映画『時々、私は考える』感想
予告編
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見れば見るほど好きになる
人それぞれ、好きな予告編映像ってあると思うんです。「うわっ!これ面白そう!」というよりは「あ……これ多分、なんか好きなやつかも」みたいなやつ。それで言うと、本作の予告編はとても僕好みのものでした。たまたま流れてきたその映像を目にし、鑑賞することを即決。決定打というか、なにか劇的な瞬間があったわけじゃないんですが、物語のスケール感だったり、作品の雰囲気だったり、あとは会話の距離感とか映像の色味・調光とか。
……うーん、「こういうタイプの予告編が好き!」ってね、あんまり上手く伝えられないんですよね。
さて、そんな本編について。劇中、主人公のフラン(デイジー・リドリー)が、同僚のロバート(デイブ・メルヘジ)と観た映画作品について「見れば見るほど好きになる」と口にしていました。予告編が好みでも実際は「思ってたのと違う」ということも往々にしてあるので、あくまでも偶然というか結果論でしかないのですが、本作もまた、そんな「見れば見るほど好きになる」と言いたくなる映画でした。
定年退職したキャロル(マルシア・デボニス)と入れ替わりでやってきたロバート。最初の会議で行われた社員同士の自己紹介で(冗談か本気かはさておき)彼は「気まずい沈黙が好き」と発言していました。
また、映画鑑賞が好きだという彼が別のシーンで語っていた「本質を汲み取ろうとする~」等、映画を鑑賞し楽しもうとする際の話。
そして何より、本作のタイトルそのものも……。
これらの要素が相俟ってか、本作で描かれているいくつもの〈沈黙〉、および〈間〉は、観客に “考えるながら観ること” を誘発させてくれます。人見知り気味で、口数も少ない主人公のおかげで生まれる〈間〉の数々を眺めていく感じ。フランは一見すると感情をあまり表に出さない人物に見えるものの、実は小さな表情の変化が随所で見受けられ、そんな細やかな機微を観察するのも本作の楽しみ方の一つなのかな? とても心地の良い映画体験に繋がるかもしれません。
主人公のフランは、人付き合いがあまり上手くない。いつも大人しく寡黙気味な彼女の様子を映し出すシーンが多い本作では、それと同時に、オフィスなど同じ空間にいる人たちの会話がそれとなく聞こえてくることが多く、それもまた面白い。本当に何てことのない会話もあれば、ちょっと気になる、ちょっとクスッとなる程度の絶妙な塩梅の雑談も織り交ぜられる。くだらなかったり、どうでも良かったり、でも黙って仕事をしていると、ついつい耳を傾けてしまうような世間話。ポツンとしている自身のすぐ近くで繰り広げられる他人の会話が、日常のBGMのようになっている感じは、すごくよくわかります。
そんなフランには実は、一つの楽しみがある。それは、“自分自身の死を想像すること”。ある時は森で、またある時は海辺で……etc.特に説明も無しに(まぁ原題では「Dying」と明記されてはいますが)、突如として描かれ出す不思議な妄想シーンですが、誰かに話し掛けられたり、ちょっとした日常の音だったり、何かしらをきっかけにふと現実へと引き戻される。急にBGMが途切れることで、そこまでに描かれていたことが彼女の妄想だったこと、そして音楽が途切れた瞬間からは現実であることが示される。この妄想と現実の見せ方の違いが見どころの一つ。
ほとんど代わり映えしない彼女の日常が、ロバートの登場から少し変化していく。元来、他人と馴染もうとしない彼女のことですから、はじめのうちは特に大きな変化は見受けられない。しかしある時、再び訪れた彼女の妄想のシーンにおいて、何の前触れも無くロバートが介入してくる笑。おまけに、この不意の登場をもってしても、先ほどのようにすぐさま現実に引き戻されることにはならず、そのロバートのイメージを引きずったまま妄想が継続していく。
「気になる人ができた」という心情を、主人公の独特の感性を残しつつ、ちょっとユーモラスに描いた面白いシーンだったと思います。
また別のシーンでは、それこそ「現実に引き戻す」かのように階下にある調理場から機械音が飛び込んできて、雰囲気を醸成していたBGMが寸断されることもあった。音楽が切れる前後で妄想と現実が区別されてきたそれまでのシーンとは異なり、ここでのシーンはどちらもが現実の出来事。だからこそフランにとって、楽しみの一つである妄想にも負けず劣らずの心地良い時間だったのだと暗に示してくれていたように見える。
一方で、一人の観客としては「せっかくイイ感じだったのに!」と言いたくなる流れを断ち切られたことになるわけですが、考えてみれば、この “イイ感じの流れ” というやつを持て余すというか、どうすればいいかわからないまま濁そうとしてしまう感じは、フランの人柄が反映されているようにも解釈できるから、これもまた面白い。
(そう考えると、BGMが寸断される前後で妄想と現実が区別されているというのは、どうやら不正確だったみたいです。映画を鑑賞しながら考えていたことでもあるのですが、彼女が妄想している内容は、思考だけではなく感情を視覚化した側面も強いのかな?)
本作は、先述したように “考えながら” 観ていると、自分自身と照らし合わせてしまうことがある。主人公の心情を窺うようで、その実、単に自身と置き換えているだけ。何もかもが完全に彼女と一致しているわけではありませんが、たとえば好きな事がある人、明るい人、人生の目標がある人等々、他人がキラキラ輝いて見えてしまうと、相対的に自分がくすんで見えてきてしまう。
ネタバレ防止のため詳細こそ割愛しますが、クライマックスでのフラン同様、そうやって自身を小さく見積もってしまっている誰かの心に寄り添ってくれるような締め括りも素敵。繰り返しになりますが、「見れば見るほど好きになる」、そんな一本でした。