夏の終わりと秋の始まりの狭間で
旦那の父である じいちゃんの家は、雲より高い山の上にある。
私はじいちゃんちにいる間、自分の住む土地のことを「下界」と呼んでいる。9月とはいえまだ暑いけど、じいちゃんちは下界よりだいぶ涼しい。
ほんの少しだけ秋の匂いが部屋の中に入ってきたような気がしたが、すぐに扇風機の風が外へ追いやってしまった。
娘は1歳を過ぎ、日に日に転ぶ回数が減ってきた。
じいちゃんの家はいわゆる古民家で、畳の部屋が襖を隔てていくつも並んでおり、周回できる作りになっている。
襖を開け放すとだだっぴろい和室が出来上がる。
障害物もなく、転んでもフローリングほど痛くないため、歩行練習にうってつけだ。
あちこちから通り抜ける風が心地よく、聞こえる音といえば鳥の鳴き声と池に流れる湧水の音だけ。
はあ〜、気持ちいい。私も遠慮なく、大の字で寝そべった。
シーリングライトやダウンライトが主流の今、紐を引っ張って灯す電球なんて、もうほとんど見る機会がないのでは。
子どもの頃、この紐の先に、薬局で貰ったケロちゃんの指人形をくっつけて揺らし、ボクシングの真似をして遊んだのが懐かしい。
じいちゃん、今日は池の掃除をするらしく、せっせと隣の池へ鯉を運び入れていた。
10匹の色とりどりの鯉が、次々に池に放り込まれていく。
その様子を子ども達が見守っている。縁側に並んで腰掛ける小さな背中がなんとも愛らしく、鯉の動きに合わせて、首が左右に振られるのが面白い。
息子が「うわぁ!散ったよぉ!」と騒ぐので見てみると、池の水が数滴、おでことほっぺを濡らしていた。
大笑いする私達とは反対に、彼は真剣な顔のまま、洋服の首元でゴシゴシと水滴を拭い、また鯉に目をやる。
娘はというと、いつの間にか鯉ではなく、兄が手に持つミカンを見つめていた。
ちなみに娘はすでに、丸々一個を食べ終えている。まだ満腹中枢が未発達なのか、食べても食べても欲しくなるようだ。
長いこと兄のミカンを見つめていたが、見つめるだけではありつけないと悟ったのか、ついに「あーあ!(ミカンちょうだい)」と、おねだり。
私なら「や〜んかわいい!いくらでもあげる!!!」となるところだが、兄は辛辣である。「やーだよ!」と即答したうえに、わざわざプイッとそっぽを向いてしまった。
それを見た娘はわかりやすく絶望し、おでこを床に突っ伏して大泣き。
ミカンを分けてもらえないだけでこんなに絶望するなんて、本当に人生1年目なんだなと感心する。
見かねて新しいミカンを剥いて渡すと、ぴたりと泣き止んで黙々と食べ始めた。子どもの切り替えの早さってすごいよね。
絶望に達するラインが低いけど立ち直りが早い子どもと、絶望に達するラインは高い代わりに、なかなか立ち直れない大人。それぞれに大変だな。
喉が渇いたけれど土間まで戻るのが面倒くさく、私も一粒ミカンを頬張ってみた。まだ、かなり酸っぱい。
じいちゃんちにはエアコンがない。じんわり汗もかいてきた。
やっぱり秋はもう少し先かな。