「われら闇より天を見る」クリス・ウィタカー(2022)―From End To End―
今回読んだ本
クリス・ウィタカー(2022) 「われら闇より天を見る」
原題は、「We begin at the end」。終わりからすべてが始まるのさと本書の中でも主要な人物が繰り返しこの言葉を述べている。
人生お先真っ暗などん底の生活の中でもがき苦しみながらも一筋の光を求めて手を伸ばすという本書の本筋にも通じる部分とみると、本書のタイトルは良くできているなと思う。
直訳するのではなく本筋をバシッと一言でカッコよく示すならまさにこれであろう。
本書のあらすじは、アメリカはカリフォルニア州のケープ・ヘイヴンを舞台に、30年前にひとりの少女の命が失われた事件から立ち直れない人々が、光を求めてもがき苦しむ様を描く群像劇である。
主人公は、自称無法者の少女ダッチェス。事件から立ち直れずにいる母親スターと、弟のロビンとで貧乏暮らしをしている。
30年前の少女―シシー。主人公の母親の姉―は、不運な事故で亡くなるのだが、事故を起こしたヴィンセントースターの元恋人ーは30年の刑期を経て、ケープヘイブンに戻ってくるというところから物語は幕を開けていく。
視点を主人公のダッチェス、そしてヴィンセントの親友であり、警察署長でもあるウォークとで交互に切り替え物語を展開していく。
ある事件をきっかけにどんどん「終わり」に向かっていくダッチェス。親友を救うため精神を追い詰めながら奔走するウォーク。
終わりのページに向かっていく中でどんどん悲劇的状況に突入していく主人公たちに本当に光が差し込まれるのかと思うほどに彼女らは「終わり」に向かっていくのだ。
本書のテーマは、「人生の終わりを自らで選択してく」ということになるだろうか。
人生の始まりー性別。親。国家など環境ーは、自身で選択不可能なものである。一方で人生をどのように進めていくか、そして終わらせるかというのは自分自身で選択可能なものである。
本書での終わりは、人生の終着点である死という意味合いではなく、過去の事件などこれまでに選択してきたことへの区別という意味合いであると思う。
過去に向き合い、今を生きることで未来に何を残せるのかというテーマとしては明るいものであるといえる。
その一方で、どん底ともいえる状況からスタートしてそこからもまだまだ落ちていく主人公たちの様を見るのは涙なしではいられない。
それぞれのキャラクターたちが、過去の事件にどう向き合い何を残していくかを少しずつつまびらかにしていくとともに、ストーリーが前進していくため、どんどんページをめくるスピードが上がってくるそんな作品である。
海外翻訳ものは、文体なのか訳され方の問題なのか読み進めるのにパワーが必要なものが多いように感じる。国内ドラマと海外ドラマとの違いというか、ある程度鑑賞の慣れが必要な部分があると思う。
ただ、本書はそれに限らず読みやすい作品と感じる。十代の少女を主人公に添えて、40代の警察署長との視点切り替えていくことでテンポよく主人公たち含め町がどう揺れ動いていくかが、鮮明に読者が捉えられるようになっている。
Netfixあたりが長編ドラマとして制作すれば結構ヒットするのではと思う作品である。
おわりに
どんどん終わっていく主人公たちの状況を見て、どのような終わらせ方をするのだろうと読み進めていく中で考えていた。
終わり良ければすべて良しという言葉もあるが、単純に事件解決。みんながハッピーという終わり方も味気ない。
小説や映画、ドラマにおける物語とは、「連続した時間軸をある視点(たち)から見たスナップショット」と個人的には考えている。
どういうことかというと、小説や映画などはある時点で終わりを迎えるが、キャラクターの人生や物語自体はそこからも続いてくということである。 そこからも人生が続いていき、彼・彼女らがどのような生き方をしていくのだろうかと余韻に浸らせてくれるそんな奥行き感のある作品が、個人的に好きである。
そのため、本書はそういった終わり方をしてくれて本当に良かったと感じる。