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息子は無だった
息子が生まれて3年たってもいまだに、「この世界に存在しなかった人間」が今、我が家に「いる」ことに不思議を感じる。
月イチくらいで定期的に不思議だなと思う。
認知していないものは存在していないのと一緒、というような話があるけども、この世すべての初めて出会う人(モノ)も出会ってしまえば、元々こういう人が存在したんだ、と意識せず受け入れることができる。
一方、我が子については、妊娠するまでは把握できる確実な「無」だったのに、うまれてきたら「無」だったはずところに人間がいる。2人しかいなかった家に3人目がいる。
いつの間にか人間が発生していて、自分の意思を持ち、喜んだり怒ったり、要求したり拒否したり。無だったのに今や嘘をつき、無だったのにカレーが好きだ。
伝わるだろうか。
夕飯を食べていたら突然、「ひとはどうして手があって持てるの」と尋ねられた。びっくりする。
四足歩行の動物にも同じように手(前足)があるけど、人間は立ち上がったから手が自由になって道具が使えるようになった、息子はコップを持ってお水を飲めるけど犬はコップ持てないでしょ?、というような話をした。
先日も「なんで夜はくらいの」と質問された。
今後もこういうことが増えるんだろうか。なんでも答えてやりたいけど不安になってきた。
上記のどちらの出来事も面白いなと思う。
子を持つかどうかの判断基準の一つに重要なのは、夫婦にとって面白そうかどうか、じゃなかろうか。
自分自身、妊活を始めるにあたって、妻を説得するのに「(面白そうだから)子育てを経験してみたい」という話をした。人間を一人生み出す理由とするにはフワフワしていて弱いだろうか。
妻は妊娠出産に不安を抱えていたのに頑張ってくれてありがとう。できるもんなら男が生めてもいいんじゃないかと本当に思っている。
いいかげんな理由に付き合わされ、この世に生み出され、これから死ぬまで数十年生きていかなければならない息子に対し、勝手に生んでスマンと申し訳ない気持ちがある。
生きてて良かったなと思ってもらえるよう頑張るから、
死ぬまでどうか楽しんでほしい。