映画『僕らの世界が交わるまで』感想
予告編
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空回りする自己愛
ジェシー・アイゼンバーグが初長編監督と脚本を務め、エマ・ストーンが製作に名を連ねている本作。ただただそんなネームバリューに惹かれ、ロクに下調べもせずに観に行きました。
とある親子が主人公の物語なのですが、特に息子・ジギー(フィン・ウルフハード)の方なんて、もう本当にね……笑。簡単に言うと「厳しい」というか「イタい」というか何というか……。字面だけでは伝わり切らないことは重々承知の上ですが、そんな見ていられない言動の数々に、共感羞恥がエグ過ぎて吐きそうになります笑。
まぁ正確に言ってしまえば、「厳しい」「イタい」という点においては母親のエヴリン(ジュリアン・ムーア)も同様なのですが、僕の年齢や立場が近いせいなのか、より強くジギーに対して共感羞恥を覚えてしまい、一方で、ジギーの年齢や立場に近いからこそ、エヴリンへの嫌悪感・苦手意識が膨れ上がっていったのかもしれません。
共感を覚えるか、傍観者のように眺められるか、人それぞれで鑑賞後感が大きく異なると思います。色んな方の感想が聞いてみたくなる一本かもしれません。
互いに理解し合えない、衝突することも多い二人ですが、なんだかんだで似た者同士の親子。この二人の主人公それぞれの日常を交互に、そして並行して描いていくような構成のおかげで、似た者同士な部分や、互いの共通項が際立っていた印象です。
映画情報サイトや予告編映像等では「社会奉仕活動に身を捧げている母親と、フォロワーのことで頭がいっぱいのZ世代の息子が~」といった紹介文が添えられがちな本作。
一見すると〈しっかり者の母親とダメ息子〉のような構図にも見える文面ですが、実のところ、母親のエヴリンも相当なもの。普段の言動から「常にイニシアチブ握っていたい」感、或いは「高尚な志と慈悲に溢れている私!」感が滲み出て……いやそれどころか、溢れ出まくっている。
そしてその自覚が無さそうな上に、逆に自身の提案(という名の押しつけや決め付け)を受け入れない・理解できない周囲を、勝手に一方的に憐れんでくれちゃう雰囲気もある。正直、スクリーン越しに眺めているだけでもキツい。
たとえば、彼女が働くシェルターで暮らす青年・カイル(ビリー・ブリック)とのやり取り。彼女からの提案を非常に丁寧に、且つ意見を尊重した上でやんわりと断っていたカイル。
それに対し、「この子を正しい方向へ導いてあげなきゃ」とでも言わんばかりにお節介が加速するエヴリン。そんな二人を隔てるかのようにスクリーンの真ん中に映し込まれる壁は、まるで二人の心の距離感までをも示しているかのよう。……残念ながら彼女にはその壁が見えていなかったようですが。
一方で、他者との交流が上手くいっていないのは息子のジギーも同じ。自作の詩を朗読するライラ(アリーシャ・ボー)を捉える映像に対し、それを眺めるジギーを映す際のカメラはとても揺れ動いている。信念というか志というか、あらゆるものに芯が存在せず、常にブレブレな心情のジギーを象徴しているかのよう。ライラを映す時とのギャップも相俟って、これまた上手くコミュニケーションが取れていない組み合わせであることが窺い知れます。
終盤でも明確に言葉にされることですが、ジギーもエヴリンも、とにかく相手を理解できていないし、他者に関心を持てていない。非常に自己中心的。
カメラの動きという点で言えば、やたらズームイン——被写体を少しずつ大きく映していくこと——が多用されていたのも、自身の存在が肥大化しっぱなしであることを表現しているようにも見えてくるし、意地悪な見方をしてしまえば、3人家族なのに2人乗り程度の小さな車を使用しているというのも、「自分中心」という人柄を指しているようにも見えてきます。
すみませんが、まだまだ続きます笑。もちろん挙げ出したら切りが無いので次で打ち止めにしますが、中でも特にエヴリンの行動が印象的でした。
物語中盤、マルシア(ジョーディン・オーロラ・アキーノ)とカイルと三人で会話をするシーン。マルシアのスペイン語が堪能であるという話題から、カイルとマルシアがスペイン語で会話を始める。しかしそこに字幕などは無く、まるでその会話を理解できていないエヴリンの気持ちが如実に伝わってくるよう。
するとエヴリンは、「(カイルの)母親が心配している」と言いだし、途端に会話を切り上げさせ帰宅しようとする。
……お察しのとおり、これはただただ彼女が会話のイニシアチブを握れずにいるのに我慢できなくなっただけのこと。「心配」なんてのはその場しのぎの建前でしかありません。それを裏付けるかのように、その後に描かれるのはカイルを引き連れて食事に行くエヴリンの姿。
「どの口が “心配” なんて言っていたのか」と思ってしまうのは、並行してジギーの様子も描かれていたから。ジギーは帰宅するも、家の灯りは点いておらず、母親の姿も見えない。そりゃそうだ、当の彼女はカイルと外食中なのですから。先述の「母親が心配している」という言葉が偽りであることを強調してくれるシーンだし、その発言が「会話のイニシアチブを握れずにいるのに我慢できなくなった」が故に出た言葉であることも容易に想像させてくれる気がします。
こういった見せ方の数々も素晴らしいし、夕食時にジギーと口論になった際に歌いながら相手を煽る様子も然り、エヴリン役のジュリアン・ムーアが全編に亘って醸し出してくれる「こういう母ちゃん嫌いだわぁ」感が素晴らし過ぎる笑。先述したように共感羞恥もエグいし、彼女への不快感も凄まじいですが、だからこそ面白いと思える見応えにも繋がり得る。
とまぁ、褒めているような、貶しているような、どちらとも取れる文面になってしまいましたが、そんなこんなも本作にとっては大切な要素。そしてそんなすれ違いっぱなしの二人が、どうやってタイトル通りの着地に向かうのかが大きな魅力。こればっかりは言葉で説明するのは野暮というもの。とても素敵な余韻に浸れる一本でした。
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