
赤ちゃんと食パンとジーパンについて思うこと
都会過ぎず田舎過ぎずの地方都市、その中心部から少し離れたいわゆるベッドタウン。
我が家はそこに建てられた集合住宅の、3階に位置している。
交通量の多い道路の近くだが、建物は一本裏手にあるため騒音もさほど気にならない。
徒歩圏内にコンビニも飲食店もガソリンスタンドもあるので、生活はしやすい。
1km程離れたところに警察署と消防署があるため、頻繁ではないが昼夜問わずサイレンの音が聞こえる。
建物の全戸に警備会社のセキュリティシステムも完備され、それなりの安心感のなか家族3人で暮らしている。
2020年11月半ばの日曜日。
21時を過ぎた頃か、僕は自分の入浴も終え当時生後6ヶ月の娘の寝かし付けをしていた。
どこからか消防車のサイレンが聞こえてくる。
火事だろうか、などと思いながらも特に気にすることはなく、娘の寝息に一日の終わりを感じていた。
「ピンポーン♪」
部屋内にチャイムが響き渡る。
来客の予定は無い。
時間的にも宅配便の可能性は低い。
ボタンを押した人物に一切の心当たりは無い。
(誰だよこんな時間に。寝かし付けたばっかりなのに…)
などと思いながら、室内モニターを確認する。
おかしい。
誰も映っていない。
オートロックの操作盤でインターホンのボタンを押した場合、そこにいる人物は必ずカメラに映る。
外部からの来客ではないようだ。
鉄壁のオートロックの内側にいる人物が、我が家のドア横に付けられたインターホンを押している。
隣人と味噌や醤油を貸し借りするような近所付き合いは無い。
「作りすぎちゃって…」と言いながら肉じゃがの入った両手鍋を、ミトンに裸エプロン姿で持ってくる美人女子大生の隣人もいない。
あぁ…、と想像する。
先程大泣きしていた赤ん坊の声に業を煮やした隣人が、鬼の形相で腕組みをしながらドアの外に立っている光景を。
どうしよう、とりあえず出るしかないよなー、などと妻と話しながら、万が一に備えリビングへのドアを封鎖し、僕は一人で玄関に向かう。
もちろん念には念を入れ、右手にはメリケンサック、左手には釘バットも忘れていない。
どのご家庭にも必ずある、日本古来から伝わるお馴染みの防具だ。
しかし、ドアスコープから外を覗いてみても誰もいない。
少しだけドアを開けてみるが、やはり誰もいない。
腕組み隣人も、肉じゃが美人女子大生もいない。
オートロックの内側でのピンポンダッシュなど、極刑に値する。
執行猶予など付かないだろう。
犯人を突き止めて1km先の警察に突き出してやる。
首を傾げながらもメリケンサックをポケットへ、釘バットを傘立てにしまいリビングに戻る。
「誰もいなかったわー。なんだろうね。」などと妻に言いながら、ソファに腰掛け…ようとしたあたりで
「ドンドンドンドンドンッ!」
と、誰かがドアを叩く。
かなり激しい。
思わずビクッとなる。
こうなると外にいるのは腕組み野郎でも肉じゃがエプロンでもない。
チェーンソー的な何かを持ったヤバい奴に違いない。
メリケンサックをはめ直し、釘バットを左手に持ち、シューズクローゼットに常備している手榴弾を口にくわえレンズを覗く。
誰かいる。
ヘルメットを被った人が。
学生運動の残党だろうか。
さらにドアは叩かれる。
僕はスキを見せないよう細心の注意を払いながらドアを少し開ける。
「ALS●Kです!」
頼んでない。
出前など頼んでいないし、そんな名前のラーメン屋はこの辺りにはない。
警備会社だとしても、強盗が入ったから今すぐに来てくれと頼んだ覚えもない。
ALS●Kは続ける。
「1階から火災の警報が鳴ったので、貴重品だけ持って鍵を閉めて今すぐ避難して下さいっっっ!!!早く!」
えー!!!???
いやいやいやいや!!!!
となりながらも一呼吸置き、冷静に妻に伝える。
貴重品貴重品貴重品…と唱えながら、財布とスマホと通帳・印鑑をバッグに詰める。
仕事用のノートPCも入れておく。
娘の粉ミルクの缶と毛布、オムツや着替えをリュックに詰める。
片手には未開封の食パン1袋。
「準備出来た?!」
妻に声を掛ける。
「あたしのジーパン知らない?!日中履いてたやつ!!」
「分かんない!洗濯かごは?!」
「ない!どうしよう!あ、あった!!」
何だかんだで車のキーを掴み、玄関を出てエントランスに向かう。
こんなに住んでいたのか、というくらい多くの人達が外にはいた。
どうやら僕達親子は最後の避難者らしい。
「あ、赤ちゃん。かわいい。」
誰かが我が娘を見て言う。
「こんばんはー」
誰かが言う。
「あ…こんばんはー」
僕も返す。
おや、と思う。
何だこの緊迫感の無さは。
消防士も数名いるが、ダッシュしている者も、ホースを構えている者もいない。
道路には数台の消防車とパトカー。
有事であることに間違いはないが、火事場特有の「やばい雰囲気」が微塵も無いのだ。
火の手も上がっていない。
状況も良く分からないので妻子を車に押し込み、人だかりに戻る。
近くにいた人に聞くと、空いた部屋のクリーニングに来た業者が置いて行った工具から少量の煙が立ち、警備会社のセンサーか何かが反応したようだ、とのこと。
焦げたような匂いが鼻をついた、11月の夜。
何事も無かったとはいえ、危険を知らせてくれた警備会社の方には感謝申し上げたい。
何かあったら駆けつけてくれるということを実感し、この一件以降、より安心して暮らせるようになった。
結論として、この日の出来事は生命の危機ではなかった。
が、ここで思い起こす。
緊迫した避難に際し、僕は荷物と共に食パンを持っていた。
妻はジーパンを血眼になりながら探していた。
どちらも特に入手困難な高級品でも、貴重品でもない。
消防隊の許可を得て部屋に戻った僕達は
「食パン、コンビニ行けば買えるよね。地震じゃないんだから品薄にもならないし。」
「ジーパン、それじゃなくてもいいよね。」
「いや、あなたも急いで着替えてたけど、緊急事態なんだからスウェットのままでいいよね。」
などと言葉を交わした。
生きるか死ぬかの状況下で、いかに間抜けなことをやっていたか、少しずつ自覚し始めた。
毛布さえあればとりあえず命は繋げるのだ。
小旅行のような出で立ちで外に出たことが少し恥ずかしくなった。
少々固い締めにはなるが、避難時に持っていくものは日頃から決めておいた方が良い。
特に、小さい子どもがいる家庭はなおさらだ。
確かに!ちゃんとする!と言いながらも、そのうちやろう、と先延ばしにするのが人の性だ。
先の震災でそれなりに痛い目に遭ったはずなのに、10年経つと当事者でも正しい行動を忘れてしまう。
期限が迫った備蓄用の缶詰を食べながら、14ヶ月前のそんな出来事を思い出した。
そして…僕だってたまには真面目な文章の一つくらい書けるのだ。