親族がコロナワクチン接種を決めた話
70代で2人暮らしの義理の父母。ちょっと前までは2人とも「ワクチンをできるだけ早く打ちたい派」だった。予約のために何度も電話して、つながらないからスマホで慣れないQRコード読み込んでネットから予約しようともしてた。
自分たち夫婦とあともう一人義理の兄は「ワクチン慎重にならんとやばくない?」派。自分たちで情報をできるだけ広く集めてそう考えるに至った。テレビの作り出す波にただ乗っかっているように見える父母がいち早く打ちたがることは目に見えていたから、数か月かけて少しずつワクチンの危険性について伝えてきていた。
ただ、ビル・ゲイツとかイベント201とかプランデミック系の話はあえてしていない。
noteで人気の中村篤史医師の話もしていない。
それらは父母の常識からはあまりにもかけ離れた話で、「ネットのばかげた陰謀論」として真に受けてもらえないことがわかりきっていたからだ。ぼくらだってこういった情報に初めは戸惑った。でも時間をかけて情報を集め、主流メディアの矛盾に気付き、ではどう考えるのが妥当なのかを自分の頭で考え続けて「ワクチンやばくね?」派になったわけである。70年以上メディアを信じてきた父母にそれを疑うことを伝えるのは相当難しいことははじめから覚悟していた。
だからできるだけシンプルにわかりやすくを心掛けて、「開発期間が短い」「治験が終わってない」そして「コロナの死者はインフルエンザよりも少ないから、焦って打つよりも今は様子を見るほうが得策」といったことを重点的に繰り返し伝えた。
父は働いていた頃結構出世した人でもあった。政治や社会情勢の話をするのも好きで、父なりの考えを持っている人だ。普段離れて暮らしているが、一度ワクチンに関して直接話せる機会があった。ぼくの話にはことごとく「でも~~だから」と反論していた。自分は知識と経験がある、判断を間違わない自信がある、という感じに見受けられた。ただ、ぼくからするとフェイクメディアの論調を鵜呑みにしているだけに見えて、父独自の考えというものはそこには感じられなかった。
母は「周りがみんな打つんだから打つ」というような感じだった。でも素直にこちらの話を聞いてくれる面もあった。ずっと打つ打つ言っていた母から、ある時突然やっぱりやめたと連絡があった。週刊誌の見出しで接種後39人死亡というのを見て怖くなったという。それから、こんなに子供たちに心配かけてまで打つこともないと思った、とも言っていた。
母はそんな感じで辞めた。
父は変わらず打つことに決めているようだ。こちらの話を信用してもらえなかったふがいなさを感じているし、改めてメディアの影響力を思い知った。父はワクチンの危険性を知らないわけではない。ぼくらは伝えたのだから。でも父は打つことを選んだ。結局ぼくらよりメディアを信じているんだ。打つことを辞めた母も、きっかけはメディアだった。
メディアの力は巨大だ。家族が言うことよりもテレビが言うことを信頼している人はきっと多いだろう。
専門家が言ってるから、芸能人がそろって言ってるから、それも大声で、、、。信じる心理はよくわかる。
でもちょっと思い出してほしい。日本でもほんの数世代前には大本営発表ってのがあったんだ。国家ぐるみで、メディアぐるみで本当のことを隠して嘘ついてたんだ。そんなことは当たり前にあり得ることなんだ。今は一見平和に見えるかもしれないけど、そういう醜さをはらんでいるのが人の世なんだ。歴史を見ればそれは否定できないはずだ。
確かに技術は進歩したし暮らしも豊かになったかもしれない。でも今の社会が過去と比較にならないほどまともだって本当に言えるだろうか?権力を持っている人たちが全て本当に一般人の幸せだけを考えて働いてるって言えるだろうか?過去を見て大きい声だから従うんじゃなくて大きい声こそ疑うべきだってことを忘れてないだろうか?
話をもどすと、ワクチン打つ・打たないに関しては個人の自由。だからぼくは父の決断は受け入れるしかない。でももし国家が、メディアが、専門家が、製薬会社が、個人が決断する上で重要なことを隠しているとしたら、嘘をつき判断を操作しているとしたら、それは許されない犯罪だ。ぼくは今の時期に政府がメディアが専門家と呼ばれる人たちが何を言ってきたかを忘れない。未来が過去を証明することを待つ。
数か月後、数年後、あるいは数十年後、ここに書いたことを読み返すとしたら、その時ぼくはどんな思いでいるんだろうか。未来はわからない。過去から学び、今できることをするだけだ。ただ、ここ日本でも大規模接種が始まった今、10年後に振り返っても納得のできる決断を一人ひとりができていることを願っている。