
私のこと③
こんにちは(*^^*)
続きです。
小学校に入学した私。
入学式の日に撮ったであろう母との写真がありました。その写真も母は笑っていませんでした。誰が撮った写真だったのでしょうか?当時、父は仕事で学校行事には来ていなかった気がします。
しかし、父はカメラを持ち歩いていて、記念撮影は父の役割でしたので、時間を作って来てくれたのかもしれません。
1年生のときから母は参観日にスーツで来ていました。よく「幼稚園の先生?」と言われたそうです。私はスーツで1番にやってきて、いちばん奥に立つ母がイヤでした。
今思えば、自己愛が強かったんでしょうね。幼稚園の先生と言われて嬉しかったんでしょうね。専業主婦なのに。
2年生のとき、私は初めて忘れ物をしました。すでに完璧主義だった私は、泣き出してしまいました。友だちが集まってきて、「そんなに泣くと涙がなくなるよ」と言ってくれたことを覚えています。
友だち数人と学校を抜け出し、陸橋を通らず国道を横断して家に帰りました。母がいるはずだったのに鍵がかかっていて、また泣き出してしまいました。
泣き声や友だちの声が聞こえて、母が出てきました。忘れ物をしたことを伝えると、持ってきてくれました。
でも、私を慰めるでもなく、友だちにお礼を言うわけでもなく、ノートを渡すと家のドアを閉めてしまいました。
友だちと、また国道を横断して学校に戻りました。
読書感想文は母の言う通りに書きました。どこかへ出品することになり、日曜日に学校の先生のお宅に行って手直しをさせられました。自分で考えてないので直しようがありませんでした。
読書感想文のタイトルは忘れもしない「銀の河は光っている」でした。
本のタイトルは忘れました💦
父のエピソードも書かされました。父が小学生のとき、祖父は急死したそうです。「盛大に見送ってもらって誇りに思ったよ」と書かされました。祖父が何の仕事をしていたのかはわかりません。
なんだか美談に感じますが、その後、父は捨てられました。育てたのは、遠い遠い親戚のお婆さんでした。それ以降、父は実の母と兄に会うことはありませんでした。どんなふうに思っていたのか、聞いてみたかったです。
だいたい小学2年生が「誇りに思った」なんて言葉を使うわけないだろと、子どもながらに思っていました。
3、4年生のときのことは、ほとんど記憶にありませんが、担任の先生の家に遊びに行ったことは覚えています。
1年に1回の恐怖の「検便」!私は小さいころから便秘だったのです。
集団登校に間に合わない💦
今思えば、私は愛着障害でトラウマを抱え、小さいころから過覚醒だったのです。今でも便秘で毎日服薬しています。
5年生の夏休み、隣りの小学校で書道の練習会がありました。時間に遅れた私は「行きたくない」と母に言いました。
なぜかその時、父が家に帰ってきて、ビンタされました💢
もともと耳が弱かった私は耳が痛くなり、病院へ行きました。
6年生のとき、髪の毛を伸ばしたいと母に言いました。怖い顔で「ダメ、髪を洗うのが大変」と言われました。髪を洗うのは私なのに...
朝、鏡を見て髪の毛をピンで留めていました。「いつまで鏡を見とるんよ!」と怖い顔で怒られました。
弟は念入りに鏡を見て身なりを整え、ポーズをしていました。母はいつも「かわいい」と言っていました。
白い靴下も買ってもらえませんでした。先生に注意されても買ってもらえませんでした。
(続く)