「言わなくてもわかる」ことは言うべき?言わないべき?
日本は「察しの文化」とよく言われます。
また、「高コンテクスト文化」とも言われます。
どちらも、現れた言葉以外の部分が重要となる文化です。
要は「言わなくてもわかる」ことは言わない、先回りすることが多い日本社会ではありますが、親をやっていて、そして教員をやっていて、「言わなくてもわかる」けど「言える」ようにもなってほしいなと最近思うのです。
「察しの文化」とは
「察しの文化」は、読んで字のごとしですが、皆まで言わず察することを求められる、期待する文化です。
例えば、友達の家に行き、暑いのでエアコンを付けてほしい時、「エアコン付けて」とは言いにくいので「ちょっと暑くない?」などと言うことで相手に自分の意図を察してもらう、といった具合です。
これは日本語を見ても言えることで、日本語では基本的にお互いがわかっていることについてはあえて言わない、という性質があります。
例えば次のような文を見てください。
A:私は買い物に行きたいんだけど、あなたも私と一緒に買い物に行かない?
B:私もあなたと一緒に買い物に行きたいと思ってたから、私と行こう。
一見して、かなり不自然だと感じる方が多いと思います。
これは、次のように省略することが可能です。
A:買い物に行きたいんだけど、一緒に行かない?
B:私も行きたいと思ってた。
こうすると、かなり自然な会話に見えると思います。
ここで省略されているのは「私」や「あなた」、そして既に出ている情報です。
日本語では、意志や感情は「私」となるため、主語の省略が普通です。
つまり、「食べる!」と言えば、「(私は)食べる!」となるし、「嬉しい」と言えば「(私は)嬉しい」であるわけです。
また、日本語では、基本的に旧情報は繰り返しません。
繰り返すことは、時に裏の意味を匂わせることもあります。
例えば次のような例です。
A:昨日、〇〇のドラマ見た?
B:見なかった。
B’:昨日見なかった。
B’:〇〇のドラマ見なかった。
Bの場合は見たかどうかに対する新情報「見なかった」のみで自然ですが、2つのB'は他に言いたいことがありそうな空気が流れます。
つまり、「昨日見なかった」けど「今日は見た」、「〇〇のドラマ」は見なかったけど他のドラマは見た、というように。
「高コンテクスト文化」とは
「高コンテクスト文化」も基本的には同じことです。
つまり、わかっていることは言葉にはしない。
それで、長年連れ添った夫婦なんかには以下のような会話も可能となります。
夫:(食事中に)あれ、取って。
妻:はい(と醤油を差し出す)。
夫がいつもある料理には醤油を使う、ということを妻が知っているからこそ、具体的な言葉を出さずともコミュニケーションが成り立つわけです。
逆に言えば、日本では言わなくてもいいことをわざわざはっきりと言うのは美徳と取られない場合も多く、明快な主張をする欧米人と比べて批判されることもあります。
反対に、留学生にはここのところをうまく伝えないとミスコミュニケーションを引き起こす可能性もあります。
「言わなくてもわかる」ことをどう教えていくか
しかし、親になってみて改めてこの「言わなくてもわかること」はどう教えていくべきか、ということを考えます。
子供の欲しいものや、今してほしいことは何となくわかるものです。
言葉がまだ出てこない時期でさえ、コミュニケーションはできるものなのです。
でも、2歳3か月の次男ボンちゃんは長男ギーくんと比べても言葉が遅く、だんだん心配になってきました。
その原因を考えてみると、私を含め周囲の大人が察し過ぎてしまって、言葉の必要性がないために言葉が遅いのではという仮説に至りました。
2人目ということで、ギーくんの時の経験もあって子供についてはだいぶ慣れてきている私たち。ギーくんの時は、なぜ泣いているのか、なぜ不機嫌なのか、何にこだわるのかなど予想もしないことが多くて、お互いコミュニケーションも今思えば必死でした。
だからなのかわかりませんが、ギーくんは割と言葉が早く、しかもかなりはっきりしていたのです。
一方、ボンちゃんは、何やら解読不能の文を延々としゃべっていて、共通認識の語が非常に少ないのです。
あ、これは私たちが先回りしすぎたのかも、といささか反省しているわけです。
5歳の長男ギーくんも、ものの頼み方や伝え方が日本的になってきたなと最近感じます。
飲み物をおかわりしたい時、「牛乳、もうなーい!」と言ったり、空っぽのコップを見せたり指さしたり。
でも、小学校入学も控えていて、言わなければわからないこともあるんじゃないかと「『おかわり』でしょ?」と、なるべく言葉で伝えるよう何となく誘導してはいるのですが。
それでなくとも、家以外ではあまり自分の意見を言えてなさそうなので、これも私たちが察し過ぎたか!?と思ってしまっています。
大学生はもっと「伝える」努力を
話は変わりますが、最近の大学生にもこの「察され習慣」は残ってしまっているように思うのです。
前にも上の記事でメールについて書きましたが、言わなくても(書かなくても)わかることも、言って(書いて)ほしいことがたくさんあるのです。
最近は、こうした説明や言い訳をしなさすぎている学生が多い気がします。
「先生は言わなくてもわかっているはずだから、今更言っても・・・」とか、「わかっててこの評価なんだからどうにもならないだろう」というふうにすぐに諦めてしまっているようにも見えます。
もっと自分に自信を持って、すべき主張はしてほしいと思うのです。
もちろん、驕ったり筋違いの主張をすることはやめてほしいと思いますが、一生懸命やったことであればそれができるはずだし、もっとガツガツしてほしいと思います。
それができないのは、持てる力を出さなかったのかな、手を抜いたのかな、と感じてしまう教員は私だけではないはず。
「察しの文化」は素晴らしい一面だし、こうした他人への配慮はこれからも失わないでほしいと思う一方で、「伝える努力」はもっともっとしてほしいなと思います。
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