映画『地下室のヘンな穴』感想
予告編
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……ちょっと独特の雰囲気が漂う作品。オススメとかそういうんじゃないのですが、「観たけどよくわからなかった」という方にも読んで頂けたら嬉しいです。
今回は、あくまで僕なりの楽しみ方で観た感想です。
嘲笑
文字通り、タイトルそのままの物語。中年夫婦のアラン(アラン・シャバ)とマリー(レア・ドリュッケール)が新居に選んだ家の地下室には、降りていくと何故か家の二階に繋がっていて、時間が半日経過している代わり に3日若返るという摩訶不思議な穴がある。
実のところ、この穴というか最早 ”この映画自体がヘン”。果たして本作はどうやって楽しむのが正解なのか、自分なりに考えてみた結果を述べていき……いや、白状すると、本当はそんなに考え抜いたわけではなく、割と自然に楽しめていた。だからこそこの結論はあまり認めたくないのだが、本作はとても、”性格が悪い” 笑。
もしくは、僕が読み取れていないだけで、もっと他に真っ当な楽しみ方があったのかもしれません。あくまでも参考程度に……。
序盤、新居を内見する夫婦に、不動産屋が〈穴〉の説明をする。夫婦ももちろんだが、観客もその穴の秘密が気になるタイミングで、焦らしに焦らした挙句、なぜかここからシーンが行ったり来たりを繰り返す。内見が終わり、既に夜のシーンになっていたかと思えば、前述のシーンのセリフだけが流れてきて、また元のシーンに戻ったり、今度は夫の職場の社長夫婦であるジェラール(ブノワ・マジメル)とジャンヌ(アナイス・ドゥームスティエ)との食事シーンに移ったり……。
全編を通して、タイムラインがゴチャゴチャになっていく。地下室のヘンな穴がもたらす荒唐無稽な時間経過を映画全体としても表現しているようです。
また、はじめに内見する際に、門扉越しに家をじっくり映すだけのカットがあることで、 これからこの家で何かが起きますよ、という煽りだけではなく、門扉に隠れていることによって家の全貌が映し切れていないというのも、この家、ないしは本作の不気味な怪しさを表現していたのかもしれません。
……ここまでの文章だと、ただただ奇怪で不気味な作品に思われかねないのですが、音楽が全体の雰囲気を柔らかくしてくれているので、何て言うんでしょうか、“真剣に観なくても良さそう” に感じられるコメディだと思えるのも良い笑。
実はこの穴には序盤では明らかにされていないデメリットが隠されているのですが、そのとんでもない秘密を知った上でも穴がもたらす若返り効果に溺れていく妻。
一方で、ジェラールが抱える素っ頓狂な秘密の顛末も同時進行で描かれていく本作。
本質を見失い、それでも見栄や自己満足のような承認欲求、プライドを満たすために膨れ上がっていく欲望の数々を、とても独特なユーモアで描いていく。
たしかにマリーのように若さを求め続けたくなるのはよくわかるし、ジェラールのように「男として」というくだらない虚栄心が理解できないわけでもない。
ただ、両者が縋っているそれぞれのものが、あまりにもバカバカしいものとして描かれているのがミソ。「なんでそんなくだらないものに?!」という疑問を、真剣な問い掛けではなく、呆れかえって眺めるような楽しみ方ができる。
カドが立ちかねないので実例を挙げるワケにはいきませんが、実生活の中でも、本質を見失っていて、実が無い、そんなことに執着している人物を憐れむように、或いは呆れるように想うことは誰しもがあるはず。他者を嘲笑するなんて行為は勧められるものではないですが、『地下室のヘンな穴』というフィクションを通すことで、全力で本作に出てくる愚か者共を虚仮にできる。それが一番の楽しみ方なのかもしれない、そんな気がする。
作り手の真意こそ不明ですが、不毛で虚妄の何かに縋っていく本作の登場人物たちは、ともすれば現実にも存在し得るであろう人々の心のメタファーにしか思えない。
冒頭、ろくに働きもせずにゲームをして、約束をすっぽかした先でも平然と嘘の言い訳を宣うアランを、その時点ではどこかダメな奴のように思わせながらも、最期にはアランが一番真っ当な人物かのように描かれていた。ラストでは、誰もいない森の中で犬と静かに釣りをするアランが映される。ボロボロになってもまだ気付けていないマリーの声に、まるで見向きもしないかのようにして……。或いは、現実にも存在する ”見栄” や ”承認欲求” の沼から抜け出し、一人静かに日々を過ごしたい心情を抱えた人間を、視覚的・映像的に表現していたのかもしれない……。
この二人もそうだし、ジェラールの愚かな見栄や上っ面の心遣いの想いに対し、その妻のジャンヌには全く届いていないという描写もあった。
案外、当人たちが気付いていないだけで、周囲の人々は気付いている。でも、どこかで諦めて見放していく。
終盤、セリフも無く音楽だけが流れたままシーンが描かれるだけの時間が数分続く。まるで流れるかのような速さで時が過ぎていくその様子は、見放されてからの心の距離の開き方、そして見放されたが故に歯止めが利かなくなった愚か者たちの溺れていく(≓堕ちていく)スピードまでをも表現していたかのようです。
〈嘲笑〉や〈愚か者〉というひどい形容は、どこかで「もしや自分も気付かぬうちに……?」と思えるよう、戒めの意味を込めて選んだ言葉です笑。