課題を共有するということ
病気は、当事者の価値観をその生涯にわたって変える力を持つ。
しかしながら、当事者をめぐる周囲の人びとの価値観について言えば、一時的に変える力しか持たないように思う。もちろん周囲の人が家族や大切な人である場合、その人たちの価値観を長きにわたって変えることはあるだろう。
つまるところ病気による価値観形成は、その病気が自らの人生にとってどの程度の課題になるかどうかに左右されるのである。
病気になるということ
『食べることと出すこと』の著者である頭木弘樹は、20歳の時に潰瘍性大腸炎を発症した。
潰瘍性大腸炎とは、大腸の粘膜(最も内側の層)にびらんや潰瘍ができる原因不明の疾患で、難病に指定されている。下痢や下血が主な症状であり、内科的治療としてプレドニンという強力に炎症を抑える薬が処方される。プレドニンの力は大きい。
ところが、デメリットもある。
潰瘍性大腸炎の患者は、全国で16.6万人おり、人口10万人あたり100人程度である(難病情報センター)。1,000人あたりに換算すれば1人程度で、割合にして0.1%だ。
この数字は潰瘍性大腸炎という課題が社会システムの変更を求めるような重大な課題とはなりづらく、患者及びその家族の課題という輪の外に出にくくなっていることを想像させる。実際にぼくも頭木の著書を読むまでは、潰瘍性大腸炎については、その名を聞いたことがあるくらいだった。
病気前
実際に潰瘍性大腸炎を患った者には、どのような課題が降りかかるのか?
まずはビフォーの状態を聞いてみよう。
病気以後
これが潰瘍性大腸炎アフターはどうなったか?
この頭木の行動描写をいま読むと違和感がない。異常行動のようには映らない。それは、ぼくたちが新型コロナウイルス感染症で頭木と同じ行動をとるようになったからだ。
これが新型コロナ前であれば、ぼくたちの目には頭木の行動が異常行動として映り、病気のことを知らなければ「お前どんだけ潔癖症なんだよ」と揶揄したり、陰口を叩いたりしていたことだろう。
平時の異常が理解できるとき
だがいま、ぼくたちは新型コロナを経験している。
ところがだ。ぼくは悲観的な将来を見てしまう。ぼくたちはアフターコロナを迎えたときに、再び頭木の行動が理解できなくなってしまうのではないか、と。言い換えれば、感染症の危機がぼくたちの課題ではなくなったとき、頭木の行動はぼくたちの課題ではなくなり、ぼくたちの理解の枠外に放り出されてしまうのではないかと思うのだ。
頭木の怒りの声に耳を傾けてみよう。
分かち合うということ
詩人の谷川俊太郎には、「ともだち」に関する詩がある。
「カゼを引くとカゼだけではすまない人」である頭木は、谷川の「ともだち」に対して、次のように応える。
谷川は、「カゼが移ることは平気だ」と言ってくれることにフォーカスしている。一方の頭木は、「カゼが移るのを嫌がられても平気だ」と言ってくれることにフォーカスしている。
二人は表面上は相対立するものであるように思える。しかしながら、そうではないのではないか。
通常は嫌がられ、非難や拒否といった痛みを伴う出来事について、それを共有してくれる人を「ともだち」と言っている。言い換えれば、課題の共有こそが、友達の条件なのだ。しつこくなるが、ここでいう課題は、どちらかというとマイナスのイメージがつきまとうものであり、課題の共有とは痛みや苦しみの分かち合いである。
日々是修行
ぼくたちはアフターコロナを迎えたときに、再び頭木の行動が理解できなくなるだろう。
そうなることを少しでも防ぐためにぼくたちにできることは、人間関係を双方向的に再構築する努力だと思う。
それは、課題の一方的な押し付けではなく、分かち合いの努力である。
それは、絶えずお互いに相手の声を聞き続けるという努力である。
それは、よりよく生きるための訓練・修行である。
ひとは病気などの大きなイベントに遭遇したときに、価値観を大きく揺さぶられやすい。それは裏を返せば、日常的には価値観を揺さぶられるような経験をしていないということを意味する。
だが、価値観を揺さぶられる体験は日常に存在している。ぼくたちは、そうした体験を経験へと昇華させようとしていないのだ。周囲に耳を傾け、目を凝らし、感性を研ぎ澄まし、日常的に価値観を再構築していくこと。簡単なようで難しい。だからこそ、人間関係の課題は尽きないのであろう。
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