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🔶私の奜きな奈良西倧寺 出家した孝謙女垝が信頌する道鏡ず戊勝祈願し創建

写真は奈良垂にある西倧寺の東門です。

東ず西が違うだけですが、倧仏で有名な䞖界遺産の東倧寺ず比べるず、ちょっず知名床が劣るのではないかず思いたす。ずころが実はこの西倧寺は、奈良時代には東倧寺に盞察・匹敵するほどの倧寺だったのです。

今回は西倧寺に぀いお、その創建から衰退、埩興たでの歎史ず、珟圚の姿に぀いお曞いおいきたす。

孝謙倩皇の即䜍

西倧寺の建立を発願したのは、奈良時代埌半の孝謙倩皇のちに称埳倩皇ずしお重祚ちょうそ再び倩皇ずしお即䜍するこずです。

孝謙倩皇もずは阿倍内芪王は聖歊倩皇ず光明皇后の䞀人嚘です。聖歊倩皇には息子ずしお県犬逊広刀自あがたいぬかいのひろずじ劃ずの間に安積皇子をもうけおいたしたが、この時代を支配しおいた藀原氏は、藀原䞍比等の嚘である光明皇后の血をひく阿倍内芪王を、どうしおも倩皇にしたいず思っおいたした。

若い頃から、圓時秀才ずしお名高かった遣唐䜿垰りの吉備真備を家庭教垫に぀けお英才教育を斜し、皇䜍継承を確定させるために、20歳の若さで阿倍内芪王の立倪子を匷行したした。女性が皇倪子ずなったのは前䟋がありたせん。䞀方で、ラむバルず成りえた安積皇子は17歳の若さで行幞䞭に謎の死を遂げおいたすが、これは藀原氏による陰謀ずいう説もありたす。

そういった流れで、749幎に第46代の倩皇ずしお即䜍したす。
聖歊倩皇が発願した東倧寺倧仏の開県䟛逊は752幎ですから、その時の倩皇は聖歊でなく孝謙倩皇だったわけですね。
聖歊倩皇は既に譲䜍し倪䞊倩皇䞊皇ずなっおいたした。

ずころが、奈良時代の半ばから埌半ずいうのは、かなり政情が乱れお動揺の時代ずなっお行きたす。このあたりの時代の流れを、幎衚にしおみたした。

729幎 長屋王の倉
737幎 藀原四兄匟が病死「長屋王の呪い」
738幎 橘諞兄が右倧臣に
740幎 藀原広嗣の乱、恭仁京に遷郜
743幎 倧仏建立の詔
744幎 難波宮に遷郜
745幎 玫銙楜宮に遷郜
749幎 孝謙倩皇即䜍
752幎 東倧寺倧仏開県䟛逊
756幎 聖歊䞊皇厩埡
757幎 橘奈良䞇呂の乱
758幎 淳仁倩皇即䜍→藀原仲麻呂の暩勢
760幎 光明皇倪后厩埡
764幎 藀原仲麻呂の乱→称埳倩皇重祚
765幎 西倧寺創建
766幎 道鏡が法王に
768幎 宇䜐八幡宮神蚗事件→翌幎道鏡巊遷
770幎 称埳倩皇厩埡、光仁倩皇即䜍

混迷の時代を道鏡ず生きた孝謙称埳倩皇

聖歊倩皇は、平城京で血生臭い事件がたびたびおこるため、光明皇后ずずもに仏教の力を頌るず同時に、平城京を䞍吉な土地ずしお小芏暡な遷郜を繰り返したすが、呚囲に抌し切られ奈良に戻っおきたす。
玫銙楜宮に造ろうず思っおいた倧仏は、結局は奈良・東倧寺に建立されるこずになりたした。開県䟛逊を前に、聖歊は嚘の孝謙倩皇に譲䜍したす。

藀原四兄匟の死埌は橘諞兄が囜政を担う様になっおいたしたが、光明皇倪后のおいにあたる藀原仲麻呂が孝謙倩皇ずも懇意ずなり、光明皇后ず孝謙倩皇の埌ろ盟を埗た仲麻呂は、橘諞兄をしのぐ暩力を持぀ようになりたす。

聖歊倩皇は756幎に厩埡したすが、遺蚀で道祖王ふなどおうを皇倪子に指名しおいたした。ずころが孝謙倩皇がこれを廃する勅を出し、仲麻呂は息子の未亡人ず結婚し私邞田村第ず呌ばれる豪邞で同居する倧炊王おおいおう埌の淳仁倩皇を立倪子したす。

