キャリコン的映画レビュー『落下の解剖学』
サスペンス感満載な冒頭、しかもスタイリッシュな映像でテンポも良くグッと引き込まれる。「暗くなるまで待って」みたいな感じなのかな〜と思いきや、、、、
サスペンスものから、法廷劇になり、それもスッキリするというよりは、審議が進むにつれて事態は混沌としてゆく、不受理にすら感じられる世界。夫婦の感情のぶつけ合いも本音なのか、フェイクなのか、あるいは罠なのか。「マリッジストーリー」とか「ブルー・バレンタイン」の影響も感じさせるがあちらの方は本音vs本音という形なので、強烈にお互いやなことを言うけどもそこには本当の感情の剥き出しがあると思う。
あと、似た印象は「羅生門」かな。
しかしこの「落下の解剖学」は本音vs本音で夫婦喧嘩しているようにも見えるが、一方では相手をあえて感情的にさせる罠のようにも見えるし、互いに小説のネタを探すように破天荒を演じているのかもしれない。本作がスッキリしない点でもあり、面白さでもある。個人的にはこの混沌ぶりは好き。
やっぱ夫婦が作家というのが重要なポイントだと思う。作家という人種は全てのものがネタに見えるのだろう(作家になったことがないので想像だけど)林芙美子の「放浪記」とか無頼派私小説作家なんか、人生をネタに小説を書くのか、小説を書くためにネタを作りに行っているのかどっちもありなような感じもある。おそらく本作のサンドラ(ザンドラ・ヒューラー)は、夫の死については自分で殺したにしても、事故死にしても、自殺にしても、感情はもちろんあるけども同時に、あ、これネタになるっていう意識も働いちゃうんじゃないかな。作家の性として。それは夫の側もそうだ、夫婦喧嘩にしても、下手したら自分の死すらネタにするような業がある。妻の方が売れっ子なわけで焦りもあっただろう。
だからこの映画は作家にとってネタとは何か?という作家論としても見ることができると思う。作家の性という点では映画では上記の「放浪記」とか「裸のランチ」も、妻を銃殺することが小説のネタになるのであり、殺したくないのだけど妻を殺す世界線からは逃れられない状況を描いていた
。
でもサンドラの息子への愛情、犬への愛情だけはネタのためではなく本物である。そこはほっとするところ。この曖昧な状況をうまくシナリオに落とし込んでいるので飽きない
ラストで息子がある決断をする、真実、エビデンス、気持ち、信念、感情などなどある現象を説明するのに様相は一つじゃないのよね、、、エビデンスだけでグイグイ行けるものばかりではない
キャリコン視点で言うと、複雑な様相を単純化せず複雑なまま受容することが大事だと思う。人というものは兎角結論を出したがるし真実を近道で知りたがるんだけども真実を知ることよりもそれにまつわる様相を真っ直ぐ見ることが大事だと思う。
そんなことを感じました
ではでは