であり、忌部氏の出自や役割についても記述があります。
🔹各出典における記述
それぞれの出典における忌部氏の出自に関する記述を見ていきます。
『古事記』『日本書紀』
天岩戸神話:『古事記』『日本書紀』ともに、天岩戸神話において、天照大神が天岩戸に隠れた際に、天太玉命(あめのふとだまのみこと)が祭祀を行ったことが記されています。この天太玉命が、忌部氏の祖神とされています。
天孫降臨:天孫降臨の際にも、天太玉命は天児屋命(あめのこやねのみこと、中臣氏の祖)とともに天降ったとされています。
これらの記述から、忌部氏は古代から祭祀に深く関わっていた氏族であることがわかります。
『古語拾遺』
天太玉命と五部神:『古語拾遺』では、天太玉命に従った五柱の神を「忌部五部神」として、各忌部の祖としています。
天目一箇命(あめのまひとつのみこと):伊勢忌部の祖。刀斧の貢納を役割としています。
その他、山城忌部、讃岐忌部、阿波忌部などの祖神が記されています。
天富命(あめのとみのみこと):『古語拾遺』では、天富命が阿波国(現在の徳島県)に降り立ち、麻を植えたことが記されています。このことから、阿波忌部と麻の関わりが示唆されています。
🔹忌部氏の出自に関する解釈
これらの出典から、忌部氏の出自について以下のように解釈できます。
天太玉命を祖とする祭祀氏族:忌部氏は、天太玉命を祖とする、古代から祭祀を司ってきた氏族であると考えられます。
各地に展開:『古語拾遺』に見られるように、各地に忌部が存在し、それぞれ役割を担っていたことがわかります。
麻との関わり:阿波忌部を中心に、麻の栽培や麻布の生産と深い関わりがあったと考えられます。
🔹忌部と言う名称と中臣氏
「忌部」という名称は、「穢(けがれ)を忌(い)む」という意味を持ち、神聖な儀式に携わる人々を指していたと考えられます。
忌部氏は、大化の改新以降、中臣氏(後の藤原氏)が台頭するにつれて、朝廷における祭祀の中心的な役割を譲っていったとされています。
忌部氏の出自は、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などの文献に記されており、天太玉命を祖とする祭祀氏族であることがわかります。各地に展開し、麻との関わりも深い氏族でした。
忌部氏の系統は? 中央忌部と他の忌部氏
忌部氏は、古代日本の祭祀を担った氏族であり、複数の系統が存在します。
中央忌部とその他の忌部氏について考察します。
🔹忌部氏の祖神と系統
忌部氏は、大きく分けて以下の祖神を持つ系統に分類されます。
天太玉命(あめのふとだまのみこと):中央忌部(大和忌部)の祖神。
天日鷲命(あめのひわしのみこと):阿波忌部の祖神。
手置帆負命(たおきほおいのみこと):讃岐忌部の祖神。
彦狭知命(ひこさしりのみこと):紀伊忌部の祖神。
これらのうち、天太玉命を祖とする系統が、朝廷における祭祀の中心的な役割を担っていたことから、「中央忌部」と呼ばれています。
🔹中央忌部(大和忌部)
奈良県橿原市忌部町にある天太玉命神社
本拠地:大和国高市郡忌部(現在の奈良県橿原市忌部町)
役割:朝廷における祭祀全般を司る。特に、大嘗祭などの重要な儀式に関わりました。
特徴:『古事記』『日本書紀』において、天岩戸神話や天孫降臨に登場する天太玉命を祖とすることで、その由緒を強調しています。
氏姓:忌部首(いんべのおびと)→忌部連(いんべのむらじ)→忌部宿禰(いんべのすくね)→斎部宿禰(いんべのすくね/さいべのすくね)と変化しました。延暦22年(803年)に「斎部」に改姓しています。
🔹その他の忌部氏
中央忌部以外にも、各地に忌部氏が存在し、それぞれ地域の祭祀や産業に関わっていました。主なものを以下に挙げます。
●阿波忌部:
阿波国(現在の徳島県)に拠点を持ち、麻の栽培や麻布の生産に関わりました。天日鷲命を祖神としています。
大麻比古神社(徳島県鳴門市)
は、阿波忌部と関わりの深い神社です。祭神は大麻比古命と出雲族と関係の深い猿田彦大神
猿田彦大神
大麻比古神社の社紋
六芒星
長篠の戦い。忌部氏
出雲大社に神紋
●讃岐忌部:
讃岐国(現在の香川県)に拠点を持ち、祭具の矛竿作りに関わったとされています。
手置帆負命
を祖神としています。
●古語拾遺(807年)の「天中の三神と氏祖系譜」条に、太玉命(ふとたまのみこと)が率いた神の1つとして、「手置帆負命(讃岐国の忌部が祖なり。)」とあり、この「手置」とは「手を置いて物を計量する」意味と解釈されている。また、同書「造殿祭具の斎部」条には、「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」とあり、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していた。このことから竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説がある。
