映画『プライベート・ウォー』感想
予告編
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異常という日常
これまでにドキュメンタリー映画を2本(『カルテル・ランド』、『ラッカは静かに虐殺されている』)を撮ったマシュー・ハイネマン監督が、初めてのドキュメンタリー以外の映画でメリー・コルヴィン氏を主軸に選択したことには、何かリスペクトのようなものを感じてなりません。真実を伝えようと、或いは蓋をされていた問題を世に投げ掛けてきた作品を撮る中で、カメラには映っていなくても、そこには真実を伝えようとしてきたジャーナリストの魂があったのだと。
本作は、実在した戦場ジャーナリスト、メリー・コルヴィン氏の伝記映画(演じているのはロザムンド・パイク)。白状すると、僕は彼女のことをまったく知りませんでした。もっと言えば本作の舞台である2001〜2012年の当時、僕はまだ小学生〜高校生だったし、大人になってから少しだけ知識として頭に入れていた程度で、やはり所詮は字面だけの話。本作で描かれている事態への認識はあまりにも薄かった。
戦場で傷を負い、黒の眼帯姿で活動を続けるうちにその眼帯が彼女のトレードマークのようになっていった、というあらすじを映画サイトで読んだ時に「うわぁ、かっけー!」などと思慮の足りないバカみたいな考えがちらっと浮かんだ自分が情けない。世界には、今尚知られていない問題が多くあるという警鐘を鳴らすだけじゃなく、現地に暮らす人々やジャーナリストなど、そこで戦う人間の心情をも描いている本作は、ドキュメンタリーにも劣らない作品としての強度を感じます。作品の世界観を終始支配している緊張感をぜひ味わ って欲しいです。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)という名前や症状はそれとなく知った気になれていても、深く理解・共感することはなかなか難しい。けれど、マシュー・ハイネマン監督の過去2作品を観ている者ならば、彼女の心のストレスをある程度理解出来ると思えます。過去作の中で映し出されていた、吊るされた死体、見せしめに晒された生首。それらを目の前に泣き崩れる家族、親戚、友人達。何の編集も無しにありのままを映してきた過去作はあまりにも衝撃的だった。
過去にフィクションで目にしてきたものとは違い、吊るされた死体は首と胴体が今にもちぎれそうに変な形で繋がっているし、晒される生首も串刺しのものもあれば路傍の石ころ同然に道に転がっているものもある。そんなものを実際にその目で、そして視覚だけじゃなく嗅覚や聴覚でその町の異常事態を体感していたのかと思うと、その想像だけで背筋が凍る。
貧困や飢餓の影響で母乳が出ず、水と砂糖だけで赤ん坊を育てる母親。助けを求めようにも、通信方法を誤れば居場所を特定され、攻撃を受けてしまう。最期の最後までこういった状況を伝えようとする彼女の姿には胸を打たれました。あまりの危険さ故に彼女を止めようとしていた会社の同僚や仲間たちまでもが、その瞬間だけはそれ以上何も口出しをせず、たった一つでさえも聴き漏らすまいと静かに彼女の言葉に耳を傾けるシー ンも同様です。
本作は、性交渉もしくはその事前事後を描いたシーンだとか、彼女の下着姿や肌が露わになるシーンなど、随分と性を想起させる瞬間が多かったと思います。大きな危険を感じた時に、種の存続、子孫を残そうという動物の本能がそういった行為や欲求を促すと聞いたことがありますが、そんなことも理由の一つなのかな? もしかしたらそういったこともあるんでしょうけど、本来の意図は他にある気もします。危険に身を置く彼女の肌が露わになることで、視覚的にその感触というか脆さを想像してしまう。劇中で描かれていた惨状や「ちょっとした金属片で人間は簡単に壊れてしまう」といったセリフを浮き彫りにさせるようなこのシーンの数々は、一見ヒーローのように扱われている彼女の存在を「ただの人間」に戻してくれる気がする。人間は簡単に壊れてしまう。そして簡単に壊して(殺して)しまう地域に彼女は居るのだと。
決して明るい作品ではないからお勧めはできませんけど、見応えは凄まじい。ドキュメンタリーという手法を手放してまで本作を撮ったハイネマン監督が次にどんなものを作るのか、目が離せない。
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