【適応障害回顧録】7冊目の日記① もはやうつ病で変わった私にふるさとはなかった
~転勤した北海道で適応障害、うつ病を患い、パワハラ隠しに遭い、医療過疎の地域で療養していた私だったが休職と本社への人事異動が発令されることになり、東京へ戻るまで残り2ヶ月ほどとなっていた。事前の準備も兼ねて年末年始に東京へ戻った私は環境の変化というストレスに直面する。もはや私に安心できるふるさとはなかった。本社へ戻りたいと思っているのか自問自答する日々であった。~
1月1日(精神医療に薬はいらない?)
23時就寝→9時起床
朝食、服薬
本日は元旦である。
父から二十歳を過ぎているにもかかわらずお年玉をもらい、 Facebook に年賀の投稿をした。
昼食を食べた後、横になる。
夕方、妻と家の近所を散歩する。
4時半だったが空が青かった。旭川ではすでに日没の時間である。日本が縦長い国であることを意識した。
こころの科学から出ている「精神医療に薬はいらない」という本を読んだ。なかなか読み応えがあるし知らないことがまだまだ多い。なにより面白いのは同じ精神医学界でも薬の是非を議論しているところだ。
明日は妻の実家へ新年の挨拶に行こうと思う。
東京の実家に来てからというもの、たびたび寝坊してしまう。東京の都会の明るさが影響しているのだろうか。その日は夕飯後、錯乱してしまった。
日常の何気ない会話の中であったが、自分が思った通りうまくいかないことでふとした拍子で上司から受けていたパワハラがフラッシュバックして泣いた。落ち着くのに1時間くらいかかった。
私はパワハラのシーンに取り憑かれると自分を見失う。疲れてそのまま寝てしまった。そして東京に来て、まだ慣れないのか夜中もうなされてしまった。
幸いなったことは朝、旭川にいた頃にお世話になった中島さんから電話をいただいたことだった。年賀状を返信してくださった。ありがたい旭川に戻り次第、会おうという話になった。
1月2日(うつ病夫が妻の実家へ挨拶にいく)
7時半起床
午前中、妻の実家へ挨拶に行く。結婚して間もなく2年になるがだいぶ妻の実家とも家と打ち解けた気がする。私の実家からそれなりに遠いところにあるのだが、行くことができて良かった。
1月3日(東京は旭川と比べて人が多いから環境ストレスが大きい)
24時就寝→9時起床
最寄り駅の駅前まで歩いた。10分ほどであるが、東京は旭川と比較して人との接触が多い。旭川から東京それも23区内へ急に戻ってきたが環境に適応するにはハードルが高い。
1月4日(東京へ戻るということは療養環境が変わるということに気付く)
2時就寝→10時半起床
朝食を済ませ、薬を飲んだ。
帰宅して昼食を済ませたが、体調が悪い。ほぼ一日に横になりっぱなしであった。昼食後、熱を測ると思ったより高い。夕飯を食べてもまた横になる。それの繰り返しだ。
今日は駄目だ。早く寝よう。
妻に相談したい事を書き記しておく。
東京から早く別の場所に行きたい。東京という環境に適応することがまだできない。家の周りを歩くだけでも本当に疲れてしまう。
人の多さや道の狭さといった病気になるまで気づかなかった不便なことがいっぱいある。それに気づいたのだった。
自立支援医療は住民票を移したのでかかりつけ医が決まった後にもう1回申請しなければいけないのだろうかよくわからない。
旭川にいた頃は車社会だったので、自動車を持っていたが東京ではもはや余計な費用になるだろう。旭川での足だった車も休職中の私には荷物である。
どうしたらいいかよいのか?
東京へ移るということは体だけ移るというわけではなく、環境を移すということであり、それなりに考えることが多かった。頭がぐるぐる回って中止したい。
1月5日(うつ病になったら安心できる場所がなくなり、ふるさとがなかった)
東京の療養環境に慣れない。
早く旭川に帰りたい。私はどこでなら平穏に生活できるのだろうか?
東京に戻ったら私は治るのか・・・
そういう問題ではない。
私にとって、ふるさとというのはどこなんだろうか?
東京に戻り、疲れが出たのかもしれない。
私の心の声は何と言っている?自分にもよく分からない。
東京の本社にも本当に戻れるのだろうか?
そして、私は本社に戻る気があるのだろうか?
1月6日(うつ病夫が傷病手当金で妻と2人暮らせるアパートを借りることは経済的に難しい)
朝起きて、家の近くを妻と歩く。
ちょうど、道路の騒音が聞こえない公園を見つけた。孤独を感じ、落ち着く。思わず、夜、泣いてしまった。
午後、高校の同級生と会う。かなり心配してくれていた。私は変わっていないと言われる。変わらないもの・・・それが”自己”であり、そしてそのうえで行動することが”責任”・・・つまり、自己責任なのだろう。
夕食後、胃がもたれ気持ち悪さがあった。実家で寝ながら考えた。
これ以上、妻を私のことで疲れさせることはできないと思ったのだ。
東京に戻り、傷病手当金で妻と2人暮らせるアパートを借りることは経済的に難しいだろう。妻と一緒に実家に居候させて欲しいと頼んだ。
両親は妻が良いのなら・・・ということで了承してくれた。弟は実家が一番落ち着くなら、私も妻も実家にいたらどうか?と言ってくれた。弟の言葉が一番嬉しかった。
1月7日(また、パワハラにあったら上司に迎合するだろうか?)
