「イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」
ハンナ・アーレント著 大久保和郎訳 1994年 みすず書房刊
「アイヒマン調書」の感想にも書きましたが、アイヒマンの名前とその後のイメージを固定化したのは裁判そのものの認知度に加え、アーレントの「悪の凡庸さ」という言葉が定着したことが大きかったと思われます。
そうした意味において、本書の持つ意味は極めて重要であるのは間違いありませんが、実際に読んでみると、これがなかなかの難読書であることが分かりました。
原著は1969年の出版で、いま読めるのは2017年の新装板ですが訳者は変わっておらず、訳文自体は細部に修正などがある可能性はありますがおそらく当時のままと思われます。
訳文に修正が加わっていないのであれば、お世辞にも読みやすい文章ではありません。
訳出年代以上にそもそも訳者の文章力に疑問があるほか、一文節が非常に長く、文章中に括弧で括るべき注釈や幾重もの入れ子構造が非常に読みづらい文章になっているのはそもそも著者の文章の特徴なのではないかと思います。
また、内容自体も裁判記録を時系列または具体的に順序だてて説明しようとする姿勢は希薄で、個々の事例について著者の見解や補足が入り乱れて記載されているため、裁判の様子を知るということよりも、アイヒマンの犯した罪についての考察が非常に多くのウェイトを占めています。
これはアイヒマンがホロコーストにどのような関与をしてどのような業務を行っていたのかを知る上では確かに詳しいといえますが、内容をいっそう煩雑なものにしてしまっていると思います。
まして、「アイヒマン調書」を既に読んでいる身としては、その殆ど全ての行為についてまたトレースする結果となり、読み進める上で非常な苦痛を伴うものでした。
とはいえ、「アイヒマン調書」を読んでいたからこそこの難解な文章でもアイヒマンの活動についての詳細が理解できるといった面もあり、そうでなければ著者の私見を含む文章の指摘内容を理解し判断することは更に困難になったのではないかと思われます。
このようなわけで本書を読んで裁判の詳細についての実際の様子を窺い知ることはかなり煩雑な作業を強いられるわけですが、やはり通常の裁判と異なり、アイヒマンの有罪は裁判をはじめる前から既に自明であり、そもそもの裁判の目的がアイヒマンに罰を下す(=死刑)、という法的根拠を与える役目が主であったことがいっそう明らかとなりました。
アーレントは本書の最後のほうで、
・他国から拉致してまで裁判にかけることの超法規的措置についての是非
・イスラエル単独でアイヒマンを裁くことの是非
について論じ、基本的にはそれを是認しているのですが、本書の発売前からそのことが論争を呼び起こし、第6版の翻訳である本書のあとがきで“炎上”してしまったことについて触れています。
戦後15年も経ってアイヒマンを拉致しイスラエルで裁判をすることについては、やはり議論の余地のある問題であっただけに、アイヒマンをめぐるユダヤ人=イスラエル人としての見解を本文で表明し、その理由を明らかにしておくことはやはり必要と考えたのでしょう。
とにかく難解な書籍ではありますが、今日におけるアイヒマン像はここが出発点となっているという意味からも、目を通しておく価値はあるといえるでしょう。
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