【適応障害回顧録】7冊目の日記⑥ 東京への帰任。戻る場所のない休職発令
~勤務先からのパワハラ隠しによりそもそも、いなかった人にされかけた私の北海道での軟禁生活は終わりを迎える。身辺整理を終え、適応障害・うつ病になった自分に別れを告げ、自分を創り直すために東京へ戻る。私にもう一度、生きる決意を授けてくれた”先生”達が北海道のために作った北海道国際航空株式会社(現AIRDO)に乗り、「会社に評価されるのではなく、将来、振り返って自分で自分を評価できる生き方をしよう」と気持ちを新たにした。~
2月23日(減薬して復職しないと辛くなる)
昼食を妻と外で食べた。
その後、家の近くにあるなじみの魚屋、パン屋へ行き上川神社へ参拝。
よく足を運んで、1人の時間を過ごしたカフェで中島さんに手紙を書く。
ところで、今の自分の体調を書き記しておこうと思う。
今の自分のネックは夕方、目と耳が詰まり感覚器の疲労が早いということである。
症状の出方としては、最初にものすごい眼精疲労のような感じがずっと続く。
次に耳鳴りがして、頭の重い感じがずっと続く。症状が出たら横になったり入浴して血行が良くなると緩和される。
今は何かに集中するにも3時間が限度である。8時間の勤務が必要な職場復帰には程遠い。
なにか改善できないだろうか…
書類を見なくても、聞いて話のストーリーが把握できれば良い。
目と耳で認識していたものを耳から意識できるようになれば良い。
目が見えない方も世の中には大勢いるわけである。対処の仕方というものを会得できれば疲れが減るはずである。
人の話を耳で聞いて、目で資料を見て、手でメモを取る。
この時、無意識にスムーズに行っているが三つの作業を同時平行で行っている。
これが今はうまくできない。各動作の接続が悪いという感じだ。
原因があって、症状が出ると考えていた。
これまではどうしたら症状が緩和されるかということを考えていた。
しかし、うつ病をはじめとする精神疾患は簡単に治るようなものではないということはこの数ヶ月で十分に味わった。
症状のひとつひとつの原因ではなく、そもそもの原因を捉えた方が良いかもしれない。
神経性うつや心身症は自律神経の乱れが原因で起こるのではない。
自律神経の乱れというのは、何かが乱している。その何かが答えになると思われる。
今の不安の要因はおそらく感覚器である。
目と耳が過敏になり、その結果、不安を増幅させるという仕組みになっているのかもしれない。
抗うつ薬や精神安定剤はある程度、減薬してから復職しないと薬の副作用による症状に自分が振り回されてしまう可能性がある。
精神安定剤も使い方次第だ。
2月24日(転勤うつを治す旅は続く)
旭川での自宅療養生活も今日で終わる。
最後に世話になっている魚屋やとパン屋へ妻と伺った。
挨拶回りをしたら、「いってらっしゃい」と言われた。
病気を治したら、冬でも暖かい、まだ人情の残っているこの地域に帰ってこれるような気がして嬉しかった。
2月25日(異動先の部署がない人事異動)
朝、いつも通りの時間に起きた。
私がパワハラで潰れ、転勤うつで苦しみ、本社や北海道支社からなかったことにされ、何度もの絶望に自分は粉々になってしまったがこの旭川という土地は運命のような出会いもあり、うつ病を発症する前の会社員である以前の自分がどういう人間だったか思い出させてくれた場所であった。
そんなことを考えながら、妻と旭川での生活を惜しんでいたところいつのまにか札幌行きの特急列車の時間が近づいていた。
発車時刻ギリギリで遅れそうになり、慌てて電車に飛び乗る。
東京へ戻る前に札幌の主治医から紹介状をもらう必要がある。そのため、新千歳空港から東京に戻ることにした。
札幌への道中の途中に滝川という駅がある。
挨拶に行くところがあり、滝川で途中下車をする。