午前中、旭川へ戻る支度をした。午後、妻の実家に行く。
妻の実家に電話をした。東京に戻ったら、私と妻は実家に居候するべきだというふうに妻の親も言ってくれた。
旭川での生活は貴重でもあるが、相当しんどかったことは事実だ。
東京に戻って潰れることは避けたい。
家族のありがたさを実感した。荷物が多くて今の私達夫婦の荷物はとてもではないが収まりきらないので、トランクルームを借りて荷物をしまっておこう。
最後の支えは家族であった。不退転の決意を抱き、旭川へ帰る。
私がパワハラにあっていた時、あの時に戻ったら私は上司に迎合して自分を変えるだろうか?何か違う選択をするだろうか?
いや、しない。
それを再認識した。
1月8日(うつ病になった後になにかするとしたら、ゆっくり準備したからといって、うまくいくとは限らない)
早朝4時頃、トイレへ行こうと目を覚ました後、寝ようとした時、妻の体調がおかしかった。体調不良で熱もあった。妻は疲れだろうか、高熱が出ていた。
今日、私達は旭川へ帰る。キャンセルしようか悩んだが、私が風邪を引いてしまうことも考えられた。そのため、私一人旭川に帰ることにした。
弟に妻を頼み、父親に羽田空港まで車で送ってもらう。家族の温かさを感じた。
飛行機の中で寝てしまい、目が覚めると冬景色であった。新千歳空港から札幌へ向かう。
主治医のクリニックに通院する。主治医には2月16日の診察が最後になることを話す。転院のため、紹介状を書いてもらうことを依頼した。
主治医の診察が終わった後、”先生”のお宅に伺う。”先生”とお会いするのは毎回、緊張する。本当ならば、明日伺うところだったのだが私の体調が良かったこともあり急遽その日にお会い頂くことになった。
先生は少し痩せたように見えた。自分の健康について報告し、新年の挨拶をするとともに昨年、お世話になったことに御礼を申し上げた。
先生からは「家族が穏やかに健康で暮らすことが大事。無理をするな」と言われた。ただ、先生には「旭川大学の教授だった頃の先生の方がよっぽど無理をしていたのではないでしょうか?」と話をした。
先生からは「ありがとう。あれはしょうがなかった。娘にはお父さんがサラリーマンだった記憶がないと言われる。」とのことだった。
また、先生からは「今の日本には自由などない。今の日本は管理された自由を自由と錯覚している。」との話があった。
人間が勝手に行った開発は自然を傷つけたと言った話や本を読むのが大事、その人の生きてきた道を辿ることも大事といった話があった。
最後に、先生には2月末頃に東京に戻る旨を報告した。「北海道に来た時は顔を出しなさい」と言ってくれた。
そして、先生に「いつか体を治し、北海道に戻りたいと言った。」先生からは「来たいといっても収入がないと駄目だ。ただ、ゆっくり準備したからといっても上手く行くとも限らない。」と話があった。私には自分の自立した道を歩めと聞こえた。
”先生”のお宅を出て、札幌駅から旭川駅へ向かった。旭川駅からは歩いて家まで帰るが、雪がすごい積もっており、景色が変わっていた。
これが自然の力だろうか?家は幸いにも水道、電気が通り、無事であった。
車も雪で覆われていたが、無事であった。玄関も車も雪でいっぱいで除雪に苦労した。疲労の蓄積を防ぐため家で少し休んだ。
夕食は自炊で作ることができた。実家に連絡をすると、妻は本日また熱が上がり医者へ行ったとのことだった。
1月10日(近くにいなくても、目の前にいなくても、自分を大切にしてくれる人は必ずいる。)
午前中はゆっくり寝ていた。本格的に体が動いたのは夕方過ぎて18時ぐらいからである。
19時 夕食
20時 入浴
22時 就寝
北海道に来てから色んな人に出会った。職場では不要の人材となっても、大切にしてくれる人が必ずいる。
近くにいなくても、目の前にいなくても、それは見えないだけで必ずいる。
妻に連絡をしてみたところ、妻の体調が少し良くなったようで安心した。
1月11日(すごい雪、奇跡のような出会いが紡いだ縁)
昨日、23時に寝るもなかなか眠れなかった。目のマッサージ機をかけて寝た。体調は少し疲労感があるくらいだ。
今日はお世話になっているパン屋に少し顔を出す位の外出にしておこう。
雪がすごい。無理して外に出る必要はないと思った。
夕方、お世話になっているパン屋へ行く。家に帰り夕食を取る。
北海道で知り合った実業家の先生から職を変えることを勧められた。
赤の他人、そして孫ぐらいまで年を離れた人が私のことを考えて本を勧めてくれた。奇跡のような出会いが紡いだ縁である。ありがたい。
1月12日(体力回復の1日)
24時就寝→7時起床
体調は普通くらいだ。
1月13日(平穏な1日)
23時就寝→2時中途覚醒→8時中途覚醒
パッと決まった時間に目が覚めなくなった感じがある。
8時 朝食、服薬
9時 部屋を整理して食事の後かたづけ皿洗いをする。
夕食後に急にふらつきがあったため、昨日はすぐに寝てしまった。
午前中は家の近くのスーパーへ買出しに行き、昼食はお世話になっているパン屋で食べた。
19時 夕食
20時 入浴
24時 就寝
1月14日(妻が旭川へ帰ってきた)
今日、妻が旭川へ戻ってくる。朝から除雪車の音がする。外に出るとアパートの入り口のところで、車が立ち往生していた。50cm位だったかもしれないすごい雪である。
8時 朝食、服薬
午前中は新聞を読む。午後、妻を迎えに旭川駅へ行く。
19時 夕食
久しぶりの二人の食事は幸せだった。
23時 就寝