梅雨も良いかもしれない。
私の住む田舎にも、梅雨が来た。
いよいよベタベタして肌にまとわりつく空気。
それに何重にも重なる雲。足取りの重い雨。
朝から瞼は重く、髪も決まらない。私は、出勤時間に焦りご機嫌斜めで湿気に舌打ち。生温かい風にさえ八つ当たりだった。お前のせいだ!なんて。風は爽やかというよりも、私に冷たいんだもの。だから「梅雨なんてなくなればいい!」なんてそんな反抗期を迎えたんだ。
だが、梅雨の言い分はこうだ。
「まだまだ。夏を期待するには早いんだわ。」とか。言わんばかり。それこそ図星の私は、
天気予報に連なる傘マークを見てうんざりしちゃった。あなたの言う通りだけど。これじゃ、自然の思惑通りだなと。
こうやって身勝手に落ち込む時。
梅雨になると思い出す人がいる。それは昔、愛していたロックバンドのベーシスト。彼は、背が小さく、声がデカい。めちゃくちゃナイーブなのに声がデカい。技術云々よりも、声がデカい。何よりも、誰よりも、声がデカい。ただのパンクロッカーだった。
そのバカバカしい勢いが、鬱陶しい社会を一掃してくれるから。私はその彼のファンだった。そんで彼はそのデカい声で、誰よりも歌が下手だった。それはもう。もはや明るさしか取り柄のないバカだった。ただ彼は、そんなパンクスな一面からは想像できないほどに。深い優しさを持っている人だった。
彼は曲の合間。MCでこう言っていたんだ。
「梅雨ですね〜!なんか雨が降るたび、夏が近づくって感じがして!僕は、梅雨が好きです」
と。このセリフに「なんか、いいなぁ。」と呟きつつも、捻くれ者こと私なので。
わずかな感動にもしっかりと捻くれた。
「そんなに素直になれない」と脳内はやっぱり反抗期。
でも毎年、梅雨が来るたびにこのセリフが頭をよぎるんだ。いつでも詩的な心を持てるのは、人間の特権。感性は、時代を超え残っていく
産物だってことだろう。と。
ここで話は逸れるが。
Twitterで見かけた梅雨の話題について、書きたいことがあったんだ。
そのツイートは「カエルの声がうるさい」って趣旨で。添付の写真には「農家さんへ。カエルによる騒音に迷惑しています。」という注意喚起の貼り紙。Twitterでバズっていた。その、カエルの声っていうのは割と本当に、田舎あるあるだと思ったんだ。彼らは「カエルの合唱」を通り越して「カエルの応援団」ってくらい。我が家も毎晩、カエルの応援団「団長」の隣で寝ているくらい。音量が激しいからね。でも、そういう季節なんだな。って。
タイムリーな案件にちょっと気になったんだけど。案の定、そのバズりツイートの反論派はこう言って、騒ぎ立てていた。
「カエルの声は騒音ではなく自然の音だ!」
って。
そりゃあそうだ。とそれを見て画面の外側。
私は思ったんだ。カエルの声を「騒音」って言っちゃうその人にはもう、心に隙間がなかったのだろう。
ここで話は戻るが。
カエルのそいつと
梅雨を鬱陶しいと感じていた今朝の私と、
心のちっぽけさでいったら堂々じゃんかって。ちょっと恥ずかしくなったんだ。自分の格好悪さに、ちょっといじけちゃったんだ。心の隙間は持っておいたほうがいいって反省した。
たとえば、カエルの音を雑音だと罵るのか、
自然の豊かさだと讃えるのか。
雨音に耳を塞ぐのか、聞き入り詩を書くのか。梅雨に幻滅して過ごすのか、ひとつひとつの雨を楽しみに。夏を迎えるのか。
たったそれだけで、毎日は変わり。
たったそれだけで「私」の印象も変わるのだから。ね。
つまり人間には、「陽がさす、間」のようなものがなくてはいけない。それを「陽間」といいいつからか「暇」と書くようになったって。
そういうことなんだろ?こんな雨ばかりの毎日でも、心に余裕を。心の隙間に、陽の光を。
差し込める。そんな優しさを持って過ごしたいね。
小さい人間だ。なんて自分に失望したくない。
「どんな時も楽しむ私」を目指して。
まずは言ってみる。
梅雨も良いかもしれない。