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映画『オールド・フォックス 11歳の選択』感想

予告編
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お人好しの選択


 1989年の台北郊外を舞台に、慎ましい生活を送る父子の姿を描いた物語。バブル期を迎えていた台湾では当時、不動産の価格が2倍に膨れ上がるなどしていたそうな……。世の中が大きく揺れ動いていく日々の中、経済的な側面も然ることながら、本作では他にも様々な形で不平等や不公平が描かれていました。


 身近なところでいえば、11歳の主人公・リャオジェ(バイ・ルンイン)を近所の子供たちがからかってくるシーン。多対一という構図や体格差など、明らかに強そうな側が攻撃を仕掛けてくる。
 また、物語の後半、男性が女性を殴りつけるシーンもありました。男女間における腕力の差だけではなく、立場の違い故に逆らわれることがない、殴り返されないことを理解した上での暴力。

 リャオジェを子供たちがからかったり、いじめてきたりするのも同様。“やり返されない”とわかった上での行為。それぞれ狭いコミュニティ内での描写ですが、子供の世界だろうと大人の世界だろうと、場所や年齢、性別を問わず、不平等や不公平が蔓延っていることが容易に理解できます。



 リャオジェ自身も「不公平だ」と不満を溢す、そんな日々の中で彼はある日、その腹黒さ故に周囲から “古狐” と呼ばれているシャ(アキオ・チェン)と出逢う。大雨の中、逃れ逃れて雨宿りをしていたリャオジェと、それを高級車の中から眺めるシャ。この最初の邂逅を機に、その後も幾度となく描かれるリャオジェとシャの二人だけのシーンは、本作の中でもとても大きな要素を占めていた気がします。


 ここから、「不平等や不公平を利用して強い側に立て」というシャの教えが、リャオジェに強く影響を与えていくのですが、そのやり取りをする二人の姿や状況それそのものが、不平等や不公平を印象付けていたのも面白い。

 例えば、白いスーツ。叔父の結婚式に出席するために、父親のリャオタイライ(リウ・グァンティン)がリャオジェのために白いスーツを手作りしてくれる。一方、その後のシーンにおいて、同じく白い色で、けれども高級そうなスーツを着ているシャの姿も描かれています。
 他にも、一方側からしか見えないガラス窓(マジックミラーみたいなやつ)や、それこそ前述したように、高級車に乗るシャが雨宿りするリャオジェに声を掛けたシーンも同様。様々な〈不公平〉を視覚的にもわかりやすくする描写が多く見受けられました。


 11歳のリャオジェにとってシャからの教えは、初めて見聞きするものばかりだったはず。それこそ多感な年頃ですから、その教えは強く響いたことでしょう。セリフだけではなく視覚的にも〈不公平〉が表現されていたことで、観客もリャオジェのその感覚を窺い知れる

 また、シャが語る人生哲学というか、どこか格言気取りの教え(延いては本作のテーマにも繋がり得る言葉)に立体感を生み出す作用もあったんじゃないかな?




 シャの話をいくつも聞かされる中で、最も彼の心に刺さったように見えたのは、“同情を絶つ思考”——「知ったこっちゃない」という考え方——。僕自身、まったく理解できないわけじゃない。

 簡単に例えてみるなら、今後二度と遭遇することもないであろう見知らぬ他人に対して、ある時は電車の中で席を譲ったり、またある時は親切にしたりして、自身の労力や資産、時間といったものを費やすのだって似たようなもの。何一つとして明確な利益や得が望めるわけでもないのに……。言い換えると「お人好しが損をしがちな世の中」とも言えるのでしょうか?

 もちろん、そんな世の中は悲しいとは思いますが、あながち間違っているわけでもなさそう(実のところ、シャ自身も決して悪人というわけではありませんでしたしね)。


 シャ曰く、他人の気持ちを慮ってしまうリャオタイライのような人間は “負け組” なのだそう。日々の中で感じていた不平等や不公平、母の生前の望みをなかなか叶えられない現状等々、リャオジェがその思考を「良し」としてしまうきっかけは数限りなくあったでしょうし、その不平等や不公平を利用して強者の側に立つ “旨味” をシャから味わわせてもらうこともありました。


 副題にもある〈選択〉が指しているのは、以上のようなこと。あくまでシャの言葉を引用するならば、“負け組になることを選ぶか否か”。強者側の快楽も弱者側の苦汁も知ったリャオジェが、自らの意思で選択をする。

 そんな現実を知っていて、そしてシャに影響を受けていて尚、リャオジェはなかなか非情・薄情になり切れない。

そんな彼を「非情・薄情になり切れない、父親同様にお人好しだった」と見るべきなのか、或いは「人間に宿る性善を窺わせることこそが本作のテーマだった」と捉えるべきなのか……。ここから先の受け止め方は、人それぞれで違ってくるんじゃないかと思います。



 非情・薄情、或いは不平等や不公平が幾つも見受けられましたが、実は同じくらい、様々なお人好しや優しさも描かれていた本作。最終的にリャオジェが取った選択は、彼の過ごした日々があってこそのもの。決して恵まれていたとは言えなかったかもしれませんが、父親との慎ましやかな生活の中で感じられる幸福や、周囲の人々からの優しさが、物語終盤で彼が称されていたように、リャオジェ自身を心優しい人物へと導いてくれていたのかもしれません。

 多感な年齢だったということも然ることながら、きっと多分、その後の人生の中でも彼の心が揺れ動くことはあったでしょうし、〈選択〉の機会は繰り返し訪れるもの。そういった〈選択〉の積み重ねが、現在の為人、その後の人間を形作り得る。そして、そんな彼の姿がタイトルへと回帰しての終幕も、良い余韻を生み出してくれます。


 台湾ニューシネマの雰囲気も漂う本作は、物事の善悪や正誤を問うというよりは、あくまでリャオジェという一人の少年の心情に寄り添うような描かれ方でした。
 そして、そんなドラマでありつつ、リャオジェという被写体を通して、観客それぞれが自身のことに置き換えながらも味わえる、とても素敵な映画でした。


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