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あこがれ


たとえば、痛みと疲れと失敗の夜がある。「めげるな私」と思いつつ遠くを見つめたまま放心状態でペンを握る日もある。
かと思えば、初めて彼氏ができた人みたいに目尻を落として口元はゆるみまくり、ニヤニヤしてどうにもならない私がペンを握るハッピーな夜もある。
ふと私のエッセイを読み返す時、そうした文字が生き物みたいになって、感情がだだ漏れて見えるんだよね。エッセイを描き始めようとする時にはいつもフラットな状態で始めているのだが、あとから読んでみるとこうも見事に刺々しく怒っているような日があるのか!と、、それを私は「ああ、いやだ」と恥ずかしく思ったり、はたまた「これが私だものね」と跳ねっ返りみたいな反骨精神を持つことがあるんだけど
結局
どちらが正しいのかわからないんだよね。

シンプルな話になってしまうけど
この時代は「多様性」なんて言って、価値観が無限大だから。制限がかからない世界に対してどこまで自分を出していいのか。どこまで他者を感じるべきか。自分のハッピーや、憂いはどこからどこまでアリで、どっからはナシだ?なんて。ごにょごにょと「常識」と「個性」の間を揺れる。そしてそんな「迷い」にも似た葛藤を、誰しも抱えているのかもしれないと少し考えたんだ。


夕方、そういうことを自分の兄と話していて私は自分の本音を知った。ほんとうのほんとうはそんな小さいことを言いたくない。

ぶっ飛んでいて、誰から見てもおかしな人になりたかったりする。変な帽子を被ったり、髪を赤や青や白に染めたり、朝からビールを飲んだり、上から下までカラフルな洋服を着たり、誰からも理解されないような絵を描いたり、いつでも踊るように生きてみたい。そしてそんな自由を手にした人って一体どんな気持ちで生きているんだろうか知りたい。一体どうしたらそんな世界に飛び込めるのだろう。と。


だからきっと、このエッセイもある意味そういう憧れを求めて日々淡々と綴っているのかもしれない。
人生はまだまだある。けど現在地とゴール設定はいつも見逃さないで受け止めていきたいなぁ

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