その後、札幌へ向かい、駅周辺のホテルにチェックインして主治医のクリニックへ向かった。これが最後の診察になる。
主治医のクリニックでの診察後、”先生”からお電話を頂いた。絶妙なタイミングであった。養生するようにとのことであった。
主治医の診察の帰り、いつもどおり札幌駅までタクシーに乗った。診察の帰りに私を励ましてくれた裕ちゃんタクシーは今日はいなかった。その日は裕ちゃんには会えなかった。
また、いつか会える日が来るということだろう。
主治医の診察が終わり、通院旅行も今日で最後である。
宿泊先のホテルに戻っていると、夕方、職場の先輩から本社異動の辞令が発令されたと連絡が届く。
異動先は「本社」
まだ休職にはなっていないそうである。
また、異動先の部署がない。
会社員でありながら、所属する部署もなく、当然、上司もいないというなんとも不思議な取り扱いになった。
組織の考えはよくわからないが、私も疲れていたので先輩にお礼をしすぐ寝た。
今、思うこと(転勤・出向者の休職発令)
管理職になった立場で考えると、出向者や転勤した社員がメンタルヘルス不調になった場合、対応は確かにむずかしい。
人事権が出向先の企業や転勤先の支社にあるケースもあるからだ。
社内のパワーバランスの話だが、本社だけで決められないこともある。私のケースは北海道支社の人間だったので、本社も介入しにくかったと思われる。
また、北海道支社からすれば私が本社と進めているので、自分のところで何か対応するべきではないと考えたと思われる。
今時は海外転勤もざらにある時代である。
転勤先や異動先のメンタルヘルスの対処や問題が発生した場合の対応は確かに、複雑だったり前例がなかったりする。
そんな時は、自殺するリスクを雇用主として現実的に起こりうる症状と捉え、問答無用で本人の意向に沿った対応を検討することを薦めたい。根回ししている間に死なれてしまったら、アウトだ。
後から責任を取らせればよい話なのだ。
2月26日(東京帰任)
その日は午後には羽田空港に着いた。
旭川の地域の方に支えられてなんとか持ちこたえたが、旭川での自宅療養の間、本社と北海道支社になかったことにされかけた私は心身ともにボロボロの状態であった。
東京へ戻され、休職発令されるまで本社が信用できず、気力だけで北海道最後の日を過ごし、新千歳空港から羽田行きの飛行機に飛びのった。
両親が羽田まで迎えに来てくれ、車で実家に到着し寝た。
両親は私がパワーハラスメントをどう対処するのか不安がっていたようであるが、支社長に言うことを言ったと伝えた。
それで両親は少し安心したようだった。
結婚しても子供は子供なのかもしれない。
2月27日(療養のやり直し)
今日は昨日の今日だから、まるで動けない。
妻と居候することになったがそんな豪邸に住んでいるわけでもない。
妻の荷物が置けるよう自分の部屋を整理した。
2月28日(社会復帰から職場復帰を目指して)
午前中は体調が悪く、無理をしなかった。
ここまで、苦労したが明日からが本番である。理由がなければ、東京へ来なかった。
ここまで本気になったのは生まれて初めてかもしれない。
隣の家に飛び移れるかそれは分からない。
しかし、飛び移る。私はそういう人間だったそう思い出した。
今、思うこと
旭川での自宅療養の最中、私が目的にしていたのは妻と一緒に治すことができうる環境で療養するというものだった。
もう帰れる自信もなく、休職者という立場になることもあり、当時の日記を見ると勤務先に戻らないという選択、つまり、転職も頭に浮かんでいるようだ。
ただ、転職先を検討するといったような具体的な行動は特に起こさなかった。そんなことを考えられるほど体調は良くなかった。
旭川で果たしたかった目的を果たした私は目標がなくなり、自宅療養以来、はじめて暇になった。
ようやく、職場復帰に向けての回復に取り組める。
そんなことを考えながら、数日は、ただ時が過ぎていった。