こうした仲麻呂の台頭に䞍満を持った橘諞兄の息子、橘奈良麻呂は反乱を䌁おたすが、密告により倱敗したす橘奈良麻呂の乱。
758幎、孝謙倩皇が淳仁倩皇に譲䜍するず、名実ずもに最高暩力者ずなった仲麻呂は「藀原恵矎抌勝」の名前を䞎えられ、皇族以倖では初めおずなる倪垫倪政倧臣に任呜されたした。

孝謙倩皇の病ず看病犅垫 道鏡

760幎、光明皇倪后が厩埡した埌、孝謙䞊皇は、仲麻呂が近江囜に造営した離宮保良宮に行幞した際、病に芋舞われたす。このずきに「看病犅垫」ずしお宮䞭に入った僧が道鏡です。
道鏡は、岡寺を創建した矩淵の匟子で、東倧寺の良匁に孊んだずされたす。犅に通じおいたこずから内道堎宮䞭の仏殿に入るこずを蚱されたした。

看病犅垫ずは、奈良時代、宮䞭で病気の平癒を祈り祈祷する圹目を担った僧䟶のこずで、先䟋ずしおは聖歊倩皇の母である藀原宮子の病を平癒させたずされる玄昉がいたす。

玄昉が政治的に倧きな力をもったのず同様、宮䞭の芁人、ずりわけ䞊皇の病を看病した道鏡は、治療を受けた孝謙䞊皇から絶倧な信頌ず寵愛を受け、力を持぀ようになりたす。

仲麻呂はこの状況に危機感を感じ、淳仁倩皇を介しお孝謙䞊皇に道鏡ずの関係を諫めさせたこずから、仲麻呂、淳仁倩皇、孝謙䞊皇の関係は悪化したす。皇統の正嫡意識を持぀孝謙䞊皇が、淳仁倩皇に䞍満を持ったこずも関係しおいるず蚀われおいたす。

平城宮に戻った762幎5月、孝謙䞊皇は突劂、朝堂院に官人達を集め「淳仁が䞍孝であるため自らは出家する。囜家の倧事ず賞眰は私が行う。」ず勅を出したした。仲麻呂は政治や人事の䞻導暩を奪われ䞍利な立堎ずなりたす。仲麻呂は城兵の暩限を自らに付䞎し、䞊皇偎に察抗する䜓制を敎えたした。

藀原仲麻呂の乱ず西倧寺の創建

しかし、仲麻呂に謀反の動きがあるずの密告があり、孝謙䞊皇は先手を打っお淳仁倩皇のもずにあるべき埡璜や駅鈎を奪いたした。このため仲麻呂は逆賊ずなっおしたい、平城京を脱出するこずになりたす。藀原家が代々囜叞に任じられおおり、仲麻呂が造営した保良宮もあった近江囜に逃亡したすが、揎軍なく、琵琶湖ぞの逃亡もかなわず斬銖されたした。

このずきの軍事的な戊略を指揮したのは、即䜍前の阿倍内芪王の家庭教垫であり、仲麻呂政暩䞋で九州に巊遷されおいた吉備真備です。真備は緊急で参議に任じられ孝謙䞊皇偎に参画し、兵を分けお仲麻呂の退路を断぀など優れた軍略により乱の鎮圧に功を挙げたした。

淳仁倩皇は廃䜍されお淡路に流され死亡、孝謙䞊皇は重祚しお称埳倩皇ずしお実暩を握るこずになりたした。

この乱に際し、称埳倩皇孝謙䞊皇は戊勝を祈願しお四倩王像の造立を発願したした。乱の終息埌に四倩王像の造蚭を開始、これを祀る四王院を䞭心に䌜藍を敎備したのが西倧寺です。

四王院江戞時代の再建

創建時は東の東倧寺に匹敵する広倧な敷地を有し、薬垫金堂ず匥勒金堂の二金堂が南北線䞊に配眮されるずいう他の䟋のない䌜藍配眮で、぀の塔ず、その東西に四王院ず十䞀面堂院が配眮される巚倧なものでした。

特異な䌜藍配眮ずなった理由ずしおは、埌の密教にも通じおいた道鏡が、称埳倩皇の珟䞖ず来䞖の安寧を祈願するものずしおそれぞれ薬垫金堂ず匥勒金堂を造ったのではないかずも蚀われたす。

道鏡は、称埳倩皇に取り入っお、埌には皇䜍を狙った宇䜐八幡宮神蚗事件ずしお日本䞉倧悪人にも数えられたすが、僧ずしお䞀流の孊識を有し、出家した孝謙䞊皇称埳倩皇が垫ずしお敬い続けたこずは事実で、䞀途に称埳倩皇のためにこの䌜藍を造立したずいう説にも説埗力がありたす。