●紀伊忌部:
紀伊国(現在の和歌山県)に拠点を持ち、木材や船の建造に関わったとされています。彦狭知命を祖神としています。
●伊勢忌部:
伊勢神宮の祭祀に関わった忌部氏も存在します。天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祖神とする説があります。
これらの地方の忌部氏は、中央忌部とは異なる祖神を持つ場合もありますが、いずれも古代の祭祀や生産活動に深く関わっていたという共通点があります。
🔹中央忌部と地方忌部の関係
中央忌部は、朝廷における祭祀の中心的な役割を担っていたため、地方の忌部氏を統括する立場にあったと考えられます。しかし、地方の忌部氏も独自の活動を行っており、必ずしも中央忌部の支配下にあったわけではないようです。
忌部氏は、天太玉命を祖とする中央忌部と、天日鷲命、手置帆負命、彦狭知命などを祖とする地方の忌部氏に分けることができます。
中央忌部は朝廷の祭祀を司り、地方の忌部氏は各地の祭祀や産業に関わりました。これらの忌部氏は、古代日本の社会において重要な役割を果たしていました。
出雲口伝に伝わる忌部氏の祖 天太玉の出自
出雲の旧家 富家に伝わる出雲口伝によると、忌部氏の祖 天太玉(フトダマ)は出雲の玉造だった。出雲王家の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担っていた。天太玉は、富家の分家にあたる。
●天太玉が住んでいた島根県松江市東忌部町にある忌部神社
東出雲王家の事代主の息子であるクシヒカタは父の死後、大和の葛城に移住を決めた際、太玉(天太玉命)を一緒に連れて行くことにした。
出雲王国のクシヒカタとフトダマが葛城へ移住した背景: 出雲王国へやってきた徐福一派は、出雲王国の8代主王の大国主と副王の事代主を暗殺した。その痛ましい出来事の為、徐福一派を忌み嫌い、大和への移住を決めたクシヒカタの一族は大和では葛城一帯に住んだ。出雲王家の親戚であった太玉を、自分の片腕として連れて行った。
●出雲口伝と徐福
●天太玉が拠点とした奈良県橿原市忌部町の天太玉命神社
●クシヒカタ一族が奈良県御所市に建てた鴨都波神社と葛城一言主神社。 祭神はクシヒカタの父 事代主。
●クシヒカタ(天日方奇日方命、鴨王)とは?
●ヤマト王権に従わなかった古代豪族 土蜘蛛の正体とは? 鬼、蝦夷、毛人、熊襲、隼人、温羅、名草戸畔、出雲族! 葛城一言主神社の蜘蛛塚と高天彦神社近くにある蜘蛛窟とは?
葛城で勢力を伸ばした忌部氏のその後と阿波忌部 三木家のアラタエ
葛城で勢力を伸ばした忌部氏は、大和朝廷では中臣氏と並んで宮中の祭祀を執り行うようになっていった。
そして、忌部氏が本拠地としたのが奈良県橿原市忌部町に鎮座する天太玉命神社だった。
出雲口伝によると、磯城王朝時代においても忌部氏は大王家の宮中祭祀を営むようになり、絶大な勢力を手にした。
忌部族の一部は「品部」として地方に渡り、それぞれ宮中祭祀に欠かせない貢納品を納めるようになった。
その地方忌部の祖神が上述した忌部五部神となる。
出雲忌部(島根)は玉
阿波忌部(徳島)は麻・木綿(ゆう)
紀伊忌部(和歌山)は宮殿の木材
讃岐忌部(香川)は竹や盾
筑紫と伊勢忌部(福岡・三重)は鉄
を朝廷に納めた。
その他にも越前(福井)、淡路(兵庫)、備前(岡山)、隠岐島(島根)、安房(千葉)などにも忌部氏はいた。
その中で、阿波忌部氏末裔の三木家は、現在も天皇の代替わりの際に執り行われる大嘗祭に麁服(アラタエ)を貢進する役目を担っている。
奈良時代以降になると、中臣氏の勢力が拡大し、忌部氏は宮中祭祀から排除されてしまった。。。
阿波忌部直系の三木家。大嘗祭の麁服(あらたえ)調進準備 三木信夫さん
織田信長のルーツは忌部氏で福井県の劔(つるぎ)神社の神官だった! 先祖の平親真は忌部親澄の実子! 信長は劔神社を氏神として崇敬し神領を寄進! 長篠合戦図屏風に信長と六芒星の着物を着た忌部氏が描かれている!
【古代阿波】前方後円墳の原型が阿波で発見! 萩原墳墓群、愛宕山古墳の被葬者は? 阿波国造 粟凡直(あわのおおしのあたい)一族とは? 天皇家に麻の織物(アラタエ)を調進する阿波忌部当主 三木信夫氏のインタビュー!
記紀とは異なる日本の成り立ち。 ヤマト王権が誕生した経緯と歴史。 縄文時代に渡来してきた民族の口伝を紐解く
以上