日記・皐月の玉井 2022(遅刻)
今年の5月は去年と違って、諸事情により慣れないエロBLで苦悶していたわけだが。そして地雷を地雷と気付けず地雷原でタップダンスを踊り、その分手足が吹き飛ぶレベルの後遺症を負った。具体的に言うとキャラ改変、特にヤンデレ化が地雷だったのだが、それを知らずにヤンデレ化した推しを書いていたら、いつの間にか大好きだったはずの推しを「ヤンデレストーカークソ野郎」と呼ぶまでに重症化していた。大好きなキャラが大嫌いになってしまうのは、やはり同じキャラを愛する人や公式など多方面に申し訳ないし、そもそも人を嫌うのは精神的なエネルギーをかなり使うから避けたい行為だ。時間が経ち、元の優しい推しの姿を見て独特な嫌悪感こそ薄れてきたものの、前回記事に書いた通り、わたしの推しCPと戯れたり推しCPと触れ合ったりすることはほぼ同サークルのフォロワーに原稿料を払うということとイコールであるため、(詳しくはこちらで→ https://note.com/ration4_love/n/n809f4a662d55)
どうしてもカネの匂いがちらついて、嫌悪感こそないが好きだとはっきり言えないようになってしまっている。前記事を読んだ方なら分かるだろうが、ヤンデレ攻めに真面目に向き合った結果離人感を引き起こしてヤバいことになったり、原稿料のことをあれこれ考えていたら救急車に乗せられたりと、今月は割と波瀾万丈な月だったと思う。こういう時、メンタルの問題ゆえ血圧や脈拍を測られても、仮に血液検査なんかをされても全て正常値と言われてしまうのが悲しいところだ。メンタルのトラブルは、目に見えた異常がない。うつは甘え理論のように、見えないからこそサボりだとか怠けだとか言われてしまうのも頷ける。エロとカネの不安感で板挟みになった結果、わたしはボーイズラブから手を引いた。書けば書くほど、自分で自分を壊しているような気がしたのだ。自分を守るための趣味で自分を壊していては本末転倒である。そもそも自分の身は自分でしか守れない。わたしは別にホモフォビアではないしボーイズラブの存在は否定しないが、描き手(書き手)としてボーイズラブ、こと18禁に携わることは今後ないだろう。頼まれても携われないと思う。やはり体質的に合わなかった。
ゴールデンウィーク。そんなものもあった。前述のボーイズラブあれこれで気はあまり休まらなかった覚えがあるが、やはり地元の景色や人々はいい。両親と猫と過ごす日々は良いものだが、やはりわたしは東京で生きていきたい。田舎は帰る場所ではあれど住む場所ではない、というのがわたしの持論だ。都内のワンルーム、賃貸の一人暮らし。朝起きると恐ろしいほどの静寂と冷えて湿った空気が漂う自室がある。わたしを出迎えるものはそれしかない。あるいはわたしが過去に買い漁った神絵師の直筆ドローイングたちやぬいぐるみたち。ペットは不可だし、とにかくわたし以外に生命と呼べるものはない。暖かく幸せな夢を見た日の朝ほど強く突き刺さる目覚めた時のこの寂寥感に嫌気がさすが、それは別に親と同居していたところで解決する問題でもないのだ。分かっている。やはり恋人だろうか。経験上、この先誰かと付き合ったとして、先に待ち受けているものは愛ではなく理不尽な暴力かもしれないという不安がある。自分の心に空いた穴は自分で埋めるしかない。他人に依存して埋めた穴は、その他人が去れば元の木阿弥であり、根本的な解決にはならない。恋愛に夢見すぎていてはいけない。所詮は他人同士であるということを忘れてはいけない。好きなタイプとか、理想の恋人像とか、そういう甘い気持ちはボーイズラブの海に潜っているうちに手放してしまった。血と汗と精液と潮(海ではなく人体から出るやつ)の匂いがする世界にいるうちに見失ったアイデンティティ。自分が自分でないような感覚。壊されたと被害者ヅラしながらも、本当は自ら壊してしまったのかもしれない。少なくとも、垢抜けたとか羽化とか呼べるようなポジティブなものではない。ボーイズラブの執筆から手を引いた時、知人から「おかえり」と言われた。趣味にしろなんにしろ、新しい扉を開くということは、旧来の自分を捨てるということに他ならない。それが合うか合わないかは別問題で、ボーイズラブはわたしの肌には合わなかった。合っていれば発作なんて起こしていないし救急車だって乗っていない。
肝心の病態だが、前述の一件から判断力が身についたと言われ、寛解に近づいているという前向きな評価をもらった。良くも悪くも症状の改善に一歩近づく経験となったわけだ。6月になり、診断書の更新は来月に迫っている。相変わらず早朝に起きるし午前中は元気がないし息切れもすごいしとにかく元気とは言えないが、まあそこそこやっている。今月もよろしくお願いします。