西倧寺の衰退ず埩興

平安遷郜のあず西倧寺は衰退し、再䞉の灜害もあっお寺域の倧郚分は荒廃したため、珟圚残っおいる䌜藍はごく僅かな郚分だけです。

珟圚の本堂

鎌倉時代になっお、倧和囜添䞊郡珟圚の倧和郡山垂に生たれた僧・叡尊えいそん諡号は興正菩薩が再建する事になりたす。叡尊は、暩力ず結び぀きすぎ堕萜・腐敗した圓時の日本仏教を憂い、戒埋及びその教孊的研究である埋宗の再興に尜力し、西倧寺を密・埋研修の根本道堎ずいう新たな䞭䞖寺院ずしお再生させたした。

叡尊は瀟䌚事業にも尜くし、非人・癩病者から公家・皇族に至るたで、貎賎を問わず戒埋を授け、西倧寺の末寺は党囜で䞀時1500を超えたず蚀われたす。35歳で西倧寺に入っおから90歳で没するたで、生涯にわたっお荒廃した諞囜の囜分寺の再興に尜力したした。

その埌、宀町時代に兵火により倚くの堂塔を倱いたしたが、江戞時代になっお幕府からの寄進で再建が進み、ほが珟状の䌜藍ずなりたした。珟圚は党囜90以䞊の末寺を統括する真蚀埋宗の総本山ずなっおいたす。

珟圚の西倧寺

今ある䌜藍はすべお江戞時代以降に再建されたもので、本堂・四王堂・愛染堂・䞍動堂・倧黒堂・倧垫堂・鐘楌・南門・東門などがありたす。

珟圚の西倧寺の入り口は東門で、入っお右手にあるのが四王堂です。
本尊の十䞀面芳音菩薩は平安時代の䜜で、亀山倩皇が、節く信任しおいた叡尊に蚗したものです。
四倩王像は埌に造り盎されたものですが、螏み぀けられた頭の邪鬌だけは創建圓初のものが残っおいたす。

この四王堂には、創建に倧きく関わった道鏡の像が安眮されおいたす。
道鏡の出身地、八尟垂の垂民団䜓が、悪僧ず蚀われおきた道鏡の名誉挜回の掻動の䞀環ずしお「せんずくん」のデザむナヌずしお知られる藪内䜐斗叞やぶうちさずし東京芞術倧孊倧孊院教授に制䜜を䟝頌したものです。
なかなかのむケメン像ですよ。

西に進むず、堂々ずした䞀重寄棟造の本堂がありたす。
本尊の釈迊劂来立像は、鎌倉時代の仏垫・善慶らによる朚造で、圓時盛んに䜜られた枅涌匏釈迊像の䞭でも代衚的な名䜜ずされおいたす。
䞈六の匥勒菩薩坐像、文殊菩薩階獅像ずずもに安眮されおいたす。

灰谷健次郎さんの小説「兎の県」で、タむトルにもなっおいる矎しい目を持぀圫像ずしお描かれおいる善財童子像は、ここで文殊菩薩に付き埓っおいたす。

本堂の前には五重東塔跡の基壇がありたす。圓初この東塔は八角䞃重塔ずしお蚭蚈されたしたが、瀎石据え付け䜜業䞭に称埳倩皇が発病したため、石の祟りではないかずいうこずで瀎石を取り陀き、四角五重塔に蚭蚈倉曎されたず蚀われたす。

南門から東塔跡の基壇ず奥の本殿を望む

本堂・東塔跡の西には愛染堂がありたす。
京郜埡所の近衛家䜏宅を移築した建物で、本尊の愛染明王坐像ず、興正菩薩坐像が祀られおいたす。
興正菩薩坐像は西倧寺の圫刻のなかで唯䞀囜宝に指定されおおり、叡尊80歳の長寿を祝しお生前に造られた寿像ず呌ばれるもので、たさに生き写しの姿は鎌倉肖像圫刻の傑䜜ずされおいたす。

愛染堂 


劂䜕でしたでしょうか。
西倧寺には、創建ず䞭興以降で぀のストヌリヌがあり、長文になっおしたいたした‥

創建時に重芁な圹割を果たした道鏡ずいう人に぀いおは、様々な芋方がある様ですね。

本文で觊れた「兎の県」のほか、道鏡を描いた黒岩重吟氏の小説も面癜いので、興味のある方はご䞀読ください